第一話 その血が喚ぶもの
第一話 その血が喚ぶもの
夜の闇が学園を染め上げる。
静寂に包まれた廊下には月の光だけが映り、遥か遠くで獣の啼く声がした。
古代文字が並んだ黒板に、血の跡が残る髑髏。
ひからびた蝙蝠の干物に、かび臭い書物の山。
生命の息吹を感じられない場所。
教師や学生が教室棟からいなくなる深夜、本来ならここを支配するのは闇だけのはずであった。
しかし時計の針が頂点を指し示したその時。
学園内に鐘が響き渡ると同時に、その気配はぐっと濃いものになる。
それが名前だけの存在でないことは、誰もが知っていた。
もっとも美しい魔女。
圧倒的な力を持つ魔女。
彼女が作り上げたこの学園は彼女の名を冠するだけでなく、いまだ彼女に支配されている。
学園にいる誰もが彼女を慕い、崇拝し、また彼女に守られているのだ。
ひとときも、欠けることなく。
偉大なる魔女。
彼女に支配された偉大なる魔法女学園。
それが――
キルケー魔法女学園である。
水滴の滴る音。
的確なテンポを刻むそれを遮るように、足音が響く。
浅い水たまりの中を、ゆっくりと歩いて行く。
地下水路の内部に取り付けられた瞬く電灯を頼りに進む。
目標がすぐ近くにいることはわかっていた。
彼女は、左手に持った鋭いナイフを握り直す。
爪と皮膚には赤黒いものがこびりついている。
ふっ、と小さく笑った。
鬼ごっこにもならない。
そう嘲笑ったようだった。
ウェーブのかかった焦げ茶の髪を、右手で払い目を細める。
『獲物』を、見つめていた。
出ておいで
優しい声。
彼女はなおも『獲物』に優しく語りかける。
痛くなんてしないよ、一瞬だ
彼女が踏み込んだ水たまりは、じんわりと血が滲む。
彼女自身の血ではない。
幾度となく血だまりを踏み越えてきたおかげで、その靴は十分に血を吸っていた。
開けた空間までたどり着くと、彼女は一つの柱の前で立ち止まる。
そしてこう言った。
どうせもう……
逃げることなんてできやしないんだから!
いやあああああああ!!
いやあああああああああああ!!
いやあああああああああああ!!
派手な音をたてて、二人はソファから転がり落ちる。
そして慌てて部屋の入り口へ向かい、競うようにして部屋の明かりを点けた。
――学生寮 レイリーの部屋――
はぁ、はぁ、はぁ……
はぁ、はぁあああ……
あはははは! 今の最高だったね~
あなたどうして笑ってらっしゃるの!?
そもそもこの映画、全然怖くないし笑えてしまうから電気を消して観ようとまで仰ってたのに……!
え? 笑えたでしょ~?
今の女の人の顔!
うっ、うぅっ……。
恐怖に引きつってるようにしか見えませんでした……!!
だからいいのに。おかしいなぁ。
人を殺していく理由も面白いじゃない?
『自分より胸が大きいから』だよ~?
その理由も寒気がします。
そんな理由で殺されてはたまったものじゃありません……。
この胸は勝手に育ったものなのに……!
そう言ってレイリーは泣きながら自分の胸を守るように抱きかかえた。
泣いてこそいなかったが、エマニュエルも同じだ。
まったくです。恨むなら遺伝子を恨んでいただきたいわ
ヴェロニカは二人ほどおっきくないからわかんないな~
ヴェロニカは楽しそうに胸を張るが、確かにどう頑張っても二人には敵わないなだらかな丘だった。
はぁ……とりあえずアニーと映画の趣味が合わないのは確かです……
アニーというのはヴェロニカのこと。
鮮やかな赤毛にそばかすという容姿から、友人たちからはそのように呼ばれている。
私も……。
気分を変えるために恋愛物とかが観たいな
レイリーは恋愛物ばかりですわね。
まあ今回については大賛成ですけれども
夫人も恋愛物好きだよねぇ。
火曜ドラマの『サチコの恋の物語』で顔真っ赤にしてたもんね!
えっ、そうだったんですか
アニー!? 人のプライベートを勝手に喋らないでくださいまし!
えぇ~?
じゃあサチコのお母さんが死ぬ場面で号泣してたことは話してもいい~?
話す前に許可を申請してくださいな!!
ま、まあまあ。
それより別の映画を観ましょう。
どこか別のチャンネルでやっていませんか?
レイリーがそう促したことで、ようやく三人はソファに座り直す。
キルケー魔法女学園黒組一年、
レイリー・ナス。
ちょっと泣き虫、ちょっぴりアンラッキー。真面目で成績優秀な魔女見習い。
キルケー魔法女学園黒組一年、
エマニュエル・トトゥ。
ブロンドの巻き髪に凹凸のハッキリした体型で同級生の羨望を集める、トトゥ家のお嬢様。
もちろん魔女見習い。
キルケー魔法女学園黒組一年、
ヴェロニカ・アルジェント。
底抜けに陽気で、底なしに残虐な変わり者。けれど変わらぬ笑顔のせいか、皆に可愛がられている。
もちろんもちろん魔女見習い。
三人は、同じクラスで勉学に励む友人同士であった。
レイリーがいったんは消したテレビを再び点けようとするが、画面にはノイズばかりが映っていた。
あれ? どうしたんだろう、映らなくなっちゃいました。
電波悪いのかな
おかしいですわね。さっきまで普通に映っていたのに……
うふふ。お化けのしわざだったりして~
またそんな――
エマニュエルが呆れた声を上げたその時だった。
と、低い音が学園内に響く。
それは学生寮の一室でテレビを観ていた三人にも聞こえた。
鐘の音……もうこんな時間だったんですね
なら仕方ありませんわ。また今度にしましょう。
今日はこれでお開きということで
ええっ。
私、こんな気持ちのまま寝なきゃいけないんですか?
安眠できる気がしません……
ふふっ。ヴェロニカが一緒に寝てあげようか~?
いえ、それも安眠できる気がしないので結構ですぅ
レイリーがまた半泣きになっていたが、夜更けの映画鑑賞会はそこで解散。
エマニュエルとヴェロニカは立ち上がり部屋へ戻ろうとする。
しかしふと思いつき、レイリーはその名前を口にした。
そういえば結局サリーは来ませんでしたね。
何をしてるんでしょう?
そうでしたわね、後から来るって言ってましたのに
新しい召喚魔法でも試してるんじゃない~?
えっ……
だとしたら、どんなホラー映画よりも恐ろしいですわ……
う、ううぅぅ……
ああっ、大丈夫ですわよ!
疲れて寝てしまっただけかもしれませんしね!
それではおやすみなさいまし、いい夢を
ホラーな夢を~♪
アニー!
そしてひとたびドアが閉まれば、レイリーの部屋は静かな一人部屋になる。
ぶるっと身を震わせて小走りにベッドへ駆け寄った。
手早く寝間着に着替え、布団の中へ滑り込む。
楽しい夢、楽しい夢
口に出して念じるが、映画の中の血しぶきばかりが目に浮かぶ。
どうして怖いと思いながら観てしまったんだろう。
後悔ばかりが襲ってきた。
明日は絶対楽しい映画を観よう……
大きな深呼吸をし、小さな声で呟く。
おやすみなさい
キルケー魔法女学園の、夜が更けていく。
しかし穏やかに眠りにつく学生寮の生徒たちに、静かにその恐怖は迫っていたのであった――。
強さを求めるもの……
理想を求めるもの……
あの人のように……強く、美しいもの
どうかアタシの声に応えて……
闇に潜む、最強の戦士よ――!!
翌朝。
まだ太陽が顔を出してそう経たない頃。
寮に絹を裂くような悲鳴が響いた。
きゃあああああああああああああ!!!!
――学生寮 エマニュエルの部屋――
っ!? な、なんですの!?
――学生寮 ヴェロニカの部屋――
むにゃ~……?
――学生寮 レイリーの部屋――
騒々しい足音と共にエマニュエルとヴェロニカが駆け込んできた。
他の生徒たちは、その声がレイリーのものだと気づかなかったのか、誰も部屋にやってこない。
レイリー?
おねしょでもしたんですの……?
うふふ。だから一緒に寝てあげるっていったのにぃ
違うんです――
レイリーはベッドからゆらりと立ち上がり、二人の前で棒立ちになった。
真っ青な顔で、自身の身体を抱えて。
違うんです……!!
……ど、どうしました?
レイリー……?
胸が……ないんです
むね?
胸が、なくなっちゃったんですよおおおお!!!!
悲痛な叫びが、再び響く。
エマニュエルとヴェロニカは壁でも触るような手つきでレイリーの胸を触る。
ほ、本当ですわ、これは見事なぺったんこ……
あはは~。
レイリーのおっぱいを触っても怒られなかったの初めて~
触られたって痛くもかゆくもありません、これじゃあ胸が存在しないのと同じですから!
今、全世界の貧乳女性を敵に回しましたわね
元から偽乳だった説は~?
ちゃんとありました!
ふかふかでした!
うっ、うぅっ……
ちょっとアニー、これ以上レイリーを泣かせないでくださいな……
あはは、ごめんごめん~
あれー? おかしいなぁ
そこへやってきたのは、頬と腕に絆創膏を貼った少女――。
サリー。おはよう~
サリー。大変ですの、レイリーが……
サリー……
キルケ―魔法女学園黒組一年、サニー・ウィッチだった。
友人達にはサリーと呼ばれているが、本名はサニーだ。
最強の戦士を喚んだはずだったんだけど……
え?
サリー、あなたまさか――
あはは。
もしかしてまた召喚魔法失敗しちゃった?
室内の空気が一気に凍る。
しかしそれに気づいてか気づかずか、サリーは笑いながら続けた。
また失敗か~。
レイリーに取り憑いちゃうところまでは予想の範囲内だけど。
『鉄壁の身体を持つ最強の剣術の使い手』を喚んだのに、影も形もないね
そして無遠慮にレイリーの身体を触る。
あっはっは、ぺったんこ。レイリーの巨乳どこいっちゃったんだろ
……ひっ、ううぅっ……
サリー。せめて謝りなさいな。
魔法が解ければ元に戻るとはいえ、心の傷は元に戻せませんのよ
ん~。
でもたまには貧乳生活を謳歌するのもいいんじゃない?
アタシもこの胸で明るく楽しく生きてるからさ~
ヴェロニカよりはおっきいよぉ
乳比べをしてる場合じゃありませんの。
でも不思議ですわね。
どうして『鉄壁の身体を持つ最強の剣術の使い手』を喚んだ結果が、貧乳になってしまうのでしょう……?
召喚した生き物が身体を乗っ取ったり、逆にそばにいた人が身体だけ召喚した生き物になったりすることはよくあるけど。
胸だけ変わっちゃうパターンは初めてだわー
召喚には失敗したけれど、その部分にだけ強い意志が働いたのかしら……
よくわっかんないや。まあそのうち戻るし、胸なら日常生活に支障ないでしょ
まあそうですわね。一応は問題がない範囲でよかったですわ
ヴェロニカは一度ふかふかになってみたいな~
アタシも。ってわけでまだ時間も早いし部屋に戻るわ。
昨晩遅かったからまだ眠いし二度寝しよ
今寝たら起きられなくなりますわよ
ふぁ~……でも眠いよぉ
それぞれが部屋に戻ろうとしたその時、部屋が重苦しい殺気で満ちる。
――待ってください
殺気の主は、先程からずっと俯いていたレイリーだった。
まさか、このままにして寝るつもりですか……
ま、まあいいじゃん。そのうち魔法の効力もなくなるって
いつになるのか、わかってるんですか……?
わかんないけどさ。数日で戻るでしょ
数日? 数日ですって……?
ピシッと不穏な音がする。
レイリーのメガネが、不気味に光った。
責任を持って戻して下さい、サニー
あ、あはは……そんなに怒んないでよ。ちょっと失敗しただけじゃん
するといつの間にやらレイリーの手にはナイフが握られていた。
ヒュヒュ、と風を切る音がして、レイリーは慣れた手つきでそれを逆手に持ち直す。
い、いつの間にそんなにナイフさばきが上手くなったのさ?
やだなぁ、アタシがレイリーを放っておくわけないじゃない。
冗談、冗談
今度はビュ、という音と共に風が吹き抜けた。
否、レイリーが持っていたナイフがその手から放たれ、サニーの頬を掠り壁に突き刺さっていた。
れ、レイリー、落ち着いてくださいまし
みんなにはわからないんです、私の気持ちは……!
ちゃんと真面目に解決方法を考えよう、ねっ!
そうです。それに、喚んだモノは報酬を与えれば元の世界へ帰っていくはず。
そのモノに満足する報酬を用意すればいいだけですわ
それそれ。ほらレイリー、何とかなりそうだよ!
本当ですか……?
うん。今んとこ報酬の心当たりがまったくないけど!
ビュッ!
二本目のナイフが飛んできた。
さすがのサニーも、顔色が青くなる。
そしてレイリーが放つ殺気は、ますます濃いものになろうとしていた。
ところがそこで、一人平然としていたヴェロニカが意外な言葉を口にする。
うーん、そのナイフさばき……。
なんか昨日も見た気がする~?
そう言われてみれば、わたくしも何だか――
あっ、わかった~! 昨日テレビで観た映画だよ。
あの殺人鬼の女の人、ナイフの扱いがすごく上手だったよねぇ
それだ!
テレビの電波が召喚魔法に干渉して、その人を喚び寄せちゃったのよ。それも身体だけ。
剣術の使い手ならぬナイフの使い手。うん、間違いじゃない
ではなぜ胸がなくなったんですの?
あっ――
自分で言っておきながら、エマニュエルは気づいてしまったらしい。
そう言えば、映画の殺人鬼も……
おっぱいぺったんこ、だったよねぇ
しばらくの沈黙ののち。
あはははは、と全員の和やかな笑い声が部屋に溢れた。
なんだ、そういうことかぁ
『鉄壁の身体』っていうのも、確かに通じるものがありますわねぇ
ぺったんこだと触ってもかたいもんね~納得納得ぅ
うふふふふ
しかし三本目のナイフがサニーに突きつけられる。
レイリーは涙目ながら、本気の顔だった。
報酬を用意してください、今すぐに
だ、だだだだって何を用意したらいいのかわかんないよ?
映画も途中で観るのを止めてしまいましたしね……。
どうしたら彼女が満足するのか、皆目見当もつきませんわ
そうだよ、殺人鬼の人が満足する報酬なんて思いつかないよ
やはり人の血でしょうか
だあーっ! やめて、ナイフを首筋に当てないで!!
そもそも豊満な肉体が憎くて殺人を犯す、という心理がわたくしにはわかりかねます
あははは。ナイフでおっぱい削いじゃえば満足するんじゃない~?
ナイフで……サリーを……
おいちょっと!
煽るな! 煽るなって!!
わかりました。わたくしが揉んで差し上げますわ。
はしたないと言われるでしょうが、友人の命には変えられませんもの
え~。揉んだら大きくなるの?
わ、わかった。アタシも頑張るよ。
レイリーのためなら手が筋肉痛になるまで揉むよ!
違います。そういう話じゃないです
ではどうしますの……!?
サリーの胸を生贄に差し出すしかありませんの!?
やめて! 胸だけ切り離すの前提に話すのやめてっ。
それにアタシの胸じゃ満足しないでしょ、夫人くらいはないと!
申し訳ないですがそれだけは……!
わたくしにも女性としての矜持はありますから……
もうみんな……やるしかないのね……!!
一転殺人現場になりかける。
緊迫した現場。迫るレイリーのナイフ。
とまで追い詰められたところで、ヴェロニカがレイリーの背後に回り、優しくトンと背中を押した。
こんな時は、みんなでふかふかすれば解決だよぉ。はい、ふかふか~
押されてレイリーが寄りかかった先は、エマニュエルの胸。
豊かな膨らみにはちょうどレイリーの顔がフィットし、ふかっと収まった。
あ――
あっ……
一瞬のことだったが。
柔らかなクッションに包まれて、レイリーの表情は穏やかに変化した。
ように見えた。
そしてその瞬間、太陽が顔を出した瞬間のように部屋は光に包まれ。
レイリーが握っていたナイフは消え。
ぺったんこになった胸は、元通りの膨らみに戻っていた。
あああ……!!
元に戻った……!
あらら~
なんてこと……本当にふかふかするだけで、満たされることもあるんですの……
きっとおっぱいのホントの良さがわかったんだよ。
憎むべきは巨乳じゃない、って――
うんうん~。ヴェロニカもふかふかしてると嫌なこと忘れるよぉ。
ふかふかは世界を救うんだよ~
皆が清々しい顔でレイリーを囲み、事の解決を祝う。
笑顔が溢れ、全員がふかふかを褒め称える。
そうですね。憎むべきは胸じゃありません。
憎むべきは――
と、そこでレイリーがナイフに代わって取り出したのは、魔法書。
サリーの行いですね
レイリーを中心に風が渦巻き、魔法書がパラパラとめくれていく。
ちょ、ちょっと待ったぁ! 寮での魔法は禁止でしょ!?
使用許可を申請しておきます
レイリー、許可は事前に申請しませんと……!
わお、修羅場修羅場~。でもヴェロニカ眠くなったから部屋に戻ろっかな
はい、おやすみなさい
まあ毎度止められているのに、成功したことのない召喚魔法を使うサリーもサリーですわね……。
というわけで頑張ってくださいまし
えぇ!? 二人とも見捨てないでよ!
大丈夫です、サリー。
私はサリーのこと大好きですし。
痛くなんてしませんから、一瞬です
――その後。
三日間、胸に鉄板が貼り付いたままのサニーの姿が見られたという。
『ふかふかは世界を救っても、アタシを救ってはくれなかった』
のちにサニーは、そのように語った。
戒めよ明けない夜明けに 潜みし闇に
暗い暗い森の中
嘲笑う者は誰 蔑み嗤う者は誰
鬱積し漆黒の憎悪に
解放の機会与えん
――キルケー魔法女学園 校歌