陸はとても喜んで、わたしを案内した。予め相当に下調べをしたようで、何を見たいと言っても、迷うことなくわたしを導いた。

ここまでの気合いの入りようは、気まずいを通り越して逆に感心する。

そして一通りの展示を見終わると、わたしはお手洗いに行くと言って陸から離れた。

はい

と笑顔で言った陸は、まるで忠犬のよう。自分の行為が期待を持たせているようでなんとなく罪悪感を覚える。

今日、ちゃんと断ろう――と、この時はまだ、そう思っていた。

用を済ませて元いた場所に戻ると、陸の姿が見当たらない。しかし、代わりに知っている声が聞こえてきた。

先輩、見て見て、あのクラゲかわいー

幻想的なクラゲの水槽を指差してはしゃぐ泉。その傍らには、部長。二人は恋人のように腕を絡め、寄り添っている。そこはもう既に二人の世界。

わたしは咄嗟に、二人の後ろ姿から目を逸らした。
こうなることは、ずっと分かっていたはず。それなのに、この胸に押し寄せる感情は。

紗己子

ずるい。わたしだって……

運命はいつも、わたしの目の前に残酷な現実を突きつける。

父はわたしを愛さなかった。
母はわたしを残して死んだ。
好きな人は親友を好きになった。

この虚しさは誰にも分かってもらえない。

わたしは、その場から無意識に逃げ出していた。

それは単に二人を見たくなかったのかもしれないし、衝動的にどこか遠くに行きたくなったのかもしれなかった。

あ――先輩!

少し歩いたところで陸に行き合って、わたしは幸いにも我に返った。
こんな感情は、悟られてはいけない。

大丈夫、笑える。いつものように。

すみません……ちょっと売店行ってました

紗己子

大丈夫だよ。何か買ったの?

手、出してください

陸は売店の袋からキーホルダーを取り出すと、わたしの手のひらにのせる。
それはクラゲを可愛らしくデフォルメしたもので、光が当たるときらきらと光った。

実物も確かに綺麗だった。だけど、思いだそうとすると、泉と部長の姿がちらついて邪魔をする。

先輩に似合うと思って

紗己子

いいの? ありがとう

いらない、なんて言えないから、わたしは少し眺めた後早々に鞄にしまいこんだ。

クラゲと言えば、ですけど。クラゲの水槽のところで柏木先輩と部長がいて……あの二人、付き合ってたんですね。びっくりしました

今一番口にしたくない話題。見てしまったなら、話したくなるのはわかるけれど、心にもない笑顔でいるのはそろそろ限界だった。

紗己子

……そうだよ、この間から。お似合いだよね。羨ましいな

先輩はああいうカップルが理想ですか?

紗己子

そうだね、憧れるなぁ。わたし、年上が好みなの。だから申し訳ないけど、やっぱり――

先輩って――

改めて告白を断ろうとしたことに気づいたのか、陸はわたしの言葉を遮り――そして、何故か妖しげに言った。

何が目的? 本当は部長が好きなのに、俺にもいい顔して。それとも、単に無自覚なんですか?

一瞬にして、鈍器で頭を殴られたかのような衝撃。

まあ、そういう先輩を好きになったのは俺なんですけどね

紗己子

…………何言ってるの。意味……わかんないよ?

なんとか震える言葉で返しても、頬が引きつってうまく笑えない。

どうしよう。
どうして。なんで。

取り繕うのは得意だった。誰にも気づかせたことなんてない。
それなのに、きみは。

知らないふりしてるのは、先輩でしょ

次の言葉を必死に探すわたしを見て、陸はくすりと笑みをもらす。

そして次の瞬間――

紗己子

……!

柔らかいものが、わたしの唇に触れた。
ほんの一瞬の不意打ち、それはすぐに離れて、何事もなかったかのように目の前にある。

紗己子

し……椎名……くん?

だけど、確かに残る感触。
今、間違いなく、陸の唇がわたしのそれに触れた。

心配しなくても、先輩の秘密は誰にも言わないよ。先輩が誰を好きでも、俺は先輩が好きだから

恋は盲目とは言うけれど、陸が好きなのは見せかけのわたし。
本当のわたしは、どす黒い感情で溢れ返っている。

だから、少し想像してしまった。
姉と弟――全てを知ったら、きみはどんな顔で絶望するだろう、と。

気持ちを見透かされた動揺の中で頭をよぎった、愚かしい考え。
それは、手にしてはいけない禁断の果実だ。

ああ、でも。なんて、美味しそうなんだろう。

好きになってなんて、贅沢は言いません。俺が好きでいるぶんには、問題ないでしょ?

健気なのか、独りよがりなのか。甘い綺麗事ばかり吐き出すその口にやはり苛立つ。
少しは落ち込んだそぶりも見せればいいのに、そんなところは全くない。

むかつく。
もっと傷つけばいい。
絶望すればいい。

紗己子

そこまで言うなら、試してみる?

え?

目を見開いて、驚いたような陸の顔が可笑しい。

紗己子

見返りを求めないなんて、虚しいでしょう? わたしを本気にさせたら、きみの勝ち

きみを好きになるなんて、天地が引っくり返っても、ない。

だけど、好きになったふりならできる。
優しい先輩が、優しい彼女になる。

どうして今まで考えなかったのだろう。
それが一番、きみを傷つける効果的な方法だ。
道徳や倫理を犯す、覚悟さえあれば。

いいんですか? 俺、本気にしますよ

紗己子

……いいよ。部長のこと、忘れさせて?

都合よく優しい男にすがる、傷心の女のように微笑む。忘れてしまいたいのは、嘘じゃない。

だけど、かわいそうな子。この勝負は初めから、どちらに転んでもきみの負けが決まっているのに。

帰りの電車の中、夕焼けに染まった湘南の空が遠ざかっていく。

隣に座った泉は、始終ご機嫌だった。
付き合い始めたばかりの彼氏との初旅行は満足のいくものだったようだ。
のろけたくて仕方なさそうな泉だったが、わたしに気を遣ったのか部長とのことはあまり話さなかった。

ねぇ、紗己子は今日どうだったの。水族館で椎名くんといたでしょ。もう告白された?

不意に直球がきて、どきりとする。

紗己子

そんなんじゃないよ、本当に。弟みたいな感じ

でも絶対、紗己子のこと好きだと思うんだよね

紗己子

そうかなあ

もう。紗己子ったら

陸とわたしの関係は誰にも言わない。それがわたしが陸と付き合う上での条件。
無自覚小悪魔だと言うなら、そう思わせとけば良い。どうせ長くなる関係でもないのだし。

紗己子

わたしのことより、泉はどうだったの。キスくらい、したの?

からかうように言えば、純情な泉は顔を真っ赤にして俯く。
そしてぽつぽつと語りだした惚気話を聞きながら、わたしは自分が意外と冷静でいることに気づいた。

不思議とあの焼けるような嫉妬は感じない。ただ自分との違いに笑えてくる。
 
復讐の先にあるのは、幸せなんかじゃない。
そんなことは分かっているけれど、許せなかった。

きみだけが、幸せになるなんて。

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