第3話

夕立。







































































ひと雨来そうね


午後の波に一段落ついた頃、
マスターは空を見上げてそう呟いた。




鉛色の空は
硝子越しであることを除いても

どこか歪んで見える。




ゆっくりと流れる雲が
生き物のように姿を変えていく。







マスターは嬉しいでしょう?
お客様がいらっしゃるから





この店は
雨の日にお客様が増える。


何故かはわからないけれど。



……そうでもないわ

私の言葉に
マスターは淡く笑う。












いつも思うのだが
マスターは客足が伸びるのを
あまり喜ばない。


それは決して
雨の日に客が増えると
店の中が汚れる、とか

そういう意味ではないと思うけれど







伸びても伸びなくても構わない、と
そう思っている節がある、

……ような気がする。










激しい雨の日は
お客様もそれなりだから

激しい……お客様、
と、いうことですか?

ええ




激しいお客様というのは
どんなものだろう、と考えを巡らす。


気性が激しいということだろうか。

























そんなことを考えていると、
ふいにマスターが、

朔良、今日はお帰りなさい

などと言い出した。


え?

バイト代を削ったりはしないから

いえ別に……
そこは心配していませんけれど





お金に不自由していないと言えば
嘘になる。

が、
すぐに生活が困窮するほどの
ものでもない。






それよりも

バイトの終了時間までは
まだ3時間以上あるのに。

お客様が来るのがわかっていて
早退するのは、


どうせ早く帰ったところで
ひとりきり。


だったら
忙しさに追われているほうが
ずっといい。






そう
思うのだけれど。

……

朔良

マスターは私を「朔良」と呼ぶ。


「朔良」と呼ばれると
蘆屋を思い出す。









音の響きだけなら「桜」に通じる。



下の名で呼ぶよりも
苗字に「さん」付けで呼ぶよりも


「さくら」と呼び捨てたほうが
風情がある、なんて
思ったのかもしれない。







やっぱり今日はお帰りなさい



そう言うと
マスターは鳥籠の蓋を開けた。
フォグが眠そうな顔で私を見る。

……まだ外は明るいですし、
寝かせておいてあげて下さい




日がな一日眠って過ごしている
この店の
招き猫ならぬ招きインコは

わずかに私を見、
また羽根の中に顔を埋めた。





この鳥は時折
言葉がわかっているのではないかと
思うことがある。




……仕方のない子ね


マスターのその台詞は

果たしてフォグに言ったのか
それとも私に向けられているのかは
わからないけれど







彼女はフォグを取り出すことを諦め
鳥籠の蓋を閉めた。










お帰りなさい。
雨が降る前に

……はい



私がここにいると
なにか良くないことでも
起きるのだろうか。


マスターは
性急に私を追い立てる。
















そんなとき

ふと、思い出したのは







あの、消えて行った猫。















特に
なにかあったわけではないが、





あの猫が消えるまで
フォグは



ずっと

私の頭の上を離れなかった。




























































空は
いつ降りだしてもおかしくないような
重い色の雲に覆われている。



今が昼なのか、
夕方なのかすら
わからなくなってしまいそうな

そんな、空。


でも本当にいいのかなぁ




あの店の普段を思えば

忙しいと言っても
たかが知れているけれど。





















空気が、まとわりつくようなものに
変わってきた。

もうすぐ降るかもしれない。






私は鞄を見る。

底に
折り畳み傘があるのを確認する。








蘆屋の選んだ花模様ではない
薄いピンクの無地の傘。



























叩きつけられるような激しい雨なら
簡単に壊れてしまうかもしれない。


早く帰ろう


















































あの、すみません



急ぎ足で歩いていると
後ろから呼び止められた。

 ……はい?



思わず足を止めてしまったのは
その声が女の子のものだったから
なのかもしれない。



たとえ道を聞かれるだけとしても

こんなひとけのない場所で
知らない男の人に話しかけられるのは
抵抗がある。












断っておいてなんだが、
こんなときは

心強いボディガードの存在が
懐かしい。























振り返ると
鮮やかな紅い番傘が目に入った。

よかった。
止まってくれた

肩までの髪。
番傘と同じ紅い色のかんざしの
女の子が立っている。


歳の頃は私より下。

もしかしたら
まだ学生かもしれない。

なにか?


和装で働いている自分が
言うことではないが、
着物に番傘の彼女に違和感を感じた。



それは彼女が
着物を着る機会のなさそうな
年齢に見えたからなのかもしれない。


着物を着るのをためらうような
天気だからなのかもしれない。





これが
母や祖母の年代なら
和装でも
なんとも思わないのだろう。



















彼女は紅い番傘をくるくると回す。

ちょっと道に迷ってしまって。
道案内してくれません?



紅い傘を彩る花びらの模様。

私の
蘆屋が選んだあの傘とは
違う花。

道、案内……?

迷ってるの



道に迷ったのだろうか。

確かにこんな
目印らしいものもない住宅街では
迷うかもしれ――

バイト早退したから
暇あるでしょ?

……!

驚いた。


何故、私が早退したことを
知っているのだろう。


いや、その前に
私があの店で働いていることまで
知っている口ぶりだ。


以前、
店に来たことがあるのだろうか。

……


その時は彼女も
洋服だったのだろうか。

記憶にない。







そうこうしている間にも

彼女は私の手を引く。

旅は道連れって言うでしょ?

旅?

あはははは。
言葉の綾

なんだろう。調子が狂う。



































































……あ、あれ?





ここは、どこだろう。

私は目を疑った。





さっきまで踏みしめていた
アスファルトの道は

湿り気を帯びた
砂利道に変わっている。




空を切り取っていた電線もない。

等間隔に並んでいた電柱もない。

もちろん、
車など走ってはいない。






















ただ

空だけは、同じ。







































と、思いきや
空から一滴、冷たいものが落ちて来た。


それは瞬く間に
ザアザアと激しく打ちつける
滝のような雨になる。








あ、こっちにお入り



折り畳み傘を出そうとする私に
彼女は自分の傘を差しかけた。


傘の柄が当たって
折り畳み傘ごと鞄が落ちる。

あ……っ

綺麗でしょう、この傘



鞄を拾おうとする私の腕を片手で掴み
もう片方の手で
くるくると彼女は傘を回す。

ちょっ……鞄が

桜の花



私の抗議と動きを封じて
彼女は舞うように傘を回す。


くるり、くるり、と


雨の下で、桜の花が舞う。








いいでしょ、「朔良」?

!?

なぜ、名前を?

知ってるわ。
さまよう想いの名前だから

さまよう……?



なにを言っているのだろう。
私は彼女を見た。

紅い傘の色を反射して
彼女の頬にも紅が差す。

そう

迎えに来たの。
「朔良」

彼女に掴まれた腕が冷たい。

道に……
迷っていたのでは、ないの?

迷っていたのは
あなた



なにを、言っているのだろう。


私はなにも……

にゃあ

あの時の……!



あの夜、目の前で消えた子猫が
彼女の足元から私を見上げている。

迎えに来たよ、とでも言いたげに。

行きましょう

何処へ

迷うもののない世界へ

捨てた男のことなど
忘れてしまえばいい

ま、待って!












そのとき脳裏に浮かんだのは
何故か
蘆屋の顔だった。



私を捨てたあの男の……。




















ここにいても辛いだけ

忘れちゃおうよ、「朔良」

彼女はそう言いながら
道を歩き出す。


その足取りはしっかりしていて
とても迷っている人のものではない。






どういうこと?


迷っていたのは
道案内が必要だったのは



この子じゃなくて、私――?
















そんなとき
羽音がした。

きゃっ!

ピッ!!

フォグ!



白い鳥が
彼女の顔の前をかすめた。







驚いた彼女の手から番傘が落ちる。


くるくると回っていた桜の花びらが
番傘の中から飛び出し、

そのまま無残に
砂利に叩きつけられていく。


ピーッ!

う、うん


私は落ちていた鞄を拾い上げると、
慌ててフォグの後を追う。






後ろのほうで
彼女がなにか言っていたけれど


構わずに、私は走り続けた。






































































































どうやって
帰って来たのかわからないけれど。





気がつくと
彼女が声をかけて来た道にいた。

砂利ではなく、アスファルトの。





雨、が













あれだけ激しかった雨は
いつの間にか止んでいた。













……今の、なんだったんだろう

フォグ、
なにか……知ってる?

チッ

























……あ、傘



何処かで落としたのだろうか。


ピンクの折り畳み傘だけが
なくなっていた。

蘆屋の傘じゃないだけまし、か



何気なく呟いて





何故、そんなことを思ったのだろう、
と思う。



蘆屋の選んでくれた白い傘は
捨てようと思っていたのに






自分で買った傘よりも
あの傘を失わなかったことに

安心している、なんて。




未練がましい……












































夕立。

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