第6話

時雨。




































雨が降る。



歌われている失恋の分だけ
恋に破れる誰かがいて


歌われている恋の分だけ
立ち直っていく誰かがいる。



でもその隙間には
立ち直れないまま堕ちていくひとも
いないわけではなくて































どこかで、鈴の音がする。


雨の中でさまよっていたときに
聞いた音。

私を、あの店に導いた音。

不思議なお客様を呼び寄せる音。

ネコ耳の彼女の故郷で
聞かれている音。











花びらが舞う。


私の白い傘に描かれていた花模様。


紅い番傘の上で回っていた桜。

雨に打たれて
砂利に叩きつけられた花びら。










雨……?























ここは、私の家……?



暗い。
いつの間にか
夜になってしまっていたのだろうか。


電気、つけないと

私は
のろのろとスイッチに手を伸ばした。



その時――。

え?
スイッチ押してな……





眩さに思わず目を瞑る。








真っ白な視界の中で
誰かがいる気配がする。


その誰かは
ダイニングの椅子を引き
ばさり、と重そうな音を立てて
なにかを置いた。



慣れている。
この家の中を知っている動きだ。










でも

知っているのは……











蘆屋!?

そこに立っていたのは蘆屋だった。

帰って来たの?
でもあの人はまだ帰れないって、



私の声を無視して
彼は扉のほうを振り返る。

……散らかっているけど

ええ~? 綺麗じゃないですか~

朔良さん、几帳面そうだもんねぇ

うっわ! 見て見て!
指でつつーってやっても埃つかなーい!

どうしてあの女が!?

蘆屋!
これってどういうこと!?
どうし、



同じ部屋の中で叫んでいるのに
彼女も私を無視する。

でも朔良さん、
行方不明とか、心配ですよね



私の声が、聞こえていない……?

いやその前に
私が行方不明ってなに!?

里帰りとか旅行とかじゃ
ないんでしょう?

……そうだな



どれだけ声をあげても
ふたりには聞こえていない。

ふたりの前に出て行っても
彼らは私に気がつかない。



どういうこと?
私は、ここにいるのに。
























蘆屋は自嘲気味に笑う。

ハハッ
放ったらかしにする男に
嫌気がさしたのかもな

蘆屋さん……

悪いな。
何度も伝言持って行ってくれたのに

何度も?
何度もなんて聞いてない!



聞いたのは
「帰れない」という2回だけ。

何年もの間で2回だけ。




もし蘆屋が
何度も伝言を頼んだというのが
確かなら

その伝言は
この女が握り潰していた、と
いうことになる。

聞いてない……!!



叫んでも
叫んでも

私の声は蘆屋に届かない。

寝る間も惜しいくらい
忙しいかったんですもの。
これっくらいお安い御用です

時差があるから
電話しても寝てるだろう、
なんて言っちゃってさ

やっさし~い♪

でも今思えば、寝ててもいいから
電話するべきだったんだろうな



溜息をつく蘆屋の腕に
女は自分の腕を絡ませた。

ほら、今日は忘れて
飲みましょうよ!

おいおい、介抱はごめんだぞ

大丈夫! あたしお酒強いから!

朔良さんって
お酒飲めなかったんでしょ?
今日はあたしがひとり寂しい晩酌の
お相手してあげま~す!

そう言うと彼女は
手にしていた紙袋から硝子のボトルを
取り出した。

じゃーん!
ボージョレヌーボー!!

へぇ、わざわざ買ってきたのか

レニエ……
凄いな! 
クリュ・ボジョレーじゃないか!

ボトルを見て
蘆屋が頬を緩ませる。


私にはさっぱりわからないけれど
きっと高いのだろう。

じゃ、なにか肴でも……

あ、あたしが作りまーす!

朔良さんは
作ってくれなかったでしょ?

家飲みはしなかったからなぁ
あいつ飲まないし

我が物顔でキッチンへ消える女。

その女が手渡してくるグラスを
蘆屋はカウンター越しに
受け取っている。



その様子はあまりに自然で、




あまりに、

入り込む隙もなくて。















まるで



夫婦のようで……






































気がつくと
また知らない場所にいた。

まるで水墨画のような風景が
広がっている。




そして私の前には
……あの彼女が立っている。

共にいようと言った誓いが
こんなにも簡単に
崩れてしまうものだったなんて



それは
あの時彼女が語った話の一部分。




想う誰かのためなら
自分はずっと
明けない夜にいてもいい。


でも


その相手は自分ほど
自分のことを想ってはいない、と。

あなた……は……



私は彼女に
そんなことは
よくあることなのだと言った。


失恋に悲しむのは
自分ひとりではない、と。

これでも、よくあることで
済ませられるの?

違うわ、あれは夢よ。
だって声も通じなかったし

夢、で済ませてしまっていいの

……



蘆屋にもあの女にも
私の声は聞こえていなかった。



だから夢だ、と
そう思うのは尚早なのだろうか。






失恋は多くの歌で歌われるけれど



だから、

「よくあること」

でまとめてしまうのは……

私は……嫌、

嫌よ……






だったら
忘れちゃいなよ、朔良



別の声に振り返ると
紅い番傘が目に飛び込んできた。

あんな男、忘れちゃえばいいのよ

そうだよ、忘れちゃえばいいんだ

更にもうひとり。
ネコ耳の彼女も。













ね? 行こう

行こう、一緒に



彼女たちは手を差し伸べる。

……



あの手にすがってしまえば
楽になれるだろうか。

逃げたいんでしょう?
現実から



忘れて、しまえるだろうか。

……









なにもかも。








……そう、ね



私が彼女たちのほうに
1歩
足を踏み出したその時、


水墨画のような建物の中から
女性が現れた。











彼女は手すりから
下の水面に目を落とすと
小さく
歌のような言葉を呟きはじめる。

夏衣、薄き契りは忌まわしや。
君が命は長き夜の……



風に、蝶の形のかんざしが
しゃらしゃらと音を立てる。


あの店で私がつけているものと
同じ形のかんざしが

あれは……私?



違う。
あの喫茶店での自分に似ているけれど
あれは私ではない。

そんな記憶はない。








ではあれは……?

















そう思っていると
もうひとり、女性が姿を見せた。

いかに申し候。
都より人の参りて候が

どうやら侍女のようだ。


最初の女性は
その姿に、弾かれたように顔を上げる。

……この年の暮れにも
御下りあるまじき候


もたらされた伝言に
彼女は落胆の色を浮かべた。




















彼女は遠い空を見上げる。

恨めしや
せめては年の暮れをこそ
偽りながら待ちつるに

さては真に変わり果て給ふぞや



その空の下に

彼女が待っている誰かが
いるのだろうか。












花びらが舞う。



白い、白い
雪のように白い花びらが。






ああ、あれは桜だろうか。

あの日、番傘からこぼれて
砂利に叩きつけられていた、あの……







































































暗い。


閉められた障子が
青白い月明りに
染まっている。


ここはどこだろうか。
先ほどの女性はどうしたのだろうか。












暗い中で目を凝らすと
部屋の中で
誰かが座り込んでいるのが見えた。




無残やな。
三年過ぎぬる事を恨み

引き別れにし妻琴の
終の別れとなりけるぞや……


烏帽子姿の男性だ。
部屋の中央にひとつ敷かれた
布団の傍らに座り込んでいる。










その布団に横たえられているのは
あの女性のようだ。



肌の色は蝋のように
あの散っていった花びらのように



白い。


死ん……じゃった、の?




空気は冴え冴えと冷たく

月明かりは蒼く




烏帽子の男性は黙ったまま
手にしていた白い布を
彼女にかける。












なんの音だろう。
障子の向こうでなにかが聞こえる。




その音に気を取られていると
ぼうっ、と白い光を感じた。

その光はおぼろげなまま
ゆっくりと形を成していく。



標梅花の光をならべては
娑婆の春をあらわし……



泣き崩れる男性の傍らに
敷かれた布団の枕元に

あの女性が立っている。




彼女が立っていることも
彼女が喋っていることも

男性には届いてはいないらしい。


夢ともせめてなど
思い知らずや

怨めしや……





その姿は
陽炎のように

薄く

儚く


消えていった……







































……似ている。



声が届かなかったのは
姿が見えなかったのは



もしかしたら

夢だったわけではなくて







































さあ、行こう

腕を引っ張られて我に返った。

紅い番傘の彼女が、私の腕を掴んでいる。

楽しいよ
なんにも心配しなくていいんだ

ネコ耳の彼女が笑う。

……あ、私、は

一緒に帰ろう

帰るって……どこへ

辛いことのない世界へ

ママのおなかの中みたいに
あったかい世界だよ

さあ






彼女らと一緒に「帰った」ら
私はどうなってしまうのだろう。











……帰らない

帰らない、わ

私が帰るところは
そこじゃない、と思うの




私の返事に
彼女らは顔を曇らせる。

……

どうして?
どこかへ行って
しまいたかったのではないの?

どうして
辛いところにいようとするの?




雨が降る。

なにもかもを洗い流すように。



雨に

閉じ込められてしまうわよ



そうかもしれない。



でも

……止まない雨はないわ



きっと。













辛いのに?

楽しくないのに?

そう……
かもしれないけれど

それでいいの?

わからない。でも

もっと辛いことは
いくらでもあると思うから




























どこかで鈴の音がする。









鳥の
羽ばたく音もする。








































時雨。

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