第1話

涙雨。

























失恋した日は、雨が似合う。



この降りしきる雨が
涙になって

未練も思い出も
全部流してしまえばいい。













そう思うひとは
世間には
掃いて捨てるほどいるようで

そんな失恋ソングも
数多く存在する。





つまりは、

珍しくない……って、こと

だと言い換えることができる。









でもいくら
今更珍しくもない感情のひとつ
だからと言って


「はい、そうですか」

終われるものでもない。


































あれは、3年前のこと。




















アメリカに行くことになった

同棲していた蘆屋(あしや)が、
突然そう言った。


アメリカ……?

私たちは
結婚を前提につき合っていて
入籍ももうすぐだと思っていた。

そんな折の転勤。

これはチャンスなんだ

お、お正月とかには
帰って来るんでしょ?

……

いや

3年も?
行ったっきり?

朔良(さくら)、

わ、わかってる、けど……

蘆屋の言いたいことはわかる。
でも……







すまない
3年だけ待ってくれ









そうやって出て行って――































蘆屋さん、帰れなくなりました

え……

3年が過ぎたある日

会社の部下だという女性が
訪ねて来た。




「帰国が延びたから」と
彼からの伝言を持って。


待っていて、だそうです

……




ありえない。


と言うより
どうして自分で言ってこないのだろう。
手紙でもメールでも
ハガキの1枚でも構わないのに。


それでは

……








まさか、3年の間に
アメリカの生活が
楽しくなったのだろうか。

新しい彼女でもできたのだろうか。



別れよう、なんて言いづらいから
あんな代理を
送り込んできたのだろうか。







いや、あの女
妙に晴れ晴れしい顔をしていた。

もしかして
あれが蘆屋の新しい彼女、とか?




あんなチャラそうな……





私が、地味だから……?







考えれば
未だに苗字呼びというのも
怪しい。


彼は本当に
結婚する気があったのだろうか。
































そして、










それ以来
蘆屋からはなんの連絡もない。























……なにか、聞こえた



アスファルトに叩きつけられる雨を
掻い潜るようにして

小さく
鈴が鳴る音が。






こんな
雨しかない場所で……


































――母に言われた。












今の時代、連絡する手段なんていくらでもあるでしょ?
なにも言ってこないなんて……

うん
ちょっと誠意がないと言えるなぁ

メールも○INEもつながらないなんて、おかしいわよ絶対!

だから隆さんのほうが身元もしっかりしてていいわよ、ってあれほど、

うるさいなぁ!
相手は自分で決めます!!

そうやって自分で決めたから今こうなってるんじゃないの!!












































私、間違ってたのかな……。
































































あれ?
ここは……どこ?



雨の中をあてもなく
さまよい過ぎたのだろうか。



ふとまわりを見ると
見覚えのないビルが立ち並んでいた。


どれも同じような鈍色で、
ただ、壁のように。
















ビルの他にはなにもない。

場所を示す標識のようなものも、
バス停も、信号も。


こんな天気だからだろう、
ひとの気配もしない。



……迷った?




でも、ひとの足で行ける範囲など
たかが知れている。

と、私は思い直した。





帰りたいなら
今来た道を戻ればいい。
どこかで曲がった記憶もないから
ただずっと真っ直ぐに。




そうすれば
先ほど降りた駅があるだろうし





それに














戻れなければ、それでもいい




どうせこの先生きていたって
楽しいことなどないのだから。


























……また




こんなビルばかりのところで
なぜ鈴の音が聞こえるのだろう。


こんな激しい雨の中で
なぜあんなに
小さな音が聞こえるのだろう。






私は、
音が聞こえたほうに足を向けた。

























































音に導かれるまま辿り着いたのは
蔦の絡まる古びた建物だった。


窓には蔦が絡みつき
覗き込まなければわからないくらいに
窓の向こうは薄暗い。


……


ふわりと珈琲の香りがする。


喫茶店……

……




ああ、どこまでも
テンプレどおりで嫌になる。

失恋に喫茶店。
安っぽい恋愛小説の序章に
もってこい。




そう、
この年季の入った飴色の扉を押すと
まるで
「お入りなさい」と言うかのように
するりと開いて


ドアベルがひとつ、

と、鳴るのだろう。






……




名も知らない町にまで
馬鹿にされているようだ。



そんなにも
この胸の痛みは

どこにでもある些細なこと
なんだろうか。





それならそれでもいい。





大勢のひとが
同じように雨に打たれて
同じようにさまよって
同じように喫茶店に辿り着いて

それでみんな立ち直って行ったのなら




きっと私も、立ち直れる。

テンプレどおりに。

















































テンプレ通りの喫茶店は
中身もテンプレのままだった。




飴色のカウンターと椅子。
少し苦みがかった珈琲の匂い。

かすかに聞こえるのは
溜息が漏れるような失恋の歌。









あとは……


あらあら
可愛らしいお嬢さんね

……



違った。














おかしい。
こんな古びた喫茶店には
髭を生やしたマスターが

カウンターの向こうで
珈琲メーカーに
お湯を注いでいるものなのに。



それでなにも言わないで、

と、
珈琲を出してくれるものなのに。



私は
白いカップを満たす
漆黒の液体を口に含んで、

「苦い」と
思うものなのに。






ほら、ぼうっとしていないで
こちらへいらしゃい

立ち位置でいけば
マスターなのだろうと思われる女性が
私を手招く。

あ、あの

今日も来ないのかと思ったわ

今日、も?








面食らう私を
その女性は、店の奥へ誘った。














































あの、
この格好はいったい……

お給仕の服よ?
とってもよくお似合い

お給仕?

ということは
これはウェイトレスの制服のつもり
なのだろうか。






しかしこれはどう見ても和服。

金糸銀糸で刺繍が施され
かんざしも蝶をかたどった
艶やかなものだ。


これで珈琲を運ぶなんて
恐れ多いこと、


……私にはできそうにない。


あの、

はい、
持って行ってね

差し出されたのは
トレイに載った珈琲カップ。



ごく普通の。

珈琲、

……冷めないうちに







新手の
コスプレ喫茶のような
ものなのだろうか。




きっとこの人は
私がアルバイトに応募しに来たと
勘違いしているのだろう。


張り紙は見なかったけれど
もしかしたら
貼ってあったかもしれないし、
求人誌で募集していたのかもしれない。








そんな心境ではないけれど
少なくとも気は紛れる。

普通のバイトではまず考えられない
制服が着られるのも
ポイントが高い。

汚すのだけ心配だけど

それに、



生きていたって仕方がないのなら
こんな余興も悪くない。











なにか?

いいえ、なんでも






こうして
私の奇妙なバイト生活が始まった――。


























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