狩人として獣を狩って暮らしていた頃、追っていたイノシシに逆に反撃されそうになったことがある。
狩人として獣を狩って暮らしていた頃、追っていたイノシシに逆に反撃されそうになったことがある。
前方に逃げたと思い込み、前方にばかり注意を向けていたら、突然横の茂みからそいつが突進してきたのだ。
その後はもう頭が真っ白になり、とにかく目の前のこいつを何とかして狩る。それしか考えられなかった。そうしないと自分が殺されるから。
どうやってそいつを倒したかは覚えていない。無我夢中に走ったり矢を射かけたりいろいろしたのだろうが、全く記憶にない。気が付いたらあたしの体より遥かに大きなイノシシが目の前で死んでいて、あたしはその肉を持ち帰りやすいようにバラしていた。
それから数年後、北の砂漠で勇者への怒りに燃えているあたしも、後で冷静になってみればその時と同じ、我を忘れた状態だった。
ヴァルターを、狩る!
水筒の水を砂漠にぶちまけ、水の護符をかざして祈りをささげる。
水の処女ウンディーネとその眷属キューレボルンよ。汝の忠実なる下僕の祈りに答えよ!
我が怨敵どもを幻影の檻に閉じ込めたまえ!
砂にしみ込んだ水から、霊力が光となって魔王討伐隊の面々を包み込む。ただし包み込まれたのはグレーテル、オットー、巫術師の三人だ。
この術法、『水霊女王の幻惑』は、獣を狩るときもよく使った。獣の群れの中から一匹だけターゲットを決め、そいつを群れから引き離すために、そいつ以外の全員に幻影を見せるのだ。
グレーテル達はどんな幻影を見ているのか、砂漠の真ん中でパントマイムみたいな動きをしてる。それを軽く一瞥すると、あたしは狩りのターゲットに視線を向けた。
自分が狩りの標的になっていると気づいた獲物は、みんな同じような目でこっちを見る。警戒をあらわにした、戸惑ったような目。それが鹿だろうとヴァルター・フォン・ランベルトだろうと同じ目だ。
火の護符をヴァルター目がけて投げつける。護符はヴァルターの足のすぐ左前方の地面に突き刺さり、ボンという音を立てて爆発する。
狩りを成功させるためには、獲物をこちらの思惑通りの逃走経路に誘導するのが一番だ。左前方で爆発を起こしてやれば、大抵のやつは右後方へ逃げる。
続けざまに、奴が逃げた先に同じ護符を投げる。それで奴がまた逃げればそこに再度火の護符を。そうやって、獲物をこちらの想定と寸分たがわない経路で走らせる。
奴の行く手には、砂漠に吹く風が作り上げた、やや小高い砂の山。逃走するヴァルターがその山の稜線を横切ろうとした瞬間を狙って、ヴァルターの前方に火の護符を回り込ませ、爆発させる。
獲物は、あたしに操られているかのように、狙い通り砂山の稜線を登り始めた。そして奴が砂山を登り切り、下りに差し掛かり始めたその時、あたしは土の護符を取り出し、敵の足元の地面を崩れさせる『地霊王の落とし穴』を発動させた。
うわっ!
……うわーっ!!
砂山は頂上から雪崩のように崩壊し、その雪崩と一緒にヴァルターがこちらへ転げ落ちてくる。
砂に埋もれたヴァルターは必死に這い出ようとするが、すぐにあたしが矢で彼の服を砂に縫い止め、動きを封じる。
あたしは懐から小さく小分けにされている毒薬の紙包みを取り出すと、包みをひらいて矢じりに塗り付けた。その間も、獲物から片時も目をそらさない。
それがどれだけ危険なことかは、ちょっと考えればわかるだろう。「毒を刃物に塗る」という危なっかしい行為を、手元を見ずにやるなんて。冷静な時のあたしなら絶対にしない行為だ。だが、その時のあたしには、矢じりで手を切ってそこから毒が入るより、目を離した隙にヴァルターが逃げ、彼を殺しそこなうことの方が避けるべきことに思えた。
毒を塗った矢を弓につがえ、ゆっくりと照準を合わせる。
風霊王シルフの加護を
シルフに祈りを捧げ、風の助力で矢の速さと命中精度を増す。
地霊王グノームの加護を
グノームに祈りを捧げ、矢じりの鋭さと硬度を高める。
必中必殺の一撃を放てる用意を十分にした上で、弓を大きく引き絞る。
トネリコで出来た愛用の弓が大きくしなり、軋んだ音を立てる。
キリキリキリ、キリキリ
キリキリキリ、キリキリ
その、キリキリという軋みが、トイフェルの笑い声に聞こえて、あたしはハッとした。
あたしは今、何をしようとしていた?
勇者に、かつての仲間に、弓を射かけて殺そうとしていた!?
エリザが傷つけられたことで、我を忘れてエリザの治療すら後回しで、怒りに任せてヴァルターを狩ろうとしていた。
恐らくこれが、トイフェルに憑かれるという状態なのだろう。
正気に戻ったあたしは、矢を弓から外して矢筒にしまった。
あたしの方はトイフェルから解放されたが、ヴァルターはまだトイフェルに憑かれているらしい。自分を砂地に縛り付けている矢を抜くと起き上がり、こちらに斬りかかってきた。
初撃は間一髪、身を翻してかわす。二撃目はかわし切れず短刀で受け止めたが、やはり彼の剣に対してあたしの短刀では貧弱すぎた。短刀の鍔元が大きく欠ける。
しまった!
これでは、あと一度でも剣を受け止めるのに使おうものなら、短刀はあっけなく折れてしまうだろう。
なんとかしないと……
状況を打開する方法を思案していると、不意にヴァルターが何者かに後ろから抱きすくめられた。
ごめんなさいヴァルター。
失礼します
何者かというか、エリザだった。
エリザは動揺して動きを止めたヴァルターの前へ回り込むと――
そのまま、彼のくちびるに自分のくちびるを重ねた。
!!
……な、なんっ……で?
――!?
……
――!!
……
状況がさっぱり呑み込めないまま、結構な時間が経過した。いや、十秒程度だったのかもしれないが、予想もしない出来事が唐突に起こったことで、通常より長く感じられた。
事態が把握できないという点では、ヴァルターもあたしと同じだっただろう。
驚いた表情のまま、エリザにくちびるを重ねられ続けている。
――っおい!
エリザ、いきなりどうしたんだ!?
あ、やっと離れた。
やっと……
名前を呼んでくれましたね
そう言ってエリザは、弱々しく微笑んだ。
言われてみれば、ヴァルターと再会してからずっと、彼はあたしの名もエリザの名も一度も呼んでいなかった。
ひょっとしたらあたし達のことが見えてないのかな? と不安になるような態度で、目も合わさずにバシリスクを狩ることしか頭にないようだった。
そんな剣呑な雰囲気だったヴァルターが、今はすっかり毒気を抜かれ、一緒に旅をしていた頃のヴァルターに戻っているように見える。
と、とにかくエリザの手当てしなきゃ
まずは傷薬を調合して……、おっと危ない。さっき毒いじったんだった。手を洗わないと傷薬に毒が混じってしまう。
水筒を取り出して、水筒の水は幻惑の術式を行うために全部使ってしまったことを思い出した。
ヴァルター、水貸して
あっ、おい!
相変わらず勝手にアイテム使う奴だな
ヴァルターとのそんなやり取りを、少し懐かしく思いながら傷薬を調合し、エリザの傷口に塗布する。
ありがとうございます
治療のお礼に、あたしにもキスしてよね
今エリザさんとキスすると、もれなく勇者さんとの間接キスもついて来るっすね
げっ、それは嫌だな……
じゃあエリザ、あとで口ゆすいでからでいいや
く、口ゆすいでからもしません!
そんな風にエリザとじゃれ合っていると、ヴァルターが口を挟んできた。
ところで、あいつら何やってんだ?
そう言って、少し離れたところを指さす。
そこには、グレーテル、オットーと巫術師が、砂に突っ伏して必死にクロールをしていた。
ありゃ、
幻影解くの忘れてた
(続く)