四
四
草木を倒し、移動する魔獣の音は、リーシャたちがいる小屋にどんどん近づいてくる。
リーシャは恐怖で身がすくんだが、戸外を覗いていたダイは振り返ると、落ち着いた口調で彼女に声をかけた。
大丈夫だよ。ここで魔獣を倒すから
あまりに冷静な態度に、リーシャはかえって不安になった。
あんな巨大な怪物相手に、こちらは犬と小娘だけ。
ダイはわたしが戦力になると、勘違いしてはいないだろうか?
わ、わたし、自慢じゃないけど、腕っぷしはからっきしよ
腕っぷしはからっきし、か……ハハッ、たしかに自慢にはならないね
こんな切迫した状況だと言うのに、ダイは朗らかに笑った。
心配しなくても、君をこれ以上危険な目に合わせるつもりはない。俺が戦って奴を倒すだけさ
ダイは床に落ちていた草刈り鎌の柄をくわえた。
首を動かし、鎌を二、三度振って、満足気にうなずいた。
剣とは勝手が違うけど、なんとかなるかな
柄をくわえたまま器用に言葉を発するダイに、リーシャは目をぱちくりさせた。
まさか、その鎌であれと戦うつもり?
これでも剣術には少しばかり覚えがあってね。まあ、この姿で戦うとは思っていなかったけど
平然と告げるダイに、リーシャはめまいを覚えた。
いくら剣術に自信があっても、相手は魔獣で、今のダイは犬で、武器は草刈り鎌だ。無謀すぎる。
そんなの無理よ。ねえ、このまま町まで逃げて助けを求めたらどうかしら? 大勢で戦えばきっと勝てるわ
しかしダイは首を横に振った。
あんな魔獣を町に連れていったら、ひどいことになると思うんだ
あ
そのとおりだ。町で犠牲者が出かねない。
二の句が告げられないリーシャに、ダイは断言する。
約束するよ。必ず倒してくるから、君は中で待ってて
近づいてくる魔獣の音は、小屋のすぐそこまで迫っている。
命の危険をひしひしと感じる中、ダイの言葉はあまりに楽観的すぎる気がして、リーシャの心配は募るばかりだ。
けれど木戸に向かうダイは尻尾をピンッと立て、毅然とした様子で応えた。
空元気でも、やけくそになってるわけでもない。ただ信じてるだけだよ
木戸の前で立ち止まると、ダイは横顔をリーシャに向けた。
こんなところで終わらない。自分の本当の姿を取り戻したい。そんな俺自身の意志の強さを、ね
意志の強さ……
ああ、あと、君を守りたいという意志もあるからね
涼やかに言うダイに、リーシャの胸はドキッとする。
ダイは鼻先で木戸を開け放ち、最後にこう言った。
魔獣に見せつけてやるよ。ひとの意志の力――それがどれほど強靭なのかを
ダイが戸外に飛び出していったのと、小屋近くの大木が倒れる音が響いたのは同時だった。
開いたままの木戸の向こうに、大岩のような影が現れる。夜の闇の中でもひときわ黒くよどむその形は、間違いなくあの魔獣のものだ。
っ
魔獣が近づいたからだろうか、リーシャの手の甲に刻印された呪いの痣が、焼けつくように痛んだ。
手を押さえながら、戸外に目を凝らす。
魔獣と対峙するダイの姿が、視界に映った。少しも臆することなく、小屋を背に四肢を踏ん張っている。
ダイ……
怯みつつもリーシャは木戸へ向かった。恐怖よりもダイが心配でたまらなかった。
わたしにできることはないの?
そんな焦燥に急き立てられながら、歩を進ませた。
そうしてリーシャが小屋の入り口に立ったとき、ダイと魔獣との戦いがはじまった。
魔獣を倒せるというダイの自信が、けっして根拠がないものではなかったことを、リーシャはすぐに知ることとなった。
その俊敏な身のこなしは、魔獣の六本の足をかいくぐり、くわえた鎌は振り下ろすたびに、魔獣を切り裂いていく。
魔獣の傷口からは赤と黒が混じった瘴気のようなものが噴きだし、月明かりに散じていく。
すご……い
魔獣の攻撃を寄せ付けず、次々と手傷を負わせていくダイの戦いに、リーシャは目を奪われた。
犬の身でありながら、鎌を自在に操り、速さと正確さで相手を圧倒する彼は、剣術に少し覚えがある程度とは思えない。
人間の彼はよほどの実力者ではないか。
そこでリーシャは不意に思い出した。
おととしだったと思う。一時期、町で広がった話題を、リーシャも耳にしたことがあった。
それは毎年王都で開催されている武闘会において、並み居る武芸者、歴戦の強者たちを押しのけ、弱冠十六歳の侯爵家の少年が優勝をかっさらったというものだった。
その名が、シュティンドルじゃなかったっけ……。
判然としない記憶は、魔獣がどおっと倒れたことで、頭から追いやられてしまった。
いつのまにか魔獣の六本の足の内、半分が斬りおとされ、すでに消滅していた。
地面に這いつくばった魔獣に向かって、ダイが跳躍する。魔獣の動かした足を空中でかわし、ひし形の頭部に向かって鎌を振り下ろした。
その刃は魔獣の目のひとつを貫き、傷口から瘴気を噴きあげさせた頭は、力なく地面に落ちた。
……倒した……?
魔獣からやや距離を開けて着地したダイを見て、リーシャは思わず駆け寄ろうとした。が、
来ちゃダメだっ
ダイに制止され、小屋から出たところで立ち止まった。
手応えがなかった。なにか変だな
ダイの不吉な発言に呼応するように、魔獣の頭が脈動するやいなや、再びその鎌首をもたげた。
残った三本の足で胴体を起こし、ダイに向かって臨戦態勢を取る魔獣。
厄介だな、魔獣ってヤツは
ダイは舌打ちをした。
息を吹き返した魔獣に、リーシャは呆然としていた。
だが赤黒い瘴気のひとすじが虚空を滑り、秘かにダイの背後に迫ってることに気づき、とっさに叫んだ。
ダイ、うしろ!
ダイが振り返ったときには、瘴気は一本の魔獣の足に変化していた。
胴体とつながっていないのに、魔獣の足は意志があるかのようにその爪でダイに襲いかかる。
間一髪。ダイは振り払った鎌で魔獣の足を両断した。
よかった……
!?
ホッとしたのも束の間、リーシャは自分の眼前の空間に瘴気を見つけ、息を呑んだ。
それは見る見るうちに魔獣の足を作り上げ、鋭利な爪で月光を反射させた。
ダメ、逃げられない!
魔獣の爪が自分に向かって飛んでくる。
その光景の中、リーシャは自分の名を呼ぶダイの声を聞いた。
でもいくらダイでもきっと間に合わない。
ああ、わたしはここで死ぬんだ。
なにもできず。死ぬんだ。
何者にもなれないまま。死ぬんだ。
夢を。
魔法師になる夢を叶えられずに…………ここで!?
そんなの嫌だー!!
頭で考えるより先に、リーシャは胸ポケットのナイフを手に取り、突き出していた。
刀身はシースに収めたまま。
だが母親の形見は青白く輝くと、刃先に薄布のような光の波を出現させた。
光の波は魔獣の足を瞬時にくるみ、勢いを完全に殺した。
ダイがリーシャの元へ駆け寄り、空中に固定された魔獣の足を斬りおとす。
すまない、リーシャ。君を危険な目に合わせないと言ったのに
リーシャはナイフを構えたまま、首を横に振った。
ううん、わたしも……わたしも諦めたくないから……もう諦めたくないから……そんなの嫌だから……わたしもこんなところで終わりたくない……夢を……
――魔法師になる夢を叶えたいから!
リーシャは母のナイフを握りしめ、魔獣へ向かって一歩……力強くその一歩を踏み出した。
リーシャ……
ダイ、あなたは言ったわね。魔法はひとの強い意志の顕れだって
リーシャは魔獣を睨みつけた。
なら、わたしも強い意志を持つわ! どんな困難にも負けず、諦めず、前に進む――この母のナイフに誓って!
リーシャの宣言に、ダイは眩しげに目を細めた。
そうか……君はただ守られるだけのお嬢様じゃないんだね
ダイはくわえていた鎌を頭上に放り投げ、魔獣のほうへ向きなおってから、落ちてきたそれをくわえなおした。
さっきのは護りの魔法の一種だろう。君はまた無詠唱で……いや、意志の強さで魔法を発動したんだ
そう言われてリーシャは、今までいくら練習しても初歩の魔法ひとつできなかった理由がわかった気がした。
意志の強さが自分にはなかったからだ。なにかをなそうとする、本気の想いが欠けていたのだ。
そうだよね、お母さん。
手の中のナイフに語りかける。
応えはもちろんない。が、心なしかナイフが熱を帯びたように感じた。どこか懐かしい温もりだった。
君はきっとすごい魔法師になれるよ
ダイの言葉に、微笑むリーシャ。
わたしはね、ダイ。すごい魔法師じゃなくて、ひとを幸せにする魔法師になるの
ダイの尻尾が楽しげに左右に振れた。
俺は本当の姿を取り戻したい。お互い、こんなところで道草食ってる場合じゃないね
ええ
リーシャが応えると、ダイは魔獣に向かって走り出した。
失われていた魔獣の足はすべて再生し、ダイ目掛けて上下左右から襲い掛かってくる。
ダイはそれを回避しつつ、攻撃を打ち込んでいく。だが魔獣の傷はすぐに瘴気に覆われ回復してしまう。
これではらちが明かない。
いくらダイが強くても、このままではいずれ体力が尽きてしまう。その前に魔獣を倒す方法を見つけなくてはならない。
でもそんな方法が本当にあるの? 不死身だったらどうするの? そもそもわたしになにかできるの?
そんな懸念と弱気が頭に浮かんだが、すぐにリーシャはそれを振り払った。
たとえ敵が不死身だったとしても、けっして諦めない。不可能だって可能にする。
それがひとの意志の強さだもの
母のナイフを両手で強く握りしめ、リーシャは魔獣に目を凝らした。
深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、集中力を高め、心を研ぎ澄ませる。
さあ、見つけてあげるわ。
その偽りの向こう側を。
わたしに真実を見せなさい!
母のナイフが淡く光った瞬間、リーシャの視線は見えざる力に引きつけられ、魔獣の一部に焦点が合った。
それは怪物の背中。
びっしりと鱗が埋め尽くす中、そこだけこぶみたいにわずかに盛り上がっている。
リーシャの目はその隆起に、赤黒く揺らめくたいまつのようなものを見いだした。
ダイ、魔獣の背中! 背中のこぶを狙って!
そこが魔獣の急所だという確証はない。
ただ魔獣を倒したいという意志が導くものを、リーシャは信じた。
そしてダイは、リーシャの言葉を信じてくれたのだろう。
一瞬の躊躇も見せず、魔獣の足を踏み台にして飛び上がると、その背のこぶに向かって鎌の刃を突き刺した。
魔獣が断末魔を上げた。
その咆哮が夜の森を震わせる中、魔獣の全身は一斉に瘴気の塊へ。
輪郭をおぼろにし、つぎの瞬間、あぶくが破裂するようにその存在を消失させた。
上弦の月が照らすウシュルの森に静寂が戻り、夜風がリーシャの髪を心地よくそよがせた。
巨大な魔獣が跡形もなく消えたことが嘘みたいに思えたが――ううん、わたしに嘘は通用しないんだし――そんなことをリーシャはぼんやりと思った。
視線の先で、ダイが息を吐きながら鎌を放した。腰を落として、ゆったりとお座りする。
警戒を解いたその姿が、危機が本当に去ったことを物語っているが、リーシャはハッとして、ダイに駆け寄った。
ダイ! ダイ!
名を呼びながら、ダイにしがみつくようにひざまずき、その首元に目をやった。
よかった……消えてる。呪いがひとつ消えてるわ
ダイの九つの呪いの痣は、八つに減っていた。
喜び、安堵するリーシャに、ダイは柔和なまなざしを向けた。
君は変わってるね。普通、自分の痣を先にたしかめないかい?
リーシャの手の甲にあった呪いの痣も消えていた。
つづく