二
二
その犬は美しかった。
細長い顔に精悍な肢体。スッともたげた頭の高さがリーシャの腰の位置と同じくらいの大きさ。
白銀の毛並みは艶やかに、上品に全身を覆い、とくに胸元はふわりと綿毛のよう。
ピンと立てた耳と深みのある緑の双眸が風格を醸し、ひとと対峙しても臆した様子がない。どこか神秘的ですらある。
その姿に、リーシャが思わず見惚れていると、白銀の犬は口の端から牙をのぞかせ、低くうなった。
ウウウッ
瞳が攻撃的に光ったのを見て、リーシャはようやく我に返った。
危険な状況を自覚し、表情が強張る。
町の外に生息する野犬は獰猛で注意が必要なのだ。
でも、噛まれて大怪我したら、妾にならなくてすむかも。
そんなことが頭をよぎったが、高まるうなり声に恐怖心が勝り、あとずさった。
だ、大丈夫……怖くない怖くない、なにもしないから、ね? ね?
犬をなだめつつ、横目で森の小道を確認する。
全力で走ればなんとかなるだろうか。
犬が追いかけてこないことを神に祈る。
ウウウウッ
落ち着いて、落ち着いて…………――さよならっ
素早く踵を返し、小道に向かって駆け出した。
背後を振り返る勇気はない。
前のめりで小道にたどり着き、そのままさらに走ろうとしたとき、後方で犬がウォンッと吠えた。
きゃっ
悲鳴がもれたが、それと同時にべつの声が聞こえてきた。
さよなら、かわいいお嬢さん
爽やかな声音。明らかに人間の男のものだ。
つんのめるようにリーシャは立ち止まった。
今のは誰? あの場に誰かいたかしら?
見知らぬ声はたしかに耳で聞いたものだが、なにか妙だった。
強いて言うならリーシャの異能――相手の心の声を識る力が発動したときに似た感覚があった。
釈然としない違和感に、恐怖が少しばかり薄れていく。生唾を呑み込み、おそるおそる振り返る。
すぐ横のボジュの幹から顔をのぞかせた。
あ、目、合っちゃった。
白銀の犬はさっきまでと同じ場所で、こちらを見ていた。ほかには誰もいない。
襲いかかってこないかとひやひやしたが、犬の方は不審げに耳を動かし、再びワンッと吠えた。
吠えたのだが。
なにをしてるんだい? 早くお帰り。女の子の夜道のひとり歩きは危険だよ
犬の鳴き声にかぶさって、男の言葉がはっきりと聞こえてきた。
とくに今夜のように、綺麗すぎる月の晩は、ね。嫌なモノがうごめくのさ
憂うように瞳を細め、それから頭を横に振った。
やれやれ、もう少し吠えてあげれば、君は怖がって帰ってくれるのかな
白銀の犬はリーシャの方へ二、三歩近づき、今度は四肢を踏ん張って、尻尾を猛々しく立たせた。
ウウウウウウウッ
しかしその威嚇が、リーシャの耳に届くころには、すでに男の声に変換されている。
ほらほら、どうだい? 怖いだろ? 怖いはずだ…………ん~、なんか反応が薄いなあ。もう少し牙をむき出しにしてみようか…………うん、これでかなり怖くなったと思う
しだいに、リーシャには犬本来の鳴き声が聞こえなくなった。
代わりに、しなやかで力強く、しかしかすかに幼さの残る青年の声だけが、耳朶を打つ。
さあ、行くんだ。帰れる家があって、ベッドで眠れるのは幸せなことなんだから
犬を見つめつつ、リーシャは確信した。
これ、あの犬の声だ。
ほかに誰かがいるわけでもなく、空耳でもない。聞こえてくるのは、あの犬の声。
自分には犬の言葉が理解できている。
どうして、こんな……。
リーシャは困惑した。こんなこと今まで一度もなかった。
異能のせいで、人間の偽りに隠した本音が伝わってきた瞬間は何度もある。が、動物の心の声が脳内に響いた経験はなかった。
しかも白銀の犬の声は、頭に伝わってくる心の声ではなく、彼がたしかに発しているものだ。それが人間の
言葉として聞こえてくる。
一瞬、自分の頭がどうかしてしまったのかと思った。
子爵の妾になるという絶望の淵に立たされ、現実逃避
しすぎたのかとも考えた。
だが、幼い頃から母親の魔法を目の当たりにし、その死後、心の声を識る異能と折り合いをつけてきたリーシャには、不可思議な現象への耐性がある。
それが動揺を抑え、冷静さを取り戻させてくれた。
大丈夫。落ち着いたわね、リーシャ・ヴィンデ。
恐怖はもう感じない。あるのは驚きと好奇心。動物と会話できる可能性。
それってちょっとわくわくする!
その魅力に抗えず、リーシャはボジュの木の陰から出た。そのまま犬の方へ一歩、また一歩と慎重に近づいていく。
白銀の犬は明らかに驚いた様子で、目をぱちくりさせた。
ちょ、ちょっと待った。え? なんで君、逃げないの? 俺が怖くないのかい? どうして近づいてくるのさ?
リーシャは意を決して話しかけた。
あ、あのね、わたし、あなたの声が――
しかし最後まで言う前に、不意に白銀の犬がうめいた。
それは今までのリーシャへの威嚇ではなく、苦悶に満ちたもので、眉間に皺を寄せると体勢をぐらりと傾かせた。
え? どうしたの!?
リーシャは駆け寄り、半身を地面に着いた犬を抱き起こした。
犬の身体は温かく、暗闇の中でも鮮やかな毛並みの感触は、柔らかく心地いい。だが苦しそうな全身は小刻みに震えている。
やっぱり……来たみたいだ
荒い息とともに苦々しく呟く白銀の犬。
緊張と警戒をあらわに、周囲に視線を走らせながら吠えた。
君は早くこの場を離れて! ほら、行って! 行かないと噛みつくぞ!
鋭い牙を光らせ、凶悪そうに吠えたてる。
が、その言葉が理解できるリーシャは怖さよりも心配が先に立つ。
どこか痛むの? 怪我? 病気? 食事と休息くらいなら、わたしの家でも取れるわ
そんなんじゃない! ここにいたら君まで巻き込んでしまう!
巻き込むってなに? こんな苦しんでるあなたを見過ごせるわけないじゃない
俺は心配ない! 奴が現れる前に早くこの場から立ち去ってくれ!
奴? あなた、誰かに追われてるの? ならわたしが抱っこして、ここから逃げてあげてもいいわ
ああ、もう、そんな簡単に逃げられる相手じゃ――
白銀の犬はそこでハッとして、口をつぐんだ。
深緑の瞳を見開き、リーシャをまじまじと見つめる。
…………君、もしかして俺の言葉がわかるの?
リーシャはこっくりとうなずいた。
わかるわ。なぜだかわからないけど、わかるの。犬の鳴き声じゃなく、あなたの声がひとの言葉として聞こえてくるの
……嘘……だろ
嘘じゃないわ。さっき、わたしなんかを“かわいいお嬢さん”って言ってくれたでしょ
白銀の犬は呆気にとられた様子で、口を半開きにした。
君はいったい……――
白銀の犬が、そう呟いたときだ。
突然、湖に水柱が立った。
噴きあがった水飛沫は、リーシャが見上げるほどの高さにまでおよび、月明かりに反射してきらめきながら湖面に散った。
な、なに、あれ……
そこには異形の存在が出現していた。
先程上がった水柱と同じくらいの大きさだ。
細長い体躯はまるで蛇だが、虫を思わせる節くれだった六本の足がうごめき、そのいずれにも鋭角な爪。
胴体はぬめって光り、うろこがカチカチと耳障りな音を立てながら伸縮を繰り返している。
その先にあるひし形の頭部は口蓋が異様に開き、びっしり生えそろった牙からは絶え間なく唾液がこぼれる。
三つの赤い目玉が、目を背けたくなるほど不気味だ。
愕然とするリーシャの傍らで、白銀の犬が忌々しげに呟いた。
魔獣だ
魔……獣?
平野部、とくに町の周囲にはほぼ現れることのない怪物が、今、リーシャたちの見つめる先で頭をもたげている。
巨大なその存在感に圧倒され、言葉を失うリーシャ。身体がぶるぶると震えだす。
しっかり! 森に逃げこむんだ!
白銀の犬がリーシャの袖口を噛み、後方へ引っ張った。
凛とした瞳が頼もしく、それに励まされ、リーシャはようやく動くことができた。
う、うん!
湖に背を向け、白銀の犬とともに駆け出すリーシャ。
だが慌てていたせいで、蔓草に足を取られ、転んでしまった。
その拍子に胸ポケットに入れていた母のナイフが転がり落ちた。
すぐに拾おうと手を伸ばす。と同時に、数歩先で振り返った犬が、あっ、と声を上げた。
!?
リーシャの手を赤黒い光が貫いた。
かすかに熱を感じるだけで、痛みはない。
ただ身体の奥が焦げつくみたいな気持ち悪さがある。
視線を上げ、赤黒い光をなぞっていくと、それは魔獣の赤い三つ目につながっていた。
光は瞬く間に消えたが、代わりにリーシャの手の甲には、湾曲した細長い痣が浮かび上がった。
これって?
軽いやけどのような痛みを感じ、リーシャは顔をしかめた。それでもすぐにナイフを手にして立ち上がる。
痣は気になるが、今は魔獣から逃げることが先決だ。
しかし走りかけたリーシャに向かって、魔獣が一本の足を猛然と伸ばした。
それはまっすぐにリーシャの背に突き刺さる――寸前、横から飛び出した白銀の犬が魔獣の足にかじりつき、首をひねって弾き返した。
行くよ!
犬は身をひるがえし、リーシャの背後でかがむと、
しっかりつかまって!
リーシャの股の間に身体を滑り込ませた。
へ? きゃっ
気づいたときには、リーシャは犬の背にまたがっていた。
夜風が耳元でひゅぅっと音を立て、周囲の光景が過ぎ去っていく。
すごい。わたし、犬に乗ってる。
白銀の犬はリーシャを乗せたまま、森の中に駆け込んだ。速度はそのままに、木の根や枝を自在に避けながら突き進んでいく。
でもわたし、重くないかな。
心配がちらっと頭をよぎったが、白銀の犬はそんなことお構いなしに、夜の森を駆けていく。
やがて犬は苦渋の声をもらした。
すまない。これは俺のせいだ
“これ”とは魔獣の出現を指しているのだろうか。
声を聞き逃さないよう、リーシャは犬の頭に耳を寄せた。
その際、手の位置を犬の首元に動かすと、白銀の毛に隠れていた痣があらわになった。
この痣……
今しがた魔獣につけられた痣とそっくりだ。
だがリーシャの痣はひとつなのに対し、白銀の犬のそれは――、一、二、三…………全部で九つあり、互いに交差し、不気味な文様のように印されていた。
俺の首のも、君の手に付けられたのも、魔獣の呪いだ
呪い?
魔獣は執着心が強くてね、狙った獲物を執拗に追う習性がある。
中にはそうやって呪いを使う魔獣もいて、それが魔獣と獲物を結び続けるのさ
リーシャはぞっとした。
手の甲の痣を、逆の手でこすってみるが、その汚らわしい刻印は褪せることもない。
こ、この呪いをつけられたら、どこに逃げてもあの魔獣が追ってくるってこと?
白銀の犬が首肯する。
リーシャは、ああ、と深々と息を吐いた。
それはもうほとんど死の宣告だ。あんな魔獣に再び襲われて、無事でいられるわけがない。
子爵の妾どころか、命がすでに風前の灯なんて、運命はどこまで冷酷に、自分を翻弄するのだろう。
絶望に打ちひしがれるリーシャ。
しかしそんな彼女を乗せた白銀の犬は、前方を見据えながら、断言した。
俺が魔獣を倒すよ。それで呪いは消滅する
虚勢やその場しのぎの嘘とは思えない、熱を帯びた声だった。
そんなの……
無理に決まってる、と言おうとして、リーシャは口ごもった。
犬の首につけられた九つの呪いが目に入ったから。
自分よりよほど過酷な状況なのに、白銀の犬が悲嘆に暮れ、絶望しているようにはどうしても見えなかったからだ。
心配しないで、君は俺が必ず守るから
会ったばかりの、名前すら知らないはずの娘に、そんな言葉までかけてくれる。
リーシャの胸は切なさや不安、怒りや焦りがないまぜになって苦しくなった。
いったいこの犬は……。
九体の魔獣に追われる白銀の犬。彼にいったいなにがあったのか。
あなたは……
リーシャは犬の首元を、そっと撫でた。
あなたは誰なの?
ハッ、ハッと息を吐きながら、白銀の犬は口角を上げた。
それは微塵も曇りのない笑顔に見えた。
名はダイ・シュティンドル。今はこんな姿だけど、三日前までは――人間だった
つづく