一
一
森に足を踏み入れると、涙があふれた。
リーシャは立ち止まり、頬をブラウスの袖で拭った。
バカみたい。これからすることに意味なんてないのに
すでに陽が落ち、月明かりだけがしるべになった夜に、ため息まじりにこぼした。
こたえる者はいない。今のは愚かな自分をあざけったにすぎないから。
常緑樹のボジュが鬱蒼と茂る森は、ウシュルという名で町の人々から呼ばれている。野草が豊富な場所だ。
その中、かろうじて道と呼べるような小道に、ひとりたたずむリーシャ。
わたしみたいな小娘に、そんなの無理に決まってるもの
無造作にまとめたブロンドの髪も、碧い瞳も、きめの細かい肌も、宵闇に陰っている。
着慣れたブラウスとスカートに包まれた身体は、十六歳という年齢よりも少し幼く見えるが、それは縮こまった心が影響しているのかもしれない。
弱々しい視線を落とすと、右手につかんだスカーフと、反対の手に持った靴が目に入った。
どちらも愛用の品。しかし今はそれを身に着けず、靴もべつのものを履いている。
バカみたい
また繰り返し、力なく笑った。
とぼとぼと再び歩き出しながら、芝居がかった口調で言う。
ウシュルの奥深く、深き涙の湖にて、哀しきリーシャ・ヴィンデ、齢十六は、その身を投げ、短い生涯を終えるのです
右手のスカーフと左手の靴を掲げる。
――というふうに見せかけて、自由を手に入れ、旅立つリーシャ。巧妙なトリック!
一瞬、目を輝かせたが、すぐにそれは色を失った。
両手を下げ、暗い呟きをもらす。
――という叶わない夢を見ながら……、そう、せめて気持ちだけは旅立たせて……。私は子爵様の妾として生きていくのでした
口にしたとたん、身震いした。
晩春の夜は“妖精の吐息”と呼ばれるぬるい西風が吹く。寒さとは無縁のはずだから、今の震えは……。
嫌悪……かな。子爵様への?……ううん、きっと弱虫なわたしへの
森の奥へと足を進めていくと、ここひと月ほどの出来事が頭に浮かんできた。
前触れもなくヴィンデ家にやってきたオルビン子爵の使い。
居丈高な物腰。
突きつけられる晩餐への招待状。
領主でもある子爵とは、リーシャも叔父夫婦も面識がなかった。
郊外で畑作を営み、爪に火をともす暮らしをしているヴィンデ家を、子爵が晩餐に招くなどなにかの間違いとしか思えなかった。
が、困惑しつつ三人で訪れた晩餐の席で、派手な口髭とでっぷり太った体躯が印象的な子爵は、ロースト肉を頬張りながら言ったのだ。
その娘、わしが貰い受けたい
子爵にかじりつかれたみたいに、胸がギュッと絞めつけられたことを、リーシャは覚えている。
話によれば、子爵は町でたまたま目にしたリーシャを見初め、素性を調べ、己の身分とを比べ、そして決めたのだという。
妾としてなら悪くない、と。
妾となったら、小作人には到底味わえない贅沢をさせてやろう。不自由のない暮らしを、死ぬまで保障してやろうというのだ。悪い話ではあるまい
嘘だ、とリーシャは思った。いや確信した。
子爵の粘ついた発言とともに、リーシャの頭にはもうひとつの声――子爵の心の本音が聞こえてきたからだ。
(なあに、飽きたら奴隷商人にでも売り飛ばせばよい……いつものように、な)
偽りに隠された心の声を識る異能。
それがリーシャ・ヴィンデに備わった秘密の力だった。
相手の発言の偽りを見破ることなら、勘の良い人間ならある程度可能なもの。
だがリーシャのそれは、偽った者の心の本音が明確に伝わってくる、確度の高い代物だった。
その力、先天的なものではなく、発現は今から七年前、リーシャ九歳の冬。
事故によって、母親が他界したときからだ。
深い哀しみの中で宿った力に驚き、戸惑いつつも、リーシャはそれを受け入れることができた。
きっとこれは、魔法師だった母からの最期の贈り物なんだ。
リーシャはそう理解して、納得して、ひとの嘘の裏を識る力と折り合いをつけた。
でも……その力で、こんな最悪な真実を聞くことになるなんて……。
子爵から突きつけられる欲望に、心が切り刻まれていく思いだった。
もちろん無理にとは言わぬ
(断ってみろ。そんな無礼者に生きる資格を与えるつもりはないぞ……)
子爵の心の声に身の毛がよだった。選択肢なんてあるわけがない。
リーシャの心は静かに、確実に冷たくなっていった。
それは諦念という冷たさで、すぐに絶望へと凍りついていく。
晩餐が終わるころには、リーシャは子爵の申し出にうなずき、感情をなくした瞳を伏せるしかなかった。
あの晩餐から一週間か……
夜の森の中、ときおり聞こえてくるのは、夜風が起こす葉擦れの音くらいだ。
そんな静けさに押しつぶされそうなほど、悄然としたリーシャの身体は儚く、足取りは重い。
明日になれば、わたしはもう……
子爵の使いが再びヴィンデ家を訪れたのが、今日の昼過ぎ。
相変わらず不遜な態度の使いの者は、子爵の別邸への引越しを明日にせよと、リーシャに言い渡して帰っていった。
明日になればリーシャは子爵の妾。自由のない愛玩品に成り下がる。生殺与奪を握られ、いつかは奴隷として売られるだろう。
リーシャ・ヴィンデの人生は、実質的に今日で最後なのだ。
なのに、わたしには運命に抗う勇気も覚悟もない
絶望と不甲斐なさで、目の前が真っ暗になりそうな心境だ。
けれどそれとは裏腹に、眼前がぽっかりと開けた。
森の奥、パチェテという、古代語で涙という意味を冠された湖にたどり着いていた。
楕円形の湖は、向こう岸まで小舟で横切っても二十分ほどはかかる。
淡水魚のミタラが釣れる漁場だが、水深が深く、しかも底なしと言われるほど泥が堆積しているため落ちたら危険な場所だ。
ここなら、世を儚んで身を投げるのにうってつけよね
昼間、子爵の使いが帰ったあと、迫る運命に苛まれながら衝動的に思いついたのだ。
自分を死んだことにして、逃げてしまおうか。
家を出て、町を離れ、なにものにも脅かされることのない遠い地で、平穏な暮らしを手に入れる。
そこで仕事をしながら、幼い頃からの夢を追いかけるのだ。
……夢
右手のスカーフをブラウスの胸ポケットに押し込み、代わりにスカートのポケットの中身を取りだした。
それは手のひらサイズのナイフだった。
刀身を収めた木製のシースには、まるで虹のように七本線がアーチ状に彫られている。
小指ほどの鍔の両端には三日月型の細工が施され、柄には太陽を思わせる模様がひとつ。
お母さん……
ナイフは母親の形見だった。
魔法生成に必要な自然力――マナを集約させる触媒として用いる仕事道具だったらしい。
わたしも……わたしもお母さんのような魔法師に
それがリーシャの夢。
憧れの母の跡を継ぎ、様々な魔法で人々を幸せにすること。
それは母が生きていた頃は漠然とした、けれど亡くなってからは明確な目標となっていたのだが。
……ごめんね、お母さん
リーシャはその場にがっくりと膝をついた。
持っていた靴は手を離れ、地面を転がると爪先が水面に触れた。
お母さんの子なのに……わたし……魔法、ひとつもできなかったよ
母の遺した魔法書を参考に、魔法を身に着けようと努めたけれど、結局リーシャは初歩的なものすらできたためしがなかった。
魔法の学校に通いたかったな……
海を渡ったはるか西方の国――。
星の女神を信奉するその国には、魔法師を育成する専門の学び舎があるという。
そこに行くことができたら、わたしだって。
リーシャは水際に落ちた靴を拾って立ち上がり、湖面をキッと睨みつけた。
上弦の月が水面にたゆたっている。
子爵様の妾なんて嫌だーーー!
湖に靴を投げ入れ、続いて胸ポケットのスカーフも同様に放った。
靴は岸辺からそう遠くないあたりで水飛沫を上げ、スカーフは風に乗って、靴の浮かんだ先まで飛んで、落ちた。
ここで身を投げて死んだことにして、町を離れ、国を出て、はるか遠く、魔法学校へ。そこで魔法を学び、いつかお母さんのような魔法師に――
そこで口をつぐんだ。
肩を落とし、顔を伏せる。胸底から湧いてくる暗鬱な息を吐き、疲れた微笑を浮かべた。
…………なんて、無理に決まってるじゃない
母の形見を、胸の前で両手で握りしめた。
町から出たこともないわたしが、いったいどこに行けると言うの? たったひとりでどうやって旅をするの? お金だってない。どうやって稼げばいい? 魔法もできない、なんの取り柄もない……
できることといったら、嘘を見破れることくらい? それだけじゃどうしようもない。どうにかできていたら、子爵様の妾になんかなっていないはずだもん!
夜の湖に声を荒げても、湖面に波紋すら浮かばない。
自分の無力さを改めて痛感し、リーシャの頬をひとすじ、涙が伝った。
最初からわかってた。こんなトリックをしたところで、実際わたしには逃げることなんてできないんだって……。そんな勇気ないんだって
でも……でもせめてわたしの心だけはこれで旅立てるから……だから大丈夫。身体をどうされたって、きっと耐えられる……
自分に言い聞かし、心の中で亡き母に詫びた。
こんな弱虫なわたしでごめんなさい。
そんなリーシャの気持ちに呼応するように、頭上の月が陰り、周囲の闇がさらに濃くなった。
そのとき――。
ガサッ。
後方の藪が音を立てた。リーシャはビクッとして振り返る。
そこは彼女が歩いてきた小道から外れた一角で、草木がこんもりと茂っている。リーシャが立っているところからは十数歩分、離れているだろうか。
風?……それとも。
頭に浮かんだのは、魔獣と呼ばれる危険な生き物だ。
数はけっして多くはないが、山間部を中心に生息し、山の民や、各地を渡り歩く行商人が襲われることがある。
だが平野部、とくに街の周囲に出没することは稀で、リーシャも話に聞くだけで、実際に目撃したことはない。
ウシュルの森は町から徒歩で三十分ほどの距離。森の外には民家もある場所だ。夜中とはいえ、魔獣が出現するとは思えない。
というより、そんなことあってほしくない。
なら動物……よね?
町中では犬や猫や鳥が当たり前のようにいる。ひとに飼われているものもある。
ウシュルでは狐や兎などもよく見かけるが。
ガサッ――。
再度、密生した草木が揺れ動き、不穏な音を立てた。
リーシャは藪を凝視しつつ、ごくりと喉を鳴らした。風に揺れたようには思えなかった。なにかが潜んでいることは間違いない。
害のない小動物だとは思いつつも、リーシャの顔は強張った。正体がわからない中、月の隠れた暗さも相まって不気味だ。
帰ろう。
緊張感から逃れたくて、歩き出そうとしたときだ。
ガサガサッ。
草木がことさら大きく揺れ動き、藪のシルエットから分離するように、黒い塊がのそりと現れた。
と同時に、上空の雲が晴れ、冴え冴えとした上弦の月が地上に、パチェテの湖に、リーシャ・ヴィンデに、そして藪の中から現れたものに、柔かな月光を浴びせた。
風が吹いた。晩春の西風“妖精の吐息”だ。
白銀の毛をそよがせ、一頭の犬がそこにたたずんでいた。
つづく