ベッドの横の腰棚の上に置かれた、小さな花瓶に挿された薔薇を、寝起きの瞳でぼうっと見つめる。
薔薇、綺麗……。
ベッドの横の腰棚の上に置かれた、小さな花瓶に挿された薔薇を、寝起きの瞳でぼうっと見つめる。
この花、いつまで保つのかしら?
取り留めもなくそんなことを思いながら、エリカはおもむろに、ベッドの上に上半身を起こした。
ラウルがエリカに、この、濃赤色の薔薇をくれてから、十日余り。その間に、ラウルは二度、エリカを婚約者のリトと共に昼食に招いてくれていた。昨夜行われた、ラウルの父オルディナバ公主催の晩餐会にも。
オルディナバ公経由での人脈を作っておけば、リト殿が平原へ戻る時期を早めることができるかもしれませんね。
思慮深い家令ダリオの助言に背を押される形でラウルの招待を受けたエリカだったが、やはり、公の豪奢な屋敷にも、そこに集う華麗な人々にも、気後れしてしまう。
ラウルの妹であるブランカとは何故か気が合い、おしゃべりに花が咲くのだが、他の、エリカと同年齢くらいに見える女性達の、衣装や化粧や高位の男性達に関する話は、エリカには正直ばかばかしく思えた。
西の街で暮らしていた頃から、取り留めのない話をするよりも、野山を駆け回る方が性に合っていた。帝都や、その周りに広がる町や村や森や平原のこと。季節が変わるごとに変化する空や風や花のこと。そういうことを話している方が、エリカは好きだった。そう、……リトと、一緒にいるときのように。
リトの方も、豪奢な人々が集う昼食会や晩餐会は苦手であるようだ。リトより上背のある男達の自慢げな笑いを静かに聞いているだけの、リトの、穏やかに見えて誰にも分からないほど微かに眉を顰めた表情を思い出し、エリカはふふっと笑った。
もう一度、ベッド側の、咲き誇ったままの薔薇に目を留める。
お母様にこの薔薇を見せたら、何て言うかしら?
きっと、エリカの父が母に贈った、西の街のシーリュス伯の屋敷を飾る蔓薔薇の方が綺麗だと言うだろう。ある意味強引な母の顔を思い出し、エリカは再びふふっと笑った。
母の強引さに呆れることは多いが、それでも、女手一つで、シーリュス伯という、西の街やその周辺を守護する職務の長をこなしている母に、エリカは特別な想いを抱いていた。
伯の屋敷の中庭にも、エリカの父が好んでいたという薔薇の花が植わっている。
ブランカに頼めば、これと同じ薔薇の苗を、西の街に帰るときの母のお土産にできるかしら?
いつまでもその美しい姿を保っている、濃赤色の花弁を、エリカはずっと見つめ続けていた。
と。
いつまで寝ているつもりですか?
聞こえてきた、ダリオの静かな怒りに満ちた声に、はっと薔薇から目を離す。
昨日夜遅かったのは認めます。
ですが、そんなにだらだらしていて良いのですか、エリカお嬢様?
あ、……はい。
どんなときでも常に、きちんと、生活すること。母とダリオに毎日言われている言葉が脳裏を過ぎる。
こんな、少し気怠いときこそ、リトに剣術を教えてもらってすっきりしよう。エリカは一息でベッドから飛び起きると、ダリオを部屋から追い出して素早く普段着に着替えた。
だが。
あ、れ?
屋敷の何処にも、リトが、居ない。
昨日の疲れで、まだ眠っているのだろうか? しかしリトの部屋を覗いても、きちんと整えられたベッドが見えるだけ。やはり、リトは、何処にも居ない。
リトは?
食堂を整えていたダリオに、尋ねる。
知りませんよ。
ダリオの返答は、どことなく怒りと呆れを含んでいた。
婚約者がいるにも拘わらず、他の男性からもらった花をうっとりと眺めている女性に、愛想を尽かしたのかもしれませんね。
えっ……!
あの薔薇に、ラウルのことなど重ねてはいない。ただ、綺麗だから、飾っているだけ。ダリオにそう、抗議しようとしたエリカは、しかしダリオの咎めるような視線に押し黙った。
あの薔薇は綺麗だから、部屋に飾っている。だが、リトからみたらどうだろうか? もしエリカがリトだったら、ダリオの言うとおり、他の男の人からもらった花に目が眩んでいる軽薄な女性だと、判断する。
考えてなかったなぁ……、リトの気持ち。
なおもエリカを呆れるように見つめるダリオに、エリカはうなだれて息を吐いた。リトに、悪いことをしてしまった。しかし、あの綺麗な薔薇を、捨てるのは、惜しい。だから。
オルディナバ公の屋敷に行ってくる。
顔を上げて、ダリオにそう言う。
勘違いしないで。
ブランカに薔薇を返しに行くだけだから。
そしてエリカは、呆れと怒りをありありと顔に浮かべたダリオに背を向けた。
わざわざ返しに来なくても。
薔薇園で、エリカが差し出した薔薇を受け取ったブランカの呆れ声に、少しだけ微笑んで、俯く。
うん。
……でも。
綺麗な薔薇は惜しいが、リトの方が、大事。それが、エリカの偽らざる想い。
そんなに、リトさんのことが好きなんだ。
う、うん……。
茶化すようなブランカの言葉に、頬が熱くなるのを感じる。
確かに。
……あのお兄様を打ち負かせる人だもんねぇ。
続くブランカの言葉に、エリカはこくんと頷いた。だが。
本当に、素敵よねぇ。
背は低いし、華奢で強そうには全然見えないんだけど、物静かで、美人で。
……えっ!
続くブランカの言葉に、息が止まる。
お兄様や他の騎士達みたいにがさつじゃないし、実は狙ってる女友達も多いのよ。
ええっ……!
そ、そうなのっ!
リトは、私の婚約者なのに。その言葉を、辛うじて飲み込む。
リトとエリカの婚約を決めたのは、何事も強引なエリカの母。リトがエリカ以外を選ぶのであれば、エリカは異を唱える立場には、無い。でも。周りが急に暗くなった気がして、エリカは服の裾をぎゅっと握った。
でも、リトさんはエリカさん一筋みたいね。
そのエリカの耳に、あくまで明るいブランカの声が響く。
昨日の晩餐会で、友達の一人がリトさんに告白したみたいだけど、『婚約者がいるから』ってリトさん言ったみたい。
そ、そう……。
そのブランカが紡ぐ言葉に、エリカは心からほっと、胸を撫で下ろした。