次の日も、剣術の稽古の後で、図書館に行く。

 帰り道は、おそらく人が少ないと予想される、帝の宮殿が建つ北側の丘の麓をぐるりと回ることを、リトとエリカは選択した。

帝都は、色々な『顔』を持っているんだね。

 貴族階級が暮らす大邸宅と、その間に見える草地に、エリカの横を歩くリトが微笑む。確かに、リトの言う通り、この場所は、宮殿の南側に広がる喧噪に満ちた街とは打って変わった、静けさに満ちた場所だった。

 と。

……?

 その静けさを破る、争うような声に、身構える。

あれは。

 遠くを見たリトの視線を追うと、貴族屋敷の間に広がる草地の広場に、何人かの人影が、あった。皆、紫色の飾りマントを留めた白色の服を身につけている。帝直属の近衛騎士、紫金騎士団の服装だ。リトと共に皇太子殿下に目通りした時の、金釦のついた派手に見える制服が天井の高い謁見の間にずらりと並んだ光景を、エリカは少しの滑稽さと共に思い出した。

紫金騎士団と、……黒銀騎士団の人もいる。

 リトの指摘に、もう一度、大きく動く人影を注意深く見つめる。確かに、紫色のマントの中に一人だけ、リトと同じ黒の飾りマントを身につけた人が混じっている。

 帝国の騎士団に所属する騎士達は、騎士団の名の中に入っている色のマントを身に付ける。帝の近衛騎士『紫金騎士団』は紫のマント、そしてリトも所属する帝国西方の守護を任務とする『黒銀騎士団』は黒のマントを。

剣の稽古をしているようだけど、……動きがあまり良くないな。

 確かに、騎士達の動きは的確だし、特に真ん中にいる大柄な人物の、剣を振り下ろす素早さは群を抜いている。だが、攻撃を避けたり、避けた後で再び踏み込む足の動きは、……下手だ。まだ始めたばかりだが、リトの指示通りに足捌きの練習をしているエリカには、リトの言葉がすぐに理解できた。

帝都では、無用な争いは起こさない方が良いでしょう。

 昨日掏摸を叩きのめしたことを耳にしたらしいダリオの言葉を、思い出す。
 エリカ達は何もしていないが、何もなくても難癖をつけてくる輩はどこにでもいる。騎士達からついと目を逸らし、別の道を探し始めたリトに、エリカはこくんと頷いた。

 その時。

やあ、リトじゃないか。

 紫金騎士団に混じっていた黒マントの青年が、リトとエリカの方に手を振るのが見える。

……あの人は。

 仕方がないと言うように唇を横に伸ばしたリトの背を見、エリカもリトの後ろから騎士達の方へと歩を進めた。

だが、何故、黒銀騎士団の長、シアノ殿が、この帝都に?

 黒銀騎士団は、帝都の西方を守るのが職務。その長が何故、帝都で紫金騎士団と一緒に訓練をしているのだろうか? 首を傾げたリトに、エリカも首を傾げた。

 その間に、シアノは、どことなく頼りなげな雰囲気を漂わせた笑顔でリトの方へ握手の手を伸ばしてくる。

久し振りだな、リト。
平原のことで、陛下に報告に来たのか?

はい。

 リトにとっては、シアノは、同じ黒銀騎士団の上司にあたる。だから、というわけではないのだろうが、リトはシアノに小さく頭を下げ、そして一歩、後ろに下がった。

謁見の間で見たぞ、こいつ。

 そのシアノの横から、横柄な声が割って入る。
 暑い初夏の日差しの下にも拘わらず、紫色の、分厚く見えるマントを羽織っている。先程見た、素早く剣を操っていた騎士だ。そのことに気付くより早く、エリカの前にリトの腕が伸びていた。

平原の魔物を剣一つで退治してきた『黒剣隊』の長だと言うじゃないか。

ラウル殿。

 紫のマントを羽織る、リトを馬鹿にしたような傲慢な物言いの騎士に、びくっと震えたシアノが一歩下がって場所を譲る。そして。

あっ!

 何の前触れもなく、ラウルと呼ばれた騎士は、リトに向かって手の中の大剣を目にも留まらぬ早さで振り下ろした。

リトっ!

 しかしエリカが叫ぶ前に、リトは揺れるような動作でその必殺に見えた刃をかわす。
 そして。リトはラウルの方へ一歩踏み込むと、その小さな拳をラウルの腹へとめりこませた。

うぐっ……!

 一声呻いたラウルが、草地の地面にのびる。

あ……。

ら、ラウル殿っ!

やっぱり……。

 やはりリトは、……手加減ができない。身震いを示したシアノと、顔色を変えてラウルを助け起こしたリトを見つめ、エリカは息を吐いて微笑んだ。

 その、次の日。

 エリカとリトは、帝の宮殿が建つ丘の北西部に向かっていた。

……全く。
無用な争いは避けてくださいと、あれほど申し上げましたのに。

 リトから昨日の一部始終を聞き、呆れた顔をしたダリオの声が、脳裏に響く。

でもっ!

 先に攻撃を仕掛けたのは、向こうだ。そう言ったエリカを、ダリオは頷くだけで制した。

ラウル殿は、帝の近衛騎士でもある『紫金騎士団』の団長。帝の従兄弟でもあるオルディナバ公の長子なのですよ。

 帝の覚えもめでたい公の機嫌を損ねてしまっては、リトの願いでもある、できるだけ早く平原に戻るという希望が理不尽な理由で潰されるおそれがある。あくまで冷静なダリオの言葉に、エリカは頷くほか無かった。

 そのダリオの助言で、エリカはリトと共に、帝の宮殿がある丘の麓にあるオルディナバ公の屋敷に向かう。

ここ、かな?

 丘の北西部。どこまでも続くように見えた塀の中にやっと、金属制の門を見つける。巨大な、その門の真ん中に描かれている紋章は、帝のみが身につけることができる『輝く太陽』に、一重の薔薇を重ねたもの。ダリオの説明と、同じものだ。

ここ、だね。

 意を決したように頷いたリトが、冷たい門を押し広げる。

 重い音を立てて開いた、その門の向こうに見えたのは。

綺麗……。

 目にしたものに、思わず、感嘆の声を上げる。

 エリカとリトの目の前に広がるのは、無数の薔薇、白い薔薇、黄色い薔薇、薄い赤から濃い赤まで様々な赤色を見せる薔薇。紫や黒や緑の薔薇も、遠くに見えた。

すごい数の薔薇だね。

 むせかえるような甘い香りが苦手なのか、端正な顔を少しだけ歪めたリトが、それでもエリカと同じ感嘆の声を上げる。

しかし、屋敷はどこだ?

 薔薇しか見えない辺りを見回したリトに、この屋敷を訪れた理由を思い出したエリカもきょろきょろと辺りを見回した。

 と。

そこにいるのはどなた?

 明るい声と共に、白いドレスを来た、エリカと同い年くらいの少女が薔薇の間から姿を現す。

……あら。

 その少女は、リトを見て大きく笑った。

確か昨日、お兄様を殴って気絶させてた人。

 昨日は気付かなかったが、どうやらこの少女も、紫金騎士団の稽古をエリカ達とは別の場所で見学していたらしい。

お兄様を打ち負かすことができる人、初めて見たわ。

 あのお兄様が為す術もなく気絶するなんて、可笑しい。リトとエリカの前で大きく笑う少女に、エリカはほっと胸を撫で下ろした。少なくとも、ラウルを『兄』と呼ぶこの少女は、怒っていない。

私、ブランカ。
あなた方は?

あ、リトと言います。

エリカです。

 笑いながら、薔薇園の奥の方へ向かう、ブランカという名の少女の手招きに、一瞬躊躇う。ここへ来た目的は、ラウルに謝ること。だが。

放っておいて良いわよ、お兄様のことなんて。

 あっけからんなブランカの言葉に、躊躇いは消える。

いつも『自分が一番だ』って思っている人なんだから、一度鼻っ柱をヘし折ってやった方が良いのよ。

 続くブランカの声に、エリカはリトの手を取った。

行きましょう。

え、……でも。

お兄様だったら、今、宮殿に行っているから。

 蔓薔薇で作ったアーチの向こうから響く言葉に、仕方がないという顔をしたリトの小さな手を、エリカはそっと、握った。

 そしてブランカの先導で、見事な薔薇園の中を歩く。エリカの父がエリカの母に贈ったという蔓薔薇は見当たらなかったが、母が中庭に植えていたものと同じ花の形をした薔薇が幾本も、エリカの瞳に優しく映った。

紋章にも使われているくらい、この薔薇園は、オルディナバ公家の誇りなのよ。

 そのエリカの耳に、ブランカの明るい声が響く。

最近は、皇帝陛下も気に入っているみたい。
お父様が時々、従者に言いつけて切り花を多量に宮殿へ持って行っているのよ。

 香りが強い薔薇の側に来た所為か再び端正な顔を歪めたリトに、エリカは思わず微笑んだ。

 と。

客人の案内ご苦労、ブランカ。

 横柄な声が、空間に割って入る。

 顔を上げると、昨日リトが腹を殴ったラウルの、上背のある傲慢な姿が、エリカとリトの前にあった。

あらお兄様。
いつお帰りに?

さっきだ。

 妹であるブランカの言葉にそう答えるなり、ラウルがリトの前に立つ。

何を……!

 エリカが身構えるより先に、ラウルはリトの小さな背をその大きな手で軽く叩いた。

悪かったな。
昨日はいきなり剣を振り回して。

 何度もリトの背を叩くラウルの声は、意外にも、屈託の欠片も感じられない。

良かったぁ……。

 ラウルは、怒って、いない。
 エリカは大きく息を吐いた。

しかし、さすが、シアノよりも黒銀騎士団長に向いていると言われているだけのことはあるな。

いえ、ラウル殿。

 そのエリカの目の前で、ラウルに誉められたリトが首を横に振る。

シアノ殿は、私より立派な騎士団長ですよ。

 リトも所属する、帝国西方を守護する黒銀騎士団の長、シアノは、帝の血筋に連なる大貴族の息子であると聞いている。大貴族というだけで騎士団長の位を手に入れた、実力を伴わない人物だとも。確かエリカの母も、シアノの無能さをしばしば貶していた。

 だが。
 ……母は、剣の技も人をまとめる術も卓越したリトが黒銀騎士団の長になるべきだという意見にも、難色を示していた。

リトは、『黒剣隊』の隊長として自由に振る舞っていた方が実力を発揮できるわ。

 前に母が呟いていた言葉が、エリカの脳裏を過ぎる。

 確かに、リトは、剣を持って戦っている方が、美しく見える。背の高いラウルに肩を叩かれ、困ったように微笑むリトに、エリカも何故か、困ったような心持ちになった。

 と。

……そうだ。

 リトから離れたラウルが、不意に、エリカの前に立つ。

美しい人に、この花を。

えっ……!

 そう言って、ラウルがエリカに差し出したのは、濃い赤色の、すっきりとした姿をした一輪の薔薇、だった。

第二章 帝都での日々 2

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