最終話

亀甲縛りされた青年は、語り終えてぐったりとこうべを垂れた。

その様子は嘘をついているようには見えず、女将と常連客たちは顔を見合わせた。

……しごく、まっとうだね

まっとうすぎて気持ちが悪い

この気持ちの悪さは何だ。あっ、わかったぞ

朱天と呼ばれている黒い髪の男が、カっと目を見開いて菊次郎を指さした。

今の話から、どーしていきなり駆け落ちになるんだ。そこがキモチワルイんだ。
どこにも色っぽい話なんてなかったじゃねえか

それは……

菊次郎青年は消え入りそうにうなだれた。

品物を安定供給するためには、菓子を定期的に製造せねばなりません。

まあ、そうだね

ならば菓子屋を継いで、
わたしが陣頭指揮を取りつつ、
正式に店で作るのが正しいやり方です

ふむ、道理だ

そこで、父親にそのことを話しましたところ、大変な大喧嘩になりまして

お待ち。菓子屋菓子屋というが、
あんたのオヤジさんは何を作ってる?

はい、京菓子です

……朱天、エルンスト、殴っていいよ

ふたたびボコボコにされ、菊次郎青年は「キュウ」と変な声を出して伸びた。

……ああ思い出した。森永屋さんといえば京菓子の名門だ。

茶会の時に、大学に通う優秀なご子息がいると聞いた。
それがこの坊やということか……

銀髪のエルンスト卿はやれやれと首を振った。

親不孝なやっちゃなー

朱天はあきれ顔をすると、おまけのげんこつを青年の脳天に食らわす。

どうするよ、大和路

さあてね。あとは坊やの覚悟次第だね

女将はすっと細い指を上にかざした。その手の上に、エルンストが渡航用のチケットを置く。

マリルーをフランスに連れて行って……さて、それからあんた、どうするつもりだね

ぐったりとした姿勢のまま、菊次郎はうわごとのようにつぶやく。

……フランスで菓子の修行をし、マリルーの故国に戻って、ふたりで店を持てたらいいなと……

ふう

こいつぁだめだな

どうしてですか!

イスをガタンと軋ませて、青年は叫んだ。

わからないかい?

わかりません!

……あんたの夢はそれでいい。
でも、マリルーの意思と夢はどこへ行ってしまうのさ?

青年は目を見開くと、ぽかんと空を見つめた。

…………あ………

やがて菊次郎は肩の力を抜くと、がくんとうつむいた。

………そうか………あの子はここで……この店で、成功することが夢なんだ……

そういうこと

……だから彼女は……あんなに怒ったんですね

だろーな

…………。

しばし、沈黙が続いた。
菊次郎に考える時間を与えるかのように、オトナたちは誰も話さなくなった。



どれくらいの時間が経っただろう。

女将が何かを確かめるように視線を店の方に向け、軽く微笑んだのが合図だった。

おもむろに菊次郎の荒縄は解かれ、彼は解放された。

が、青年はすぐに立ち上がることができなかった。

どうする、お坊ちゃん。
ちけっとは、ここに二枚あるよ

女将がひらひらと紙束を振った。

マリルーをまた駆け落ちに誘う気なら好きにおし。
もうあたしたちは止めないよ。
あんたの本気は分ったつもりだ

……………

………駆け落ちは、しません

菊次郎は顔を上げた。

フランスには、僕一人で行きます。

おお?

一人で修行をして、
父親をきちんと説得できる技量と自信を手に入れて、
それから帰ってきます

…………

もしそれで父親が認めてくれないならば、自分の店を持つまでです

……マリルーはどうする?

万事準備が整ったら、改めて迎えに来ます

随分先の話さね。
……あんただってマリルーにだって、何があるかわかったもんじゃない

…ええ、そうですね。
でも、もし僕が戻ってきて、マリルーが誰かと結婚していたとしても……

菊次郎は嫌な想像を振り切るかのように、頭を振った。

僕の菓子とマリルーのしょこらあとは、
パートナーになれると思います

彼のぎこちない笑顔に、三人は顔を見合わせた。

……殴って、悪かったな

朱天が、ぽんぽんと菊次郎の背中をねぎらうように叩いた。

その二人用のチケットを
往復チケットに変更してもらえるよう取り計らってあげよう。
エルンストの名前を出してこのチケットを船長に見せるといい。

エルンスト卿はチケットに何やら書き込むと、
上品に微笑んだ。

さあ、もうお行き、お坊ちゃん

大和路が背中を押した。

とん、とつんのめるように、
菊次郎は得体の知れない奥の間から、よく見知った店内へと足を踏み入れた。


すっかり夜のとばりが降りた長崎屋の中は、二月にしては随分とあたたかく、しょこらあとの香りを孕んだ湿気に満たされていた。

ランプが一つだけともり、丸く周囲を照らしている。

そこは、店の一番奥の、菊次郎がよく座る席。

テーブルの上には、淹れたてのしょこらあとが、やわらかな湯気を立てている。

菊次郎は吸い寄せられるように、その席に近づいた。

熱いチョコレート。

菊次郎は、席に座ると、
カップに、砂糖を2杯だけ入れた。

とても、苦い。
かすかな、甘み。

傍らにはかわいらしい菓子皿がある。

ビスコッティやカステイラを載せていた菓子皿だ。

しかし今は、何の菓子も載っていない。
代わりに、小さなカードが一枚。

…………。

そのカードを読んで、青年はひとつぶ、ふたつぶ、涙をこぼした。




やがてチョコレートを飲み干すと、
カードを大切そうに懐にしまい、
菊次郎はお勘定を席に置いて立ち上がった。



黒いドアか出て行った森永菊次郎は、
もう振り返ることは無かった。


決意に満ちた足取りで、石畳を踏みしめるようにして、港の方角へ消えて行く。


…………

ドアの横には、マリルーがいた。
彼の後ろ姿を見送りながら、マリルーは一瞬だけ目を伏せてきびすを返し、元気よく店内へと入って、

!!

女将にぶつかった。

全く、こんなに冷えた体をして

女将は、大事な看板娘をショールで包み込むと、困ったように微笑んだ。

行ってもよかったのに、
ばかだね、この子は。

…………

マリルーは返事をせず、女将の胸の中に顔をうずめた。

なあマリルー、あのカードに何て書いたん……

この野暮天

聞こうとした朱天の襟元を、ぐっと引っ張ってエルンストが止める。

はっとした顔で、朱天もまた動きを止めた。

うぅ……

………

うぁぁ……ぁあぁぁぁぁ………

マリルーはそれから、いつまでも、声を出さないように、彼に聞こえないように泣き続けた。

これは、今から136年前のお話。

2月14日の、横浜の片隅にあった、
しょこらあと屋にまつわる、なんでもないお話。

おしまい。

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