しょこらあと物語

第一話

かけおちをしましょう

――――

浦賀にぺるりがやって来てから、しばし。

街を歩く人々の洋装や洋髪も、まるで以前からそうであったかのように、堂に入ったものになってきた頃。

牛鍋屋や写真館が軒を連ねる横浜の街の裏通りに、「しょこらあと」の看板をかかげる珍妙な店があった。

"しょこらあと・長崎屋”

一見、流行りの珈琲屋かと思う店構えだが、どこか薄暗い。

かといって、酒場でもないことは、ただよう香りですぐに分る。

ほの苦く、ほの甘いのである。

その長崎屋で、今まさに女給の手を握りしめている書生。

かけおちをしましょう、マリルー

彼は名を森永菊次郎。






握りしめられている女給。

お前、頭だいじょうぶか?

彼女はマリルー。

店内には他にも客と店の女主人がいたが、
彼らもぴたりと無駄話を止め、一斉にこの若い二人を見つめていた。

僕は極めて正気です。
見てください、荷物もまとめてきました

……

昨日、親父と大喧嘩しました。
ひどいことをいろいろ言われたが、おかげで腹が決まった。
僕はフランスに行きます。

フランスって……

まずフランスに行き、それから二人してあなたの祖国に行きましょう。
ほら、渡航のための船のちけっとも、手に入れました、二人分!

書生は、懐から紙束を二冊出して、机の上に置いた。
女給は外国語で書かれたそれを呆然と見下ろした

この……

……え?

あほんだらぁあああああぁぁ!!

書生は店の壁めがけて吹っ飛んだ。

女給の両手はグーだった。

あらー

いいパンチ

よく飛んだなー

……ま………マリルー?

全然わからん。
なに一つとしてわからん。
お前は菓子屋になるのではなかったか

………

わたしは楽しみにしていたのだぞ、
おまえの菓子をこの店で運ぶ日が来るのを。それを、それを……

うわぁっ

女給は書生を蹴った。

駆け落ちということはっ、わたしをオンナだとっ、
ただの女中としか思っていなかったと、そういう目でしか見ていなかったとっ

殴る。
蹴る。
もうボコボコである。

マリルー、落ち着け

おい、そろそろやばいぞ女将

マリルー!

っ!

女給ははっとして、拳を止めた。

やるなら外でおやり!

マリルーはうずくまる書生と、自分を制する気などさらさら無さそうな女将を見比べ、

………っ

じわりとこみあがった涙を否定するかのように、腰からエプロンをほどいて戸口に走り出す。

白砂糖を買ってくる!

ああ、ついでに牛乳も買ってきとくれ

女将の呼びかけとほぼ同時に、黒いドアがけたたましく閉まった。

………

………

………

大和路屋の女将と常連たちは、一言も発することなく、お互いの顔を見合わせた。

……うぅ……

うずくまっていた森永菊次郎は、痛む肩を押えながらゆっくりと顔を上げた。

ひっ

そして絶句した。

三人のオトナに囲まれていたのだ。


銀色の男の手には、細身の洋刀。

……★

黒髪の男の手には、黒光りするドス。

……チッ

どちらも、切っ先が菊次郎の喉元に向けられていた。

坊ちゃん、うちの看板娘に何するつもりだったか、
ちょいとゆっくり聞かせてもらおうかね?

女主人は、縄紐を両手で引っ張り、ピン、と鞭のように鳴らす。


やがて店の中に、青年のかぼそい悲鳴がこだました。

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