小さな馬車はカタカタ揺れる。
小さな馬車はカタカタ揺れる。
馬車の中、たったひとり、侍女も付けずに乗っていたリリアナは、鳥の声にふと顔を上げた。
蜂蜜色の髪がふわりと揺れて、好奇心たっぷりの瞳が輝く。
馬車の窓から外を覗くとそこは森の中。
リリアナが生まれ育ったリルザ王国と隣国エルス王国の境界にあたる森だ。
森はどちらの国のものでもないが、古くからの習わしもあり、自然とエルス王国の象徴にもなっていた。
城下町の発展した巨大なリルザ王国に対し、小さいながらも魔法が息づき、自然に溢れ、動物も多いエルス王国。
動物の好きなリリアナにとって、エルス王国は憧れの国だった。
自然と魔法の国。
それは剣という武力で他国を従えてきたリルザ王国とは対照的で、だからこそリリアナは小さな頃からエルス王国の文献を読んでは空想にふけったものだった。
初めまして、鳥さん。私はリリアナよ。これからよろしくね
そんな不思議な国だから、鳥に声をかければ返事をくれるような気もする。
窓の外の鳥の鳴き声に心で呼びかけると、鳥が高く一声鳴いてくれた。
聞いたこともない鳴き声ならば、リリアナの心はさらに弾む。
リリアナがエルス王国に向かうのは旅行などではない。
エルス王国の第一王子、ヨシュアとの縁談がまとまったからだ。
リリアナが第三王女であることから、当初は難航した縁談だったが、姉はすべて政略結婚で嫁ぎ済みだったことやヨシュアと年の頃が近いことなどもあり、話はなんとかまとまった。
リルザ王国としても武力でエルス王国を潰すには惜しい理由があったし、小国とは言えエルス王国が引かない理由もあった。
それが『魔法』である。
すでにリルザ王国では失われた秘儀。
エルス王国の持つその力は不気味なものがある。
戦をしかけても武力で従えられるのかは未知数だった。
それに、戦なんてしたくないわ。だって、この国はこんなに綺麗なんですもの!
木漏れ日がさす森をリリアナは夢中になって窓から見る。
こんな森は幼い頃に読んだ童話や絵本にしか出てこなかった。
緑は深い緑から柔らかな黄緑まで様々なグラデーションを描き、その中に絵の具を落としたかのように様々な色が散らばる。
白い花、黄色い花、赤い花、ピンク色の花。
ときどき鹿が走るのが見える。
黄色の鳥が枝に止まって歌う。
リリアナにとってはここはおとぎの国のようだった。
だから、政略結婚だなんてリリアナは考えたりせず、馬車の窓に張り付いてこれから始まるお伽話を楽しみにしている状況だった。
恋は本で読んでもわからなかったし、結婚などさらにわからない。
それなら、両国の幸せのため、そして自分の好奇心のため、生きていくのがいい。
これからの生活を楽観的に捉え、リリアナは自分の胸に手を当てた。
そこに冷たい手触りを感じて、少しだけ寂しくなる。
リリアナの胸元にはリルザ王国の国王――リリアナの父親から贈られた短刀が入っている。
父親としてたったひとり、嫁入りをさせる娘を案じてくれたのはわかる。
わかるのだが、それはすなわちエルス王国を信用していないことにも繋がる。
会ってもいない人を頭から信用しないのも、悲しいわ
だから、これはお守りなのだ。
そう自分に言い聞かせて、リリアナは窓から前方をみやった。
小さな小さな城下町が見えてくる。
エルス王国の城下町も、リルザ王国と違いおとぎの国のように可愛らしい。
目を輝かせて城下町を眺めやったとき、不意に馬車が止まった。
……どうしたのかしら?
リリアナは呟くと、窓の外から御者台へと視線を移した。
御者は手を止めたまま動こうとしない。御者台に身を乗り出し、声をかけようとしたときだった。
動物は好き?
突然横から聞こえた声に、リリアナは驚いて視線を向ける。
この馬車にはひとりで乗っていたのだ。横、しかも馬車の中から声が聞こえるのはおかしい。
慌ててリリアナが横を向くと、リリアナと同じくらいの年の少女が隣に座ってこちらを見ていた。
どこか悪戯っぽい瞳と笑顔。小首を傾げる仕草は可愛らしいが、何か企んでいるようにも見える。
あなたは誰?
質問してるのはあたしだよ。動物は好き?
確かに質問には答えなければいけないだろう。
リリアナは迷わず答えた。
好きよ。じゃあ、あなたは誰か教えてもらえる?
あたしはカティナ。エルス王国に住む魔女よ。あなたはリルザ王国のリリアナでしょ?
魔女!
突然向こうからやってきたおとぎの世界にリリアナは両手を組み合わせ、目を輝かせた。
ずいとカティナという魔女に近づく。
すごいわ、すごいわ! 私、魔女に憧れてたの。ねえ、お友だちになってもらえないかしら?
え? えっ!?
カティナという魔女は瞬きした。穴が空くほどリリアナを見る。
あたし、友だちは作らない主義だけど、リリアナは気に入ったよ。友だちになってあげてもいいかも
本当!? ありがとう、カティナ!
面白い王女様だね、リリアナって。そんなんで、エルス王国でやっていけるのかな
カティナに言われ、リリアナは少しだけショックを受ける。
やはり自分はリルザ王国の花嫁としてふさわしくないのだろうか。
それは出立したときから持っていた疑問だった。
やっぱり、こんな花嫁、エルザ王国にふさわしくないかしら
あたしは好きだよ。でもヨシュアは嫌いかも
ヨシュアとはまさに嫁ぐ相手だ。
リリアナは大きなため息をつく。
がっくりと肩を落としたリリアナの背中をカティナはぽんぽんと叩いた。
カティナの大きな目がリリアナを覗き込む。
大丈夫、大丈夫。このエルザ王国一の魔女、カティナ様がリリアナの味方になったんだから、怖いものはないよ
ありがとう、カティナ。……でも、どうして私のところに来たの?
そりゃ、エルス王国に害なす人物だったら、ヒキガエルにでもしてお帰り願おうと思ってたから
さすがに『魔法の国』エルス王国である。処刑とはわけが違う。
ヒキガエルは嫌だわ。じゃあ、私は大丈夫と判断されたのかしら
動物好きに悪い人はいないもん
カティナはそういうと何か聞き取れない言葉を呟いた。
瞬間、馬車に上下に揺れるような振動が伝わってくる。
とっさにリリアナが馬車の外を見ると、馬車を取り囲もうと沢山の動物がこちらに走ってくるところだった。
鹿、ウサギ、リス、小鳥と言った森の動物から、野犬、野良猫、そして狼や熊と言った人を襲うような動物まで。
どの動物も馬車とリリアナに興味津々と言った様子で馬車の窓からこちらを覗き込んでくる。
この中に嫌いな動物はいる?
正直、熊や狼は怖いけど、嫌いではないわ。あとはどの動物も好きよ
よし。じゃあ、みんなで城に向かおう。あたしなりの婚礼パレード!
カティナの声で馬車はゆっくり動き出した。
馬車の後ろから動物たちがぞろぞろついてくる。
リリアナは窓の外の動物たちを見、遠くに見え始めたエルス王国の城を眺めやった。
こんなふうに動物たちと暮らしていけるなら、なんだか楽しいことが起こりそう
そんな期待に胸を膨らませて、リリアナは馬車の椅子に深く腰掛けた。王女として毅然と前を向く。
こんな素敵な国とけして外交が失敗してはいけない――それはリリアナなりの王女としての責任感だった。