雨の音が聞こえて、コーラルは窓の方をうかがった。

あら、雨ですか? 最近多いですねぇ


ラトゥスが立ち上がる音がした。

洗濯物、洗濯物……


誰にいうちもなくつぶやいて、ラトゥスは部屋を出ていく。

関節が痛む、とぼやく老いた侍女には悪いが、コーラルは雨が好きだった。

あらあら!

ラトゥスの悲鳴じみた声が聞こえた、と思うや、あっという間に強くなった雨音が耳に届いた。
思わず窓の方を向いたものの、厚いカーテンは閉じられていて、おもての様子を知ることはできない。

ラトゥスの足音は、依然庭を忙しなく動きまわっている。

その足音に背を押されるように、刺繍を刺す手を止めたコーラルは二階への階段へと駆けていた。

二階にある部屋の窓を閉めていく。
新調したばかりのカーテンは、手にかけるとなめらかに閉じてなんだか気持ちがいい。

手ずから引いたばかりのカーテンの向こうを、ふとコーラルはのぞきたくなっていた。

そこは森のなかに立てられた家だ。
周囲にひとはいない――遠目にも木々に溶けこむような外観の家である。

コーラルは老いた侍女とふたりで暮らしている。
この家に居を移して以来、コーラルはほかの人間を見ていなかった。

窓、閉めてくださったんですか? ありがとうございます


廊下に引き返したコーラルに、ラトゥスが大きな声をかける。

このまま洗濯物を片づけますから、なにかご用があったらお声を

手伝える?


階段から階下に降りていくコーラルの耳に、呵々と笑うラトゥスの声が飛びこんだ。

アイロンまでお嬢さまに手伝っていただいたら、あたしの仕事がなくなりますよ


一階では洗濯物を満載にした篭を抱えたラトゥスが、よたよたと奥の部屋に消えていくところだった。

じゃあ、お茶でも淹れる?

あら、ありがたいお申し出です。ご相伴させていただきます

雨が勢いを増し、空気がすっと引きしまっていく。

コーラルはストールを身体に巻き、ふたり分のお茶の支度をはじめる。

生家にいたころは、コーラルは家事に従事したことなどなかった。

曲がりなりにも、コーラルは良家の――伯爵家の長女で、十七になったいま、本来なら縁談が舞いこんでいる時期だといえた。

コーラルはいま、マディス国の東の外れに居を移していた。
マディスの中央にあるにぎやかな街に建てられた屋敷を離れ、酪農と農耕で暮らすひとびとが身を寄せ合う、名もないちいさな村の片隅――さらにそのはじにある森に建てられたちいさな家にいる。

侍女とふたりの生活、慣れない手でコーラルは家事をする。
遠慮の言葉を口にするが、ラトゥスはコーラルに家事を教えてくれた。アイロンがけはまだはやい、と断られるが、そのうち覚えようと思っている。
なによりよかったのは、家事をするのが苦痛でないことだった。

部屋の奥から、ラトゥスが歌う声がする。
ラトゥスはちょっと音痴だ。でもコーラルは彼女の声が好きだった。

ラトゥスは生家からついて来てくれた。
温厚だが身寄りがなく、動作もゆっくりになった彼女は、侍女頭から疎まれていた。
コーラルについて屋敷を出るのは、渡りに舟だ、と笑顔で話したのはラトゥス本人である。

この家に彼女について来てもらったのは、彼女が祝福された身だからだ。

老いた彼女の双眸は白く濁っている。
しかしそれは老いゆえのものではない。
生来彼女は視力が弱く、幼くして光を失いつつあったそうだ。
しかし神の祝福を得て、ラトゥスはものを見る力を取り戻した。
両の目は濁っているが、彼女は正常にものを見る。

ラトゥスが受けたという祝福は、嘘偽りのないものとされていた。

コーラルと対峙しても、ラトゥスは平然としている。神の祝福を受けた彼女だけが、コーラルの素顔を正面から見ている。

神の祝福を受けた、というラトゥスとは反対に、コーラルは――悪魔の目を持つといわれていた。
金の髪も白皙の肌も、家族親類とおなじものだった。

しかしコーラルの両目は真紅だった。

ひとならざる色彩です


過去、赤子だったコーラルを抱いた母に、そう教会の司祭は悲しげに宣告したという。

赤い瞳は邪眼です、他人を惑わし堕落させるもので……お嬢さまは、ひとから隔離して育てた方がいいでしょう


そのためコーラルは、ずっと屋敷の奥に隠されていた。
存在は誰もが知っている。
だが誰もコーラルの顔を見ていない。
目深く被ったフードで顔を隠すコーラルや、仮面を被ったコーラルを見たものはいる。

だが素顔を見たものはいない。

家族と共に過ごすときは、ひとり明後日の方向を向いて過ごしていた。
邪眼を持つものの視界にとらえられた人間は、狂ってしまうのだという。

だからコーラルは見てはならない。

また誰からも見られてはならない。

その事態が変わった。

姉上、僕……婚約することになったんだ


ふたつ年下の弟に縁談が持ち上がり、どうやらまとまってほしいと家族が考えているとわかった。
縁談がまとまるかどうかは、まだ定かではない。
まとまったとしても結婚は何年か先だし、弟夫婦が屋敷に住むかまだ定かでない。

あれもこれも定かではない。

それでも肌で感じるものがあった。

おねだり、してもいい?


コーラルは自ら両親に申し出た。

なぁに? おねだりだなんて……

私、家を出てみたいの。どこかの別荘が空いてないかしら。そこで、のんびりしてみたい


なにげない口調を心がけたコーラルの声はかたかった。
コーラルの急なわがままに、両親は困った表情をとりつくろっていたが、その下にあるう安堵は隠しきれていなかった。

邪眼の姉がいるとなれば、それだけでも弟や妹たちの縁談に障るかもしれない。

弟の縁談によって、コーラルは自分の立場を直視することになった。
コーラルは弟や妹たちを愛していた。
愛するものたちの障壁となるのはごめんだった。

しかたがない。ちいさい家だが、静かな場所がある


父の了承ははやく、了承があれば用意は瞬く間に進んだ。

果たしてコーラルは、老いた侍女と共に屋敷を出た。

屋敷から遠く離れた土地にある古い木の家は、元々狩りの際に使うためのものだという。
狩りを楽しんだのは先代まで、コーラルの父や親類たちは、中央からほとんど動かないで暮らしていた。

コーラルの移住のために、ちいさな家は事前に手入れがされていた。
ははじめて家に足を踏み入れたとき、馥郁たる木の香りが立ちこめていたものだ。

最初から家には必要なものはそろっていた。

食料の調達などで村に赴くのは、ラトゥスだけだ。

旦那さまの狩りの支度のために、侍女を勤めさせていただいておりました私がこちらに移ってまいりました


村でラトゥスはそう説明したそうだ。
女所帯どころか老女のひとり暮らしと思われては、なにかと物騒だ。
その危惧は村のものの口から出た。

ひとりじゃなんだから、おばあさん、こっちで寝泊まりできるようにしたらいい


村のものは親切にそう申し出てくれた。

いえいえ、屋敷の男手が、入れ替わりで顔を出してくれているので大丈夫です。ご親切にどうも……

ああ、そうか。ひとり分にしちゃあ、買いものが多いものな

森に暮らす老婆を心配して、誰か訪ねて来たりはしないか――コーラルの心配は取り越し苦労で、誰ひとりとして訪れるものはなかった。

コーラルの暮らす家のあるそこは、デュカの森と地図に記されている。

遙か昔にデュカという魔女が暮らし、ほど近い場所にある隣国ザロイとの国境を守っていたとされる。
デュカに敬意を払い、村のものたちは足を踏み入れない。

村にしてみたら、とっても大切な場所だそうですよ

そんな話があったの?

いいえ、前にここに来たことがある、っていう屋敷のものに、教えてもらったことがあるんです

ほかには? なにかいっていた?


ラトゥスは顔のしわをぐっと深くした。

森に立ち入る、余所者である貴族にいい顔をしていない、ってお話でした

……まあ

沸いた湯で茶を淹れ、コーラルは表情をゆるめた。

ラトゥス、お茶が入ったわ

はぁい、ありがとうございます


ちょこちょことやって来たラトゥスは、コーラルの目を正面から見てもなんら変化がない。
大丈夫ですよ、とラトゥスに何度念を押されても、コーラルは彼女の顔を正面からなかなか見ることができなかった。

もとより、ひとの顔を真っ正面から見たことがない。

正面から邪眼を見たものは、邪眼の魔力によって毒されるとされるのだ――だからコーラルはひとの顔を見てはならない、と厳命されていた。
ひとが来れば顔を背け、また近づくものも顔を背けていた。

森でラトゥスのほかに誰もいない、と思ってみても、どうしても身についた隠遁癖で厚いカーテンを閉めてしまう。

こんなにおいしいお茶をいただくと、甘いものがほしくなりますねぇ


つくづくとつぶやいて、ラトゥスはけらけらと笑った。

他愛ない話をしばらくしてからラトゥスは席を立ち、夕飯の支度に取りかかった。

手伝える?

こちらはあたしがやりますから、お嬢さまはご自分のお召しものを箪笥にやってくださいまし


すっかり冷めたアイロン台の横に、コーラルの服が畳んで積まれていた。

運ぶ間にも、台所からラトゥスの鼻歌が聞こえる。

二階にある居室で、コーラルはカーテンの前に立った。
屋敷にいたころは、明るいうちには、たとえ顔を隠していても、おもてをのぞくことは許されなかった。
この森に他人の目がなくとも、身についてしまってカーテンの向こうを見ることができない。
いっとき強くなっていた雨音が、弱まっている。
目を閉じ、コーラルは木の壁に体重を預けた。

……なんだか、温かい気がする


木でできた家を、コーラルは気に入っていた。
これまで暮らしてきた石造りの屋敷に比べ、ちいさく調度も整っていない。
だが質素な家での暮らしは悪くない。
はじめて他人の視線を気にしない生活に、コーラルはとめどない解放感を味わっていた。

初夏にはじまった新しい暮らしになじみ、いまは秋が深まる季節だった。
すっかり家を気に入り、慣れてしまったコーラルの興味は、森へと向いている。

コーラルはおもてに出たかった。
誰もいない場所、外に出たいという欲求をこらえる理由など見当たらない。

ずっと人目を避けるように厳命され、部屋にこもり続けたコーラルでる。

自らおもてに出るのは勇気が必要だった。

なかなか踏み出せず、しかしおもてに出たいという欲求は、移住以来日々高まり――やがてしとしとと雨の日が続く時期がめぐってきたのは先月くらいのことだ。

 ――雨の夜だけ、コーラルは散歩に出る。

おもてに出たい気持ちと、外の世界を恐れる気持ちとの間にあったコーラルが出した結論で――自分に許した、秘密の散歩だった。

今夜は雨が続くのではないか。コーラルはベッドの下にある引き出しから、雨具を取り出した。
レインコートを用意した瞬間から、コーラルは浮き足立っていた。
ラトゥスがつくってくれた夕飯を取り、浮き足だっているのを隠し、雨音に耳をかたむけた。

食器を片づけるのを手伝い、早寝のラトゥスが部屋に下がる、と断りを入れてくる。

休ませていただきますが……


目をしょぼしょぼさせ、ラトゥスはあくびをかみ殺すように口を動かした。

私なら、もうしばらくの間、お茶を飲んでのんびりしてるわ

さようでございますか。あまり夜更かしなさらないようになさってくださいまし

はい。おやすみなさい


ラトゥスが部屋に下がり、家の物音がいっさいしなくなるのをコーラルは待った。
やがてラトゥスが寝入った、と確信できるようになって、コーラルはそっと支度をした。

蝋引きのレインコートをまとい、コーラルは小雨の降る森へと歩を進めた。

ep1 森の家と雨の夜

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