久々に会った君は、僕の記憶の中の君より少しだけきれいになっていた。


一年ぶりに生まれ育った街に帰ってきた僕は、懐かしいその街をひとりで歩いていたんだ。

唐突に降ってきた雨をうっとおしく感じて、僕は近くの喫茶店に入った。


確かに雨が降るとテレビの天気予報で言っていた。

けれど、家を出るとき外は晴れていたし、そんな中傘を持ち歩くのが恥ずかしくて、僕は結局傘を持たずに外へ出てしまっていたんだ。


そこは学生の頃よく通った店で、突然の雨に苛立っていた気持ちも、その懐かしさにすっかり消えてしまっていた。

こういうのも、たまには悪くない。


小さな店のためか、店主のおじさんはすぐに僕に気づいてくれた。
僕はカウンター席に座って、おじさんと他愛もない話に花を咲かせていた。


突然の雨もあってか、店にはかなりの客が入っていた。

相変わらず繁盛しているみたいで安心したよ、なんておじさんに向かって言いながら。


店内を見回していた僕の視線は、一番奥のテーブルに座るひとりの女の人に釘付けになった。

コーヒーに口をつけながら、革のカバーをかけた文庫本を静かに読む彼女。

髪の色こそ変わっていたけれど、間違いない。
彼女は僕が、生まれて初めて愛した人。


…それこそが君だった。


僕は堪らなくなって、席を立った。
震える胸の音を抑えながら、僕は君の座るテーブルに近づいた。


本に夢中でまわりのことなんて気にも留めない君。
休みの日の待ち合わせはいつもここだった。


この、一番奥の席で、君はいつもコーヒーを飲みながら本を読んでいて、僕が来ても、すぐには気付かないんだ。


…そういうところ、変わってない。

僕は懐かしさに思わず口の端を上げた。


そのまま名前を呼ぶと、君は少し驚いたような顔をして僕を見上げた。


僕がこの街に戻ってきているなんて、思いもしなかったのだろう。

でも、すぐに笑みを浮かべて、ひさしぶりと言ってきた。
僕も、ひさしぶりと言った。


あんな別れ方をしたから、もっと気まずい再会を予想していた。


けれど、現実はこんなにも穏やかなものだった。
僕達も、大人になったってことなのだろうか。

僕達はそうして、この店自慢のコーヒーを味わいながら、懐かしい思い出話や、今の自分の話をした。


はじめはちょっとぎこちなかったけれど、だんだんと昔の感覚を取り戻して、僕達はまるで1年もの離れていた時間を感じさせないくらいに自然に笑いあった。


でも、その合間に、すっかり変わってしまった化粧の雰囲気や、睫にかかるほどのびた前髪、それを掻き上げる指の、爪を彩る紫陽花色――僕の知らない君を見つけるたびに、心が痛んだ。


そうして、僕は失くしてしまった1年という月日の長さを思い知るんだ。


君の眼から見た僕はどうだろう。
僕もまた、変わってしまったのだろうか。


失くしてしまった時間は取り戻せない。
そうとはわかっていても、悔やまずにはいられなかった。


君との時間は、本当に穏やかで、大好きだ。
今も変わらない。



それなのにどうして――僕は、こんなにも大切な君との時間を失くしてしまったのだろう。





別れを切り出したのは、どちらのほうからだっただろうか。


…どちらでもいいか。
どうせ、僕達は互いに、ふたりのこれからを見つめることに限界を感じていたんだ。


きっとこれでよかった。よかったはずなんだ。
僕達がそれぞれ望んでいた未来は、全然別の方を向いていたから。



そう、わかっているはずなのに、どうしてこんなにも苦しいんだ。


コーヒーはすっかり冷たくなっていた。


いったいどれだけの間話し込んでいたのだろう。


時計を見る限り、3時間近く話し込んでいたことになる。

もう夕方。
君がちらちらと腕に付けた時計を気にしだしたから、僕はそろそろ帰ろうかと提案した。


君が少しほっとしたような顔をしたのを、僕は見逃さなかった。

誰かと、約束でもしているのだろうか。
いったい誰とだろう。


最悪な想像をして、胸が、ちくりと痛んだ。



君の分まで払うよ、なんて、そんな格好つけたここと言えなかった。

真面目な君のことだから、そんなことさせられない、とかなんとか言うに決まっている。


もう、ただの友達になってしまった僕に、そんなことはさせられない。


そう言われるのが怖かった。

代金をそれぞれ払って、店の外に出る。
雨はまだ降っていた。


僕は、今更になって自分が雨宿りのためにあの喫茶店に入ったことを思い出した。


…まいった。雨は当分止みそうにもない。
どうしようかと迷っていると、君が僕の隣で傘を差し、そしてそれを僕に差し出してきた。


相変わらず準備悪いのね、そう言って。



そんなに昔から準備悪かったかな。
そう訊くと、自覚なかったのって笑われた。

そういえば、前もこうやって、同じ傘に入って帰ったかもしれない。


君の厚意に甘えながら、僕はそんなことを思い出していた。




でも、今と昔では違う。


昔は、同じ傘に入って帰ってもよかった。
帰る場所が一緒だったから。



だけど、今は帰る場所が違う。



…僕は、いつまでここにいていいんだろう。



前みたいに体を寄せるわけにはいかない。


少しでも動けば触れ合ってしまいそうな肩が怖くて、体を引いているうちに、僕の右肩はすっかり濡れてしまっていた。



きっと、君の左肩もこんなふうに濡れてしまっているんだろう。



君がふと立ち止まった。

紫陽花の咲いたこの分かれ道。
ここを曲がって、そのまままっすぐ行けば、君の住む部屋だ。



なんだか別れがたくなって、僕は君に訊いた。


―もう少し、話さないか。


すると、君は少し困ったような表情を浮かべた。

―待たせてる人がいるから。



君が言いにくそうに言った言葉は予想以上に僕の心に刺さった。


…そっか。そうだよね。
もう、あれから1年経つんだもんね。


君の部屋で君を待つ人というのは、いったいどんな男なのだろう。



僕と似てる人かな。
それとも、全く違うタイプの人かな。



答えのわからない問いを、僕は何度も心の中で繰り返した。



君の傘から出るタイミングを窺う僕。

それは君も同じだったみたいで。



これ以上君の困る顔を見たくなくて、僕はまたねと手をあげた。


君は一瞬戸惑ったみたいだったけど、すぐに少し困ったような笑顔を浮かべて言った。



―じゃあ、またね。



そう言って手を振る君の、薬指には日焼けの痕。

そこにあったはずのものはもうない。



君は最後までやさしいんだね。
またねなんて、もう、当分会うこともないのに。



僕は濡れたくないから、君の姿を見ないようにして走り出したんだ。


君の住む部屋はここからすぐのはずなのに。
今はその距離があまりにも遠い。


雨が、僕の頬を濡らす。



傘を持たない僕は、ただ黙って自分の体が濡れることを受け入れていた。



なぜだろう。
こんなに冷たい雨なのに、頬を濡らすものはこんなにも熱い。



それは、君に対する僕の未練にも似ていて。



後悔なんて、今更遅い。

君の手を離したのは僕だ。


今更、僕に後悔なんてする資格はない。




そうわかっていても、僕は雨をよけるすべを知らないんだ。





…今度会う時は、ちゃんと笑ってさよならできるかな…


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