第1話 牙に震えよ左胸

ああ、人の腕なんて、こんな簡単にもげちゃうものだったんだ。


血飛沫と衝撃に赤く茹だるクララの目。
そこに、そいつが自分の左腕をちゅるんと口に含むさまが、妙にスローモーションで映った。

肩の付け根から全身を焼かれるような苦痛。
それが痛みなのかどうかも、もうクララにはわからない。
ただ、少しでもそれが散りはしないかと、やわらぎはしないかと、クララは喉から悲鳴を吐き続けながら、タイルの床をその血で汚しながら、転げ回ることしかできなかった。


両眼も鼻孔もない、頭部の八割を占めるその口腔をぱふぉと開けた、異形の捕食者。

青紫色の歯肉と舌、そして長く太く発達した一対の臼歯をぬめつかせて、そいつは明らかにクララを見て笑った。


整わない息をひゅうひゅうと吐きながら、手を床につき、よろよろとクララは立ち上がる。

立ち上がろうとする。
だが、自分の体を支える腕の片方はもう存在しない。そのことに、脳がついていかない。

上半身をどう支えればいいか、起き上がればいいのかわからない。イメージができない。
イメージしようとしても、あったはずの腕を動かそうと意識しても、

クララ

うああっ......ッ!

その先に何もつながっていない千切れた神経が、ただ激痛を返してくるだけだ。

自分の血で濡れた右手がずるりと滑り、クララはしたたかに自分の顎を床に打ち付けてしまう。

クララ

痛い、痛いよう。

左肩から血の塊が、熱と命が、どくどくとこぼれ抜けていく実感。

その恐ろしさに泣きながら、クララはまた床をのたうち回るしかできない。
地表に迷い出て猛禽に喰われる最期を待つだけの、無力な蛆虫のように。

クララ

あれ、でも、こんなに痛いのに、キツいのに。

クララ

意外と気絶って、できないもんなんだ。

何故だか、妙に落ち着いた思考のまま自分を見つめている自分自身に、クララは気づいた。

クララ

......なんでだろ。

目の前に迫る捕食者の、不気味に白いむき出しの表皮の、醜い皺。
その所々ににじみ出る、血とも脂ともつかない濁った体液。

クララの腕を喰い終えたそいつが、裂けた口の端からぼたりと酸の涎を溢す。
クララの目の前のタイルの床が、しゅうと溶けてえぐられ、白い煙を昇らせる。


嫌なにおいが、クララの鼻をつんと刺す。
それがわずかに、だがはっきりと、クララの意識を呼び覚ました。

クララ

そうだ、痛がってる場合じゃないからだ。

クララはぎりと奥歯を食いしばる。
残った右腕と両脚に力を込めて、上半身をぐいと前に押し出して、床を這い進む。

訓練の時からずっと苦手だった匍匐前進。
もっと真面目にやっておけばよかったと思いながら、割れたショーウィンドウの近くでわんわんと泣く、小さな少女のもとへ。

クララ

あの子は私が、守らなければいけないんだ。

私はここにそのために、戦いに来たんだから!

ずくずくと痛む左肩に歯を食いしばりながら、弱々しく、だが少しずつでも、クララは進む。

パオ

アーデルを捕獲!?
今度はなんの冗談だ、ミスティさんよ!

CAT西ボリア支部長室の散らかったデスクを、隊長パオ・フウの拳が鳴らして揺らす。

ミスティ

先月1日付けで議決された、最高議会の方針です。今後ルクスが行うすべての対アーデル戦闘は、通常火力の一切を使用禁止。すべて新たに制式採用される非殺傷兵装を用いて行うことになります

パオ

バカ野郎! 生け捕りなんてハンデ戦してる余裕、どこにあるってんだ!

ミスティ

通常パトロール時の携行火器も、以下のものに統一されることになります。銃器はパラライザーが1、白兵戦用テーザーバトンが1、スタングレネード......

毛耳(けみみ)を逆立ててがなり立てるパオに、傍らに控えていたクララ・キューダはびくりと背を強張らせた。
だが当の副隊長ミスティ・ブルーは眉一つ動かさず、手にしたホログラムボードのテキストを、淡々と読み上げ始める。


ミスティの招集に応じ支部長室に集合したクララたち、CAT西ボリア支部、通称ルクスの機動歩兵部隊の面々は、顔にも声にも出さないものの、その見解はパオ・フウと全く同じだ。


アーデルを捕獲など、できるはずがない。
自分たちフェーレスにとって最大の脅威、襲い来る捕食者アーデルたちを、生かして捕えるなど。

パオ

いい加減にしろ、連合のエリートさんよ。ただでさえあいつら相手の戦いは、体張って命張り合って、ようやくとんとんって状況なんだ。そこへそんなオモチャ渡されて何ができるってんだ! わざわざ喰われて来いってことか! ああ!?

ミスティの態度にパオはこらえきれず、デスクから回り込み彼女の胸倉を掴み上げ拳を固める。
神経質に整えられた、ミスティの軍服の襟が乱れる。

そこまでされてようやく、ミスティはパオ・フウをじろりと見る。

ピクシー

短気起こすとまた減俸されてしまいますよ、パオ隊長

今にも殴り掛からんばかりのパオを、ゆったりした声でぴしゃりと止めたのは、機動歩兵部隊を率いるリーダー、ピクシー・ボブだ。

パオの唾(つばき)でも飛んできたのだろう。
自分の眼鏡をこしこしと拭いている。

ピクシー

ミスティ副隊長。ご自身が今告げた、そのアーデル捕獲命令とやら。私たちにとってそれがどれだけ難儀なものか、本当にお分かりですか?

やんわりとだが、ピクシーは確かにミスティに対して反意を示している。
それを察したパオは、ミスティを掴んでいる手をわずかに緩める。

その隙に、ミスティは鬱陶しげにその手を払い、襟を直す。

ピクシー

確かに西ボリア地区は、ロボニャー戦が必要な大型アーデルの出現報告が少なく、代わりに私たちフェーレスと同寸程度のミモル型アーデル、あるいは大型肉食獣程度のモル型アーデルの出現頻度が高いことが報告されています。他地区と比べれば、アーデルたちのサンプルを採取するにはふさわしいエリアでしょう。

ピクシー

ですが、だからと言ってわざわざそんなオモチャしか持てないハンデ戦を選べるほど、楽な状況下にあると思われるのは心外ですね。我々前線で戦う部隊は、お世辞抜きで命がけなんです。 ここに来てアーデル捕獲、などと方針変更する世界連合最高議会の真意は、一体どこにあるんでしょうね

ルクスの総意を代弁するようなピクシーの問いかけに、機動歩兵部隊の面々は小さくうなずく。

西ボリアに暮らすフェーレスたちの、そして何より戦場で自分たちの命を守る為の武器を、何故訳もなく取り上げられなければならないのか。

そんな理不尽に従って、自分たちが戦場でどうなるというのが、このキャリア組の女にはわからないのだろうか。

ミスティ

何か勘ぐっているようですが

ミスティはホログラムボードの映像を切り、自分を睨みつけるルクスの戦士たちを端から一瞥する。


そして、わざとらしくひとつため息をつき、

ミスティ

あなたがたは兵士で、この方針変更は命令です。命令に従わない兵士に、残念ながら議会は武器も居場所も与えることはできない

ミスティ

手ぶらでアーデルの群れの中に放り出されたくなければ、まずはそのオモチャでアーデルの一匹でも捕まえて、あなたがたの兵士としての価値を見せてみてはいかがですか。オモチャが気に食わないと駄々をこねているより、どう生き延びるかに時間を使う方が有意義でしょう。議会の真意とやらを知りたいのなら、尚更ね

以上です。表情ひとつ、耳ひとつ動かすことなくミスティは冷たく言い放ち、支部長室を出ていった。

パオ

くそ、ッ......!

パオは行き場を失った怒りの拳を、今度は白い壁に叩きつける。

クララ

マーメイさん......

重い空気に耐え切れず、クララは隣に立つ先輩の名を呼ぶ。

マーメイ

一番ワリ食うのはあたしらじゃないか、ちくしょう......

美しい黒髪が、深いレッド・ジャスパーの瞳が、静かな怒りに小さく震えている。

マーメイ・ドラゴン。ルクス機動歩兵部隊において最も敵と肉薄する役割を担う、美しき対アーデル白兵戦闘員。

だがそんな彼女が、戦いを前にこんなにも苦い顔を見せているのを、クララは見たことがなかった。

マーメイ

とりあえず、新入り。余計なことはしないでいい。殺(や)るだけでも厄介なあいつらを、生かして捕まえるとかいう無茶振りされてるんだ。誰かの足を引っ張るようなマネだけはするんじゃないよ

クララ

......了解しました

そっけない言葉で突き放すマーメイに、クララは小さく返事をする。


クララ、そしてすべてのルクスの戦士たちの胸中に、黒い不安ばかりがわだかまっていった。

駄目だ、パラライザーが効きゃしないよ!

この前捕まえ損ねたやつね、高電圧に耐性がつき始めてる……!?

バッテリーのセーフティはずせ! 喰われたくなかったら......ぐわあっ!

戦場と化したショッピングセンターを、パラライザーの青いフラッシュが何度も焼く。


モル型と呼ばれる大型肉食獣大のアーデル、アーデル・モル=ズール種の平均的な個体と比べ、目の前のそいつは明らかに大きく、強かった。

今までに遭遇したその種のアーデルであれば、時間はかかっても、支給された非殺傷武器でもなんとか弱らせ、捕獲することはできた。

だが今対峙しているそのアーデルは、個体差の範疇を大幅に越えた異常な耐性と筋力を獲得していた。


アーデルは天井に頭をこすりつけながら、名状し難い音で吼える。

筋肉の異常進化で膨れ上がった腕を振るい、クララをかばって立つルクスの戦士たちを薙ぎ払う。

飲み込んだ腕の味を覚えたのか、その捕食者の食欲は間違いなく今、クララに向いている。

クララ

あーあ。マーメイさんにまた、言わんこっちゃない、って言われちゃうな。

マーメイはミモル型アーデルの群れを追い、施設の上階へと跳んでいった。

週末のショッピングセンター。

予想しうるその惨劇を防ぐため部隊を二分した直後、この異常なモル型アーデルは現れたのだ。


無理やりでも、マーメイさんについていけばよかったな。
仲間たちの悲鳴や頼りない銃声を聞きながら、クララはそう思った。

そうしていれば、迷子の少女を見つけて、かばって、腕を食べられちゃうようなこともなかったかもしれないのに。


クララはなんとか、少女のもとへとたどり着いた。
長い長い匍匐前進だった。

ぐいと右手で上半身を押し、ごろんとあおむけになる。
細かく散ったガラスの破片が、ちくちくと肌を刺し、切る。


そうだ、そういえば。

クララ

ねえ......きみ......

クララ

おなまえは、なんていうの

血を流しながら問いかけるクララを、涙と鼻水まみれの顔で、少女が見上げる。


小さな毛耳は、恐怖でぺたりとたたまれている。

く......クララ

クララ

ほんと......お姉さんと同じ、だね

痛みと絶望で焼き切れそうな意識の中、クララは思い出していた。


そうだ。かつての自分も、こうして捕食者の手から守られたおかげで、生きているのだ。


怒りっぽいけど頼もしい、パオ・フウの背に。


か細い銃を手に猛る、ルクスの戦士たちに。


そして、あの恐怖の中でも見惚れるほどに美しく舞い降りた、マーメイの胸に抱かれて。

クララ

大丈夫だよ、お姉さんが、守ってあげるから

でも、お、お姉さん......手が......!

言われてクララは、左手を失ったことを意識させられる。肩がずくんと痛む。

クララ

手......そうだね、なくなっちゃったね。でも

アンダースーツもプロテクターも、左側半分以上が引きちぎられて無くなった。
露わなクララの薄い胸を汚す彼女自身の血は、まだ乾くことなく、ぽたぽと滴(しずく)を落としている。


だがクララは膝を折り、地に脚を踏ん張る。


右腕で体を支えながら、柱に顔と胸をこすりつけるようにして、立ち上がる。

今私がこの子を救わなければ、命をつないだ意味がない。

自分も今はマーメイや隊長たちと同じ、ルクスの戦士なのだから。

クララはきっと唇を噛む。
舌に触れた鉄の味が、辛うじて自分の生を意識させてくれる。

クララ

大丈夫よ、クララ、大丈夫。

片方だけになってしまった手で、震える少女の手を取るクララ。
力がうまく入らない。

でも、何としてもここから連れ出さなければ。
生き延びなければ。

違う、戦わなければ!

ウルタール、
忌まわしき罪業の惑星。


命の黄昏に抗おうとする、
か弱き仔猫たちの前で。


人ならざる形の絶望は今、
にたりぬらりと
その臼歯を濡らした。

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