1.はじまりは、それと気づかず起こるもので。
1.はじまりは、それと気づかず起こるもので。
大きな川で、子どもたちが魚をつかまえようとしている。その中に、小柄な娘が混じっていた。
長い髪は頭の高い位置で、ひとつに結わえられている。着ているものは、色は地味だが上質の小袖で、動きやすいように、たすきがけをしていた。腰から下は脚を隠すためか、ひざ丈の四幅袴(よのばかま)に脚絆(きゃはん)を巻いている。
彼女の名前は紅鶴(べにづる)。ここ植村(うえむら)の地を治める領主のひとり娘なのだが、しとやかとは無縁の、おてんば姫だった。
そっちに追い込んで!
子どもたちに指示を出し、水面を叩いて魚を追いやり、広げている網へと誘導する。
やったぁ、入った
大漁だよ、紅ちゃん
今夜はお魚のごはんだー
はしゃぐ子どもたちに、紅鶴は目を細めてうなずいた。
そこへ、ゆったりとした馬のひづめの音が近づいてくる。
紅鶴が目を向けると、立派な栗毛の馬に乗った、若武者(わかむしゃ)が現れた。
少しクセのある髪をなびかせている彼の、精悍な顔立ちに見覚えがなかったので、紅鶴は声をかけることにした。
見ない顔ね
その声に、若武者は馬の足を止めた。
きりりと引き締まった眉と、通った鼻梁(びりょう)をした、なかなかの美青年だ。
しっかりと彼を見た紅鶴は、やはり知らない顔だと確信した。
魚取りか
青年の声は、張りのある深い音をしていた。堂々とした態度から、それなりの地位にある男だろうと、紅鶴は推察する。
植村の領主屋敷を目指しているの?
なぜ、そう思う
あなたの身なりと、態度からよ。どこかの使者なんじゃない?
青年は馬から降りて、じろじろと紅鶴を見た。
ちょっと無遠慮すぎるわね
そんなふうに女性を見るなんて、失礼じゃないかしら
ああ、そうか。悪かった。俺が使者だと判断した、そなたはいったい何者かと思ったのだ
私じゃなくても、里の者はみんな、あなたが使者だろうって思うにきまっているわ
おいらだって、使者だってわかったぞ
立派な馬に乗ってるもんね
おれらの馬は、やせっぽちだからな
お侍さんの馬は、領主様の馬みたいに、りっぱな馬だもん
だれだって、すぐにわかるぞ
着物だって、きれいだからさ
はは。そうか、なるほど。そうだな……そなたでなくとも、俺の身なりや馬を見れば、どこぞの使者だと考えておかしくない。いや、すまなかった
女や子どもが生意気な、なんて言われるかと思ったけれど、素直にあやまるなんて好感が持てるわね
いいってことよ
紅鶴がなにかを言うより先に、胸をそらした子どもが答えてしまった。
それより。お侍さんは、どこから来たの
子どもたちが、ザブザブと川から上がって青年を取り囲む。
俺か? 俺は伊香(いか)の国の者だ
伊香の国って、どこ?
こっから遠いの?
そうだなぁ。ボウズたちが歩いて行くには遠いが、馬に乗れば3日ほどで国境(くにざかい)に着ける
この植村の隣の国、瀬至(せい)の向こうにある国よ
紅鶴は川から上がりながら、なんの用件で彼がここに来たのかと考えた。
天帝様が治めておられる陽ノ元(ひのもと)は、いくつかの国に分けられ、それぞれの領主が土地に合った治世を行っている。大原則は天帝様の発せられる理(ことわり)で運営されるが、細かな国のやり方は領主の手腕にかかっていた。そのため、国交の使者の行き来があるのは、めずらしくない。
そなたは、地理に明るいのか
明るいってほどじゃないわ。植村の干し茸や野草の粉末が、多く伊香に送られているから、知っているだけよ
ほう
なに?
交易のそろばんを弾いておるのか。子どもらと漁をしているものだから、てっきり子守りか農家の娘だと思うておったが。そなた、商家の娘だったか
紅鶴は軽く肩をすくめただけで、否定も肯定もしなかった。
私はただ、こうして子どもたちと触れ合うのが、好きなだけ。この子たちの手伝いをするのは、とても勉強になるもの
勉強? どんな勉強だ
どんなって……。そうね。強いていうなら、生きるために必要なこと、ってところかしら。魚の捕まえ方もそうだけど、山菜や食べられる茸の見分け方なんかは、子どもたちのほうが詳しいから
なるほど。有事の際に必要な知識を、普段から身につけておきたい、というわけだな。商家の娘は、行儀見習いや手習いなどを重視するものだが、なにごとか異変があった場合、それらはなんの役にも立たぬ
そうよ。ほんと、そう
まあ、私は商家の娘ではないけれどね
それを正す必要もないだろうと、紅鶴は自分の素性を明かさなかった。ここで領主の娘だと言って、妙にかしこまられても困る。子どもたちにも、単なる武家の娘だとしか言っていない。父の国定がおおらかで、民との交流を楽しんでいるという下地もあって、子どもたちが自然と紅鶴の正体に気づくまで、里の大人も秘密にしてくれている。
お父様が、私のお父様でよかったわ
紅鶴は折りにふれて、そう思う。ほかの武家の娘たちは、子どもたちと川や山に入ることは、許されていないからだ。
芸事では、腹は満たされぬからな
お腹が減ったら、お琴も踊りもお習字も、なんの役にも立ちはしないわ
そのとおりだ
じつに愉快そうに、青年は声を立てて笑った。爽快な笑い声が、高い空へと舞い上がる。
なんて気持ちのいい笑い方なのかしら
紅鶴は彼への好感を深めた。
なるほど。たくましい女性の生きている土地なのだな。訪れてよかった。いや、いい出会いだった。礼を言う
青年はヒラリと馬にまたがると、ニッコリとした。
いずれ、また会おうぞ
ええ
あとで、彼が誰なのか、お父様に聞いてみよう
紅鶴は青年の颯爽とした後姿を、楽しげに見送った。
(つづく)