修羅の刻は来たれり……。

え……修羅?

アイドルデビューを果たした深春だったが、即、目も回るような忙しさ……などということはなく、現状、レギュラーで取れた仕事は週一回のストリーミング放送の収録のみだった。もっとも、「メイドでアイドル」を自負する深春にとって、店での「ご主人様」との交流は欠かすことの出来ないものであり、アイドルとして束縛され過ぎないことには利点もある。

この放送の別の曜日分をカーミラが担当していた。あくまで放送日のみが異なるもので、収録日は重なることもある。スタジオで居合わせたときには会話することもあった。もっとも、二言三言程度だったのだが。

その日の会話は、カーミラの謎めいた一言から始まった。

修羅の刻って……別に新刊が出るわけじゃないよね。

似たタイトルの漫画はあるが、関係はなさそうだ。

収録に臨むカーミラは、吸血鬼キャラを維持するためなのだろう、ステージ衣装よりは軽装とはいえ、ゴスロリ然とした服装だった。言語も魔王スタイルのため、聞き手はまずそれを解読しなければならない。

深春はまず、カーミラをつぶさに観察することにした。

……。

いつも白磁のごとき彼女の肌は、この日はむしろ青ざめているように見えた。体調が思わしくないのだろうか? 何か無理をしているのではないか?
これまでのやりとりと涼花のヒントから、深春にもカーミラの思考が部分的にも再現できるようにはなっていた。彼女は「下僕」たちのため、自らの世界観を完成させることに手間を惜しまない。その辺りに理由があるはずだ。

えっと……カーミラさんの直近の予定は……。


深春は首を回し、スタジオの廊下に並ぶポスターに目を向けた。放送局には、関係するアーティストのポスターなどが貼られていることがある。それはCDのリリースやライブの告知などを兼ねているものだ。

あった。どれどれ……。

目指すものはすぐ見つかった。Carmillaの文字を薔薇の花のように図案化した紋章が刻まれた、モノトーンのポスター。二十日後の日付に、"ON SALE"の文字が添えられている。

CDが出るんだ。ということは……?

音声さえ録ればCDは出来るというものではない、それは深春も理解していた。ミキシング、マスタリングといった音響上の作業もそうだが、ジャケットを作成し、PVを作成し、方々に宣伝も打たねばならない。世界観にこだわるカーミラだから、新曲にはそれに合った衣装を用意しようとするだろう。

そのような状況を前にして、「修羅」とは。

そうか! 新曲の衣装作りが修羅場なんですね!

……如何にも……。

疲れがありありと見える返答だった。
深春の意志は決まっていた。

あの、お手伝いさせてください! 今私そんなに忙しくないし、この前服を直してもらったままだし、ちょっとならお裁縫もできますから……。

伏し目がちだったカーミラの顔が、つ、と上がる。その目に、幾許かの生気が戻ったかのように見えた。そのまま深春をじっと見据えて。

妾の下僕となってくれるのか?

下僕じゃないです! メイドです!

どうもその辺りは譲れないらしい。
だが、否定の意味はなかった。

どうぞ……こちらです。

あっはい。

カーミラの住居と聞いて、どんなホーンテッドマンションかと期待とも不安ともつかないものを抱いていた深春だったが、実際は何の変哲もないコンドミニアムの一室だった。それでも深春の住む四畳半よりは遥かに広く、綺麗に片付けられている。惨めな気持ちを必死で振り払いながら、深春はドアをくぐった。書斎兼作業場と思しき部屋に通される。

先にお茶をお持ちしますね。

あのっ、私が淹れます!

勝手を知らないでしょう? 代わりに道具を出しておいていただけますか。

はい……。

確かに、初めて来た家の台所で渋滞なく茶を淹れられる自信はない。スタジオの更衣室で普段着に着替えていたカーミラは、丁寧かつ温和な仕草で部屋を出て行く。

道具って、どれかな?

とはいえ、この部屋の勝手を知っているというわけでもない。深春は部屋を一通り見回してみることにした。
最初に目に入ったのは本棚だった。薄々予想していた通り、東西の神話や怪異に関する本が多い。それも、文庫やコミックのようなものから、一冊々々が辞書ほどの厚さを有しているものまで様々だ。
隣の棚にはCDが並んでいる。深春に認識できたのはIron Maiden、HalloweenあとMarilyn Mansonくらいで、他は名前も知らないバンドばかりだった。

涼花さんの言ってた通りだ……あれ?

そのCD棚の一角に違和感を覚えた。隅に差し込まれている数枚のCDだけ色味が違う。だが側面からではバンド名が窺い知れない。悪いことをしている気はしたものの、好奇心の勝った深春はそれらをそっと引き出した。

ちょっとだけね、ちょっとだけ……。

お待たせしました。

わあ! す、すみません!

咄嗟に、引き出しかけたCDを後手で戻す(結局、ジャケットを見ることは叶わなかった)

いえ、お気になさらず。そういえば道具の場所をお伝えしていませんでしたね。

すいません、ちょっとわからなくて。

本当は別のことに気を取られていたのだが。
いつの間にか、カーミラは背後のプラスチックケースから道具らしき一式を取り出し、カーペットに並べていた。それが一通り済むと、ちょうどスポーツ選手が使うようなストロー付きの水筒を一本、深春に差し出す。

なるべく考えなくていい作業をお任せします。飲みながら進めて下さい。

渡された水筒に顔を近づけると、ほのかに紅茶の香りがした。

あの……なんで水筒なんですか?

倒しても安心でしょう?

カーミラの手際の良さに、感服するよりない深春だった。

流石のカーミラでも、連日の作業は相当にこたえるものらしい。かつて楽屋で見た時と比べれば、明らかに手元が遅れている。
それでも、端処理やハトメ打ちなど、ルーチンワークを深春に任せることが出来る分、かなり楽になったようだった。
時計の短針が頂上に向かおうという頃、衣装としての一通りの形が成立した。

これなら間に合いそうですね。

今のうちに袖を通してチェックしておかないと……。

私も見たいです……って、ひゃわぁ!! いきなり着替えないでください!!

思わず深春は目を覆うが、どこをどうしたものか、次の瞬間にはカーミラは衣装一式を身に纏っていた。

なじむ、実になじむぞ!

いつの間にか魔王スタイルも復活している。あまりの変貌ぶりに呆れかけるが、確かに、真新しいドレスを身に着けたカーミラは輝いて見えた。

カーミラさん、本当に輝いてるみたい……何か光って……あっ!?

その輝きが錯覚でないこと、その意味を悟ったとき、

深春の身体が動いた。

だめ!! 動かないで!!

!?

っ……カーミラさん、お怪我はありませんか?

わた、妾は大丈夫だ……だが其方は……。

深春の掌に、一本の待ち針があった。そして、指先から流れる一筋の血。
前身頃の縫製の際、疲れによる不注意から、カーミラは待ち針を一本抜きそびれていた。そのまま試着していたことに深春が気づき、それを抜き取ったが、弾みで自らの指を傷つけてしまった。

かようなことが……妾のせいだ……。

先程までの威勢も吹き飛び、叱られた子犬のように縮こまるカーミラ。深春はすぐさま待ち針を針山に戻し、彼女をなだめるべく明るく振る舞い始めた。

そんな! ちょっと刺しちゃっただけですし、私ドジだからお裁縫中にはよくありますから、大丈夫ですって!

せめて、出血を止めねば……。

え? とりあえず洗って、あとで消毒して絆創膏貼ればいいんですから、そんな気にしないで下さい!

そんな深春の声も聞き届けない様子で、カーミラはふらふらと跪き、紅く彩られた深春の手を取る。

そして、その指先を口に含んだ。

(ちゅ……)

え……ええええええええ――!?

指先どころか全身から噴血しそうな勢いで深春の血圧が上昇する。だがそれとは裏腹に、指の痛みは速やかに和らいでいった。

どれくらいそうしていたものか、カーミラが口唇を離し、顔を上げる。

止まったか……?

その言葉が深春の思考回路に届くまでに、数秒を要した。

……ふえっ? あっ、はい! ありがとうございます!

そうか、それは重畳。

どうやら、カーミラも落ち着きを取り戻したらしい。深春の気はまだ動転していたが、彼女が傷ついていないことが救いだった。

あの……今日は本当にすみませんでした。

いいえ。私でよければいつでもお手伝いしますよ。

ありがとうございます。次はもっときちんと準備してお招きしますね。

いや、充分だと思いますけど……とにかく、あんまり無理しちゃだめですよ。それじゃあ、おやすみなさい。

ええ。おやすみなさい。

試着も済み、一通りの作業が終わったところで、深春は暇を乞うこととした。後はカーミラ一人でも充分仕上げられるだろう。
何より深春は、彼女が元気にCDリリースを迎えられることを望んでいた。いくらファンに尽くそうとしても、それで自分が壊れてしまっては意味がないのだから。

あの子は……カーミラはね、いつも一所懸命なのよ。

涼花の言葉が心に浮かぶ。相手のために自らを省みない。それは強さでもあり、弱さでもある。

でも……私にもそういうところ、あるのかな?

自分の指を見つめながら、そんなことを思った。血も止まり乾ききったはずのその指が、濡れたように光った気がして、深春の心臓がどきり、と鳴った。

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