午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。今まで机に突っ伏していた佐伯悠太はその音を聴き、ガバッと顔を上げた。授業をしていた先生がちょうど教卓から降りていくところだった。黒板には地理学の内容がびっしりと書かれていたが、成績は下から数えたほうが早い順位の彼は理解しようとも思わず、頭から追い出した。授業はつまらない。だから、彼はこうして、文学の授業以外は寝て過ごしている。

 教室の窓には青空が広がっていた。グラウンドには体育の授業を終えて校舎に戻る生徒達の声が響いている。

また、寝てんのか、悠太。

うん、寝てた。昨日はバイトで遅かったからさ。

 欠伸を一つ付き、友人の質問に答えた。彼らの通う高校はバイト禁止なのだが、隠れてやっている者は割といる。教師でも無いのに一々それを咎める者はいないだろう。人間関係を円滑に回すためには、必要なことなのだ。

それにしても悠太は災難だよな。

ん、何が?

 友人が佐伯悠太の肩に手を置いていった。これから昼食の時間ということもあり、一人の机に集まりお弁当を広げるものや、食堂に行くため教室を抜けるものなどで教室内は騒がしくなっていた。

何って、今日きた転校生。『和紗係』だよ

 『和紗係』というワードに彼は眉をしかめた。障害者の山内和紗の面倒を見なければならない、はずれクジを引かされたお世話係という意味であった。どうやら佐伯悠太が寝ていた間にクラスの誰かがふざけて作った言葉が浸透していた。

転校生って聞いて『女の子だったら可愛い子がいいな』とか思ったが、車椅子はな。

それ。何でうちの高校にって思ったもんな。もっとバリアフリーが整った学校に行けよって言いたくなるぜ。

それに俺ら来年は受験なのに、お荷物が増えるのは勘弁して欲しいよ。

 心無い数々の言葉に佐伯悠太は胸の奥がざわつくのを感じた。

どうしたんだ?悠太、怖い顔して。

...何でもないよ。飯行こう。

 やや乱暴に引かれた椅子がたてた音に、周囲の視線が彼らに集まるが、すぐに霧散した。

 教室から出る間際、ちらりと山内和紗が佐伯悠太の視界に入った。授業中と同じ自分の席にいて、お弁当を出しているところだった。クラスのあちこちでお弁当を食べるグループが出来ているが彼女のところだけはぽっかり穴が空いたように誰もいない。

 小さな背中が更に小さく見えた。

 佐伯悠太達の通う高校は、東京にあるごく普通の公立高校だ。偏差値も平均的であり、特に変わった取り組みをしているわけではない。挙げられる事といえば部活動のサッカーが去年までは強かったということ、そして、もう一つ上げるならこの学校にはとある財閥の兄妹が通っているらしいという噂がある。

うへぇ、今日はいつにも増して食堂が混んでるな。

 佐伯悠太は目の前の光景を見て呟いた。
 学食以外にも購買ではパンも売ってあり、また自宅からお弁当を持ってきている学生もいる。いつもなら大体同じ割合で食堂は混むことはないのだが、今日は例外らしい。

生徒会長が来てるからだよ。

 食堂の中央には男子生徒が勝手に作った可愛い女の子ランキング上位に入っている女学生達が一堂に集まっていた。そして彼女らに囲まれているのは友人の言葉通り生徒会長となぜか対面には小春蓮司の姿があった。

 件の噂の兄妹の兄こそが生徒会長ではないかと予想されている。3年の藍原あいはら公こう。成績は学年主席であり、入学してから一度たりとも一位の座から落ちたことはない。運動神経も抜群で今年の夏の大会まで各運動部からスカウトの嵐が引き起っていた。容姿も良く整った顔立ちにきりっとした目が黒縁眼鏡で引き立てられている。才色兼備を地で行く人なのだ。

 普段は授業が終わるとすぐに生徒会室に引きこもってしまい、生徒会役員以外の一般生徒は彼に話しかけるどころか、その姿を目にすることも叶わない。そのため、時折ふらっと人前に現れると、一目見ようと学年問わず人が集まる。あわよくば自分を売り込み彼女にしてもらえたら、なんて考えている者も少なくはなかった。

 そんな生徒会長と不良の小春蓮司の組み合わせは珍しいが、佐伯悠太がいる位置では彼らが何を話しているか分からない。

俺、席確保してくる。

 友人の一人が席を探しに向かい、他のメンバーは昼食を受け取りに行くが、佐伯悠太は別のことで頭が一杯だった。

俺はいいや。購買で適当に調達してくる。

えっ、今行っても売れ残りしかないぞ。

 問題ない、そう言って彼は駆け出した。後悔だけはしたくはなかったのだ。

 山内和紗は一人でお弁当を食べていた。彼女の周囲一マスを開けるように点々とグループができているが、誰も彼女を誘うものはいない。いや、中には彼女へ声をかけようとする者もいるのだが、その一歩を踏み出せずにいた。理由は単純にどう接したらいいのかわからないからだ。また、和紗自身も身の振り方を考えて、出来るだけ目立たないように心掛けていた。

 転校初日、しかも車椅子という彼女のことをクラスメイトはチラチラと盗み見ていたが、話しかける勇気が足りなかった。それが教室内の居心地の悪さを加速させ、和紗に肩身の狭い思いさせるが、仕方がないことだと諦めていた。

 山内和紗は一人でお弁当を食べていた。彼女の周囲一マスを開けるように点々とグループができているが、誰も彼女を誘うものはいない。いや、中には彼女へ声をかけようとする者もいるのだが、その一歩を踏み出せずにいた。理由は単純にどう接したらいいのかわからないからだ。また、和紗自身も身の振り方を考えて、出来るだけ目立たないように心掛けていた。

 転校初日、しかも車椅子という彼女のことをクラスメイトはチラチラと盗み見ていたが、話しかける勇気が足りなかった。それが教室内の居心地の悪さを加速させ、和紗に肩身の狭い思いさせるが、仕方がないことだと諦めていた。

おい、押すなって。

あれが例の転校生?

結構可愛い子じゃね?

 廊下のほうが騒がしかったので和紗がそちらに視線を向けると、他のクラスの学生が教室の出入り口から身を乗り出していた。転校してきた車椅子の少女を一目見ようと集まった野次馬たちであり、好機の視線が半分、同情の視線が半分といったところだろう。

 まるで動物園にいる珍獣のような扱いを受ける少女は食べかけの弁当を残し、ただ俯くことしかできなかった。出来ることなら、今すぐにでも教室を抜け出し、誰もいない所へ逃げ出したいのだが、そのためにはあの人だかりの中を進まなければならない。車椅子の和紗には余りにも酷だった。

...ごめんなさい。

 俯き太ももの上で拳を握りしめていた彼女の心が今にも折れようとしたとき、廊下の様子に変化があった。

ちょっとごめんねー。邪魔だからどいてねー。

 人だかりを分けるように教室に入ってきたのは佐伯悠太だった。額にはほんのり汗が滴っており、息も少し切れている。和紗の姿を見つけた彼は一瞬、悲しげな顔をしたがすぐに表情を戻し、一直線に和紗の前にやってきた。

ここ座るから。

 彼は和紗の返事を聞かないまま彼女の前の席、不在で空いていた席に腰かける。戸惑う和紗を他所に彼は和紗のほうを向き、手に持っていたビニール袋を和紗の机に置いた。教室内にいた生徒や廊下の野次馬たちの無遠慮な視線が彼らに突き刺さる。

...悪かった。ごめん。

えっ?

 開口一番、佐伯悠太が頭を下げたことにより戸惑いの声を和紗はあげる。

こんな状況で山内一人にさせてごめん。クラスの奴らも悪気があってやってるんじゃないんだ。戸惑いのほうが大きいんだと思う。辛いかもしれないけど、もうちょっと待ってくれ。時期に慣れ始めると思うから。

 一息で彼はそういうと、ビニール袋からパンを取り出した。

はい、気分を変えて飯にしよう。山内も弁当残ってるだろ。食べよーぜ。

 パクリと購買で買ったパンに噛り付いた。甘ったるさが口いっぱいに広がる。購買で売れ残っていた不人気のあんパンだ。あまり甘いものは好きではないのだが、総菜パンは授業が終わってすぐにいかないと売り切れてしまう。菓子パンを昼食で食べる生徒は少なく、結果的に不人気パンの称号を得ているのだ。

あれ、山内は食べないのか。弁当残ってるぞ。食べないならもーらい。

 食事には手を付けず、俯きっぱなしの和紗を不審に思いながらも、目の前のおいしそうなお弁当、スーパーなどで作られているお弁当ではなく手作り、を見て、つい手が出てしまう。唐揚げ、タコさんウィンナー、プチトマト、コーンなどの定番の中から彼は卵焼きを摘まんだ。ふわふわの触感と少ししょっぱいのが彼の好みと合っていて、思わず笑みがこぼれる。だが、その顔色が困惑に変わる。

もう一個もらって...おいおい、泣くなよ。勝手に食べたのは悪かったよ。ほら、あんパンやる。

 体面に座っている和紗が肩を震わせぐすんぐすん泣いているからだ。慌てた佐伯悠太は席から立ち上がり、食べかけのあんパンを渡そうとして、すぐに引っ込め、ビニール袋に入っているまだ新しいあんパンを差し出した。

...違うの。...嫌だったとかじゃなくて。...泣きたくないのに勝手に出ちゃって。

 ポロポロとこぼれた雫が、水色のひざ掛けにシミを作っていく。涙を何度もぬぐいながら、和紗は伝える。嗚咽交じりの震えた声はか細く今にも消えそうだったが、しっかりと彼にだけは伝わっていた。

...ありがとぅ。

 泣き笑いを浮かべて彼女はあんパンを齧った。

 小春蓮司は深いため息をついた。
 朝のHRの時、教室を飛び出していた彼は結局、教室には戻らず、学校の屋上にいた。柵が無く安全対策がされていないため、立ち入り禁止になっているここに彼はよく入り浸っていた。
 屋上のカギは気弱な数学教師を脅して手に入れていた。ただ単に立ち入り禁止の場所に入ってみたいという好奇心のみで行動を起こしたのは昔のことだ。
 屋上の中でも一際高い場所、給水塔の上に仰向けに寝転がっていた。青空を背景に点に挙げた彼の右手には、可愛らしいうさぎの表紙の手帳が握られていた。

面倒なの拾っちまった。

 それは今朝の出来事だった。

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