小学生の頃の山内和紗は明るくおしゃべりが大好きな女の子だった。両親からも一心に愛情を注がれ家庭環境も良好、クラスの中心的存在であり、彼女の周りには男女問わず人が集まっていた。時折、悪戯をして先生から怒られることはあったが、先生たちからの評価は概ね良いものだった。

 勉強も人並みにできていたし、何より体を動かすことが大好きだった彼女はサッカークラブに所属して、小学校が終わった後に練習に参加していた。体は小柄だったものの、機敏な動きと男子にも負けない闘志を武器にMFとして活躍していた。

 将来の夢はお花屋さん。小学校の卒業文集に赤や黄色、ピンクの花に囲まれて笑顔の女性が描かれていた。

 どこにでもいるごく普通の幸せを享受していた彼女は中学一年の夏、一日を境にそれを手放すことになった。

九月一日
 山内和紗は2-4と書かれた教室の扉の前にいた。引き戸は閉められており中の様子を伺うことはできない。朝のホームルームの時間であるため一フロア三クラス分ある廊下には彼女だけしか存在せず、静寂を保っている。暑さの残る日々が続いていたがこの日は比較的涼しい風が吹いていて、開け放たれていた窓から風が抜け彼女の黒髪を撫でる。夏にはやかましいほどに鳴いていた蝉の騒音も聞こえてくることはなかった。

 夏休みが終わり、二学期が始まったこの日、久しぶりの再会に喜び夏休みの思い出なんかで盛り上がる学生の恒例の日なのだが、彼女の顔にはどこか陰りがあった。ため息がこぼれる。目の前の扉の向こうでは山内和紗の担任が話しているのだろう。今年、教師になった若い男の先生だと聞いている。熱血...少し会話をした和紗が抱いた印象はそんな感じであった。

みんなにお知らせだ。このクラスに新しい仲間が加わることになった

 担任の声が聞こえ、そのあとに続いてざわざわと教室内が騒がしくなるのを和紗は感じていた。いつものことながら思わず息を飲み、だが、怖気づいた心を立て直すように拳を膝の上で握りしめた。

じゃあ、入ってきて

 その声を受け、和紗はゆっくりと引き戸を開けた。教室内がピタリと静かになるのと相反するように、ガラガラと軋んだ音が鳴り響いた。誰かが息を飲んだのが和紗には分かったが、気にするまいと教室に入り教卓の隣にまで向かう。

車椅子...

 しんと静まり返った教室で誰かが呟いた。山内和紗は車いすに乗った少女だ。両手で車いすの車輪を回して移動していた。長い黒髪を纏めることもせず無造作に流している。また、太ももの上には水色のひざ掛けをしており、足が見えることはなかった。

 教卓の横にたどり着きクラスメイトのほうを向いた彼女を見て、唖然としたような顔、期待を裏切られたような顔、あからさまに嫌そうな顔をするものなど様々だが明らかに転校生を歓迎するような表情ではないのは確かだった。

 転校生は障害者。教室の空気を凍り付かせるには十分だった。

 口を結び、残念なものを見るような目でクラスメイトから見られた彼女は、やっぱりな、と諦めた。傷つかないといえば嘘になるが、それでも今までもこんな経験していたから予想も覚悟もできていた。面倒くさそうな私みたいなのが入ってきたらそうなるよね...。それが毎度思うことであった。

山内和紗さんだ。

 担任はこの状況に気づいていないのか、それとも気づかないふりをしているのか和紗のことを紹介し始めた。

彼女は見ての通り足が不自由で車椅子で生活している。うちの学校はエレベーターもエスカレータもない。車椅子用のトイレもないのは皆、知っているだろう。だから、彼女のことを助けてあげるように。いいな?

 担任はクラスメイトの顔を見渡すが、しんと静まり返った教室で誰も返事をしようとはしなかったし、出来なかったのかもしれない。それを受け、はぁっと担任はため息をつき、ごめんなと和紗に謝った。

いえ、慣れてますから。では改めまして、山内和紗です。皆さんにはいろいろとご迷惑をかけてしまいますがよろしくお願いします。

みんな仲良くするようにな。

 和紗の自己紹介に続いて、担任が拍手をするが数名のクラスメイトがパチパチと手をたたくだけでほとんどの生徒は黙って下を向いていた。まばらな拍手が教室内の不満を如実に表現しているようだった。

じゃあ、山内の席はあそこだから

 担任が示したのは窓から二番目の一番後ろの席だった。両手で車輪を動かし、席と席の間を通る和紗に無遠慮な視線が突き刺さる。

何でうちのクラスに...。

 誰かの言った言葉が彼女の胸を抉っていく。彼女は顔を伏せ、唇を噛み締めながらも手を動かし続けた。一番後ろの窓際の席は空席となっていて、その隣の席には椅子がなく机だけが置いてあり、そこは和紗専用の席になっていた。机の上には担任が用意してくれたであろうこの学校で使う新しい教科書の類がビニール袋に入っている。

 担任は和紗が席まで行くのを見届けると、微妙な空気を振り払うように咳払いをし、次いでこう告げた。

山内が足が不自由なのは皆も理解しただろう。彼女は階段の上り下りもトイレに行くのも一苦労だ。誰かの助けが必ず必要になる。ただ、さっきのみんなの反応を見る限り、残念なことに自主的にやってくれる奴は少ないかもしれない。勿論、こういう場面に慣れていない君たちがどう接したらいいか困惑する部分もあるだろう。それでも、彼女を助けたいと思うやつはいないか?

 手をあげる者は誰もいなかった。隣と顔を見合わせる者は数名いる者のほとんどの者は顔を下げ、嵐が過ぎ去るのを待っていた。重苦しい雰囲気と教師の溜息が響いた教室のドアが開いたのは、和紗が声を発しようとした時だった。

すいません。遅れました。

...。

 二人の男子生徒がドアの向こうにいる。

 一人は何処にでもいるような普通の学生、ツンツン頭の少年はやや皺の目立ったカッターシャツに身を包み、学生鞄片手に申し訳なさそうに頭をペコペコ下げながら教室内にそそくさと入ってきた。

 もう一人は悪びれる様子もなく堂々とした足取りで教室内に入り、ちらりと車椅子の和紗を一瞥するも興味を無くしたように歩を進め、一番後ろの窓際の席、つまりは和紗の左隣の席をやや乱暴に引いた。キギーという音にその席周辺の和紗を含めた生徒がビクリと肩を震わせた。

 そのことに気付いていないのか、気付いているが知らんぷりしているのか、股を大きく開いて席にどかっと腰掛けた。

不良みたい。

 和紗は金髪の少年を見てそう思った。

悠太、相変わらずだな。また寝坊か?

違いますよぉ。大山先生。ガラの悪い兄ちゃんたちに絡まれてた女の子を助けてて遅れちゃったんですよ。

 疲れた表情で言うが、言い訳の様に虚しく響いた。大山先生も呆れて、もっとマシな嘘をつけー、と言った。このままでは分が悪いと思った佐伯悠太は椅子に座ったまま、腰を捻って後ろの席の不良、一緒に教室まで来た小春蓮司に声をかける。

嘘じゃない。本当だって、なぁ、蓮司。

...。

 対して、彼は目線を合わせようともせず机に頬杖をついて、窓の向こうのグラウンドへつまらなそうな視線を向けている。

 裏切り者ー、と騒がしい声をあげ、忙しなく教室内に視線を飛ばしていた佐伯悠太だったが、俯いている同級生達の重苦しい雰囲気に気づいた様で眉をしかめた。次いで、教室の後方、一緒に登校して来た小春蓮司へと視線を移す途中、ただ一人、顔を上げていた和紗と目が合った。

...めちゃんこ可愛い。

 ぼそり、と呟かれた声は和紗の耳に届くことはなかった。

お前らの遅刻癖...、一人はサボり癖だが、どうにかならんのか?先生は頭が痛いぞ。

 教壇の上で大山先生は溜め息を一つ付き、後頭部を掻いた。だが、すぐにその顔が笑顔になった。

いいことを思いついたぞ。佐伯悠太、小春蓮司、お前ら二人で転入生の山内を助けてやれ。彼女が教室に来るにはどうしても助けが必要だ。それに、山内のためにお前たちは遅刻をするわけにはいかなくなる。うん、一石二鳥だ。

 教室中の視線が佐伯悠太と小春蓮司に二分される。その目は自分が和紗の世話係にならなくて済む安心と面倒な役を押し付けられた二人への同情を含んでいた。

 そして渦中の和紗は只でさえ小柄な体を縮こまらせている。その心は申し訳無さで一杯になっていた。

...面倒くせ。

 ぼそりとだが棘のある一言が彼女の胸を抉った。小春蓮司は席から立ち上がり、教室の後ろのドアを開いた。

おい、どこに行くんだ!?

...どこでもいいだろ。

 先生の言葉を切り捨て、彼は教室から出ていく。

...ったく。悪いな、山内。転校してきて初っ端から。

いえ、気にしてませんから。

 和紗は苦笑いを浮かべて答えるが、先ほどのやり取りが堪えたのと、これからの学校生活に不安を覚えた。それはほかの生徒も同じく、出来ることなら彼女の厄介ごとに巻き込まれるんじゃないかと思うと憂鬱になった。

 ただ一人、佐伯悠太を除いて。

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