第二話 潮時

あの馬鹿女

海から吹きつける強い風に、間垣の細竹がざわざわと音を立てる。

ひときわ強い風に追い立てられるようにして屋敷に戻った標は、悪態をつきながら魚籠を投げつけた。

中身のない魚籠は乾いた音をたてて、いかにも軽やかに土間を転がっていく。

黙って舟のもん置いて金受け取って帰りゃいいものを、なんでわざわざあんな危ねぇ入り江回ってきてまで大ゲンカ

ぼん

ぶつぶつ呟いていると、後ろから声が飛んできた。

見れば、長身の男が膝を折り、やや表情を硬くして標を見上げている。

なんだよ堤(つつみ)。

魚が釣れなかったからってそんなシケた面すんな。バカ女さえ来なけりゃ今日はいい潮だったんだ、それが……

あの、ぼん、そういうことではなく

 堤はちらちらと背後を気にしながら、標の言葉を押えようとするかのように両手を揺らめかせる。

堤はこの屋敷に住み込みしている家来の一人で、早くに母親を亡くした標にとっては兄のような母のような存在だ。

むくつけき毛深い大男が多い島人の中にあって、珍しいくらいにやんわりした柳のような青年である。

あん?何か言いたいことがあるならはっきり言えよ。どうした、陸のことで何か分かったことがあるのか

しっ、ぼん

陸がどうしたって

青ざめた堤の後ろから、ぬうと山のような巨体が現れた。

お、オヤジ……

 どうやら堤が察して欲しかったのはこのことらしい。

族長である親父殿が本宅に戻るのは極めて珍しいことだ。標の母親が死んでからというもの、親父殿は数多いる妾達の家を順繰りに回るか、島の中央にある本陣で寝泊まりすることが多い。

いかつい顔に立派な顎髭を蓄えた閻魔のような族長は、彼の息子にしては頼りない標の痩躯を、はるか高みから見下ろした。

標、てめぇまた桃太郎と逢引きしてやがったな

回れ右した襟首をむずとつかまれ、標は二、三度足踏みした。

まさかてめぇ、あの娘を島に上げちゃいねえだろうな

上げるわけねえだろ、ただ岸で話をしてただけで

会うなっつったろうが

 標の身体がぶわりと浮き、蹴鞠の要領で蹴り上げられた。標の骨ばった身体は、そのまま、囲炉裏の傍の岩壁に叩きつけられる。

ってぇ

 後頭部をおさえながら、標はぎっと族長である親父を睨み上げた。

しょうがねえだろ、あいつが会いにきちまうんだから

女のせいにしやがったな

 角の急所ぎりぎりにきつい拳固を食らわされ、標は再び頭を抱えて低くうめいた。

うう………

 桃太郎は、島に上がることができない。

 桃の祖父にあたる初代桃太郎と標の祖父にあたる先代島長が交わした、それが交易条件の一つなのだ。

漂流の果てに鬼ケ島の鬼と親密になり、一代で財をなした大海賊・初代桃太郎といえど、島の土を踏むことができたのは最初の一度だけだという。

桃太郎と島との交易はいつも沖合の舟の上で行われる慣わしであり、標のような若造はその交易の舟に乗せてさえもらえない。

俺は、あいつの指先に触れたことすらない。
それのどこが逢引だってんだ……

標が奥歯を噛んで顔を上げると、親父殿は囲炉裏の傍にどっかと座り、盆のような朱塗りの盃を傾けて酒を飲みはじめた。

いつもなら二、三人女を侍らせて飲むのが常だが、どういうわけか今日の親父殿は手酌である。

標、ここに座れ

 親父殿は顔を上げると、差し向かいの丸茣蓙を顎でしゃくった。

オヤジの晩酌の相手なんて
嫌な予感しかしねえ……

標は思い切り眉を潜めたが、かといって嫌と言う度胸もなかった。

なあ、標よ。俺があの娘に深入りすんなと忠告したのは、今日で何回目になる

早くも全力で逃げ出したい気分にかられながら、標は低い声で答えた。

百回、とかそんな…

そうだ。百回とかそんなだ

桃と最初に出会ったのはたしか、五歳かそこらの頃だ。
初代桃太郎と一緒にやってきた赤いほっぺたの小さな小さな娘を、標は祖父に隠れながらちらちらと見た。

…?

……

小娘は標のことを怖がりもせず、歯をむき出しにしてにいと笑った。


あの頃から、しつこい位毎度毎度も、親父殿は標に言い続けてきた。

あの娘に近づくな。
あの娘に深入りするな。
まかり間違ってもあの娘に惚れるな。

俺だって何も意地悪で言ってきたわけじゃねえ。この日がいずれ来ると思ったから忠告してきたんだ

あ?

痺れ水母に撫でられたみたいに、標の足元がざわりと泡立った。

桃太郎との交易は、次でしまいにする

親父殿は族長の顔をして、ぐいと酒を煽った。

どういうことだ

身を乗り出して叫ぶ標に、巨大な鬼はゆるゆると首を振る。

初代の桃太郎は良かった。
あれは豪傑だ、安心して取引が出来た。
二代目も頼りない男ではあったが、まあ、最後まで何とかなったな。
……だが、あんな娘っ子にゃ、無理だ。
この島の秘密は守れねえ

そんなの分かんねえじゃねえか

ぼん……

 今にも躍りかかりそうな標の勢いに、いつの間にか堤が背後に回り腕を押える。

あいつは確かに女だし馬鹿だけど、でも心意気があるだろ。
あいつはこの島のことが好きだ。それこそ先代の桃太郎よりも、ずっと!!

だからこそだ

 族長はまっすぐに標を見据えた。

あの娘はこの島を好いている。陸の人間よりも鬼の方が好きだと断言するくらいにな。
そこが危険なんだ。
こっちにばっかり気を取られてるようじゃ、いつ連中に足元を掬われるかわかったもんじゃねえ。

標は唇を噛んで視線を逸らした。

その通りだった。


この海域にはいくつもの海賊がいる。

そのうち、飛びぬけて力が強いのが白犬、赤猿、雉早の三大船団だ。

彼らは初代桃太郎に屈服して同盟を結び、以前のようにむやみやたらな鍔迫り合いをすることは無くなった。
だが、二代目の温和な統治の影で、再び着々と力を蓄えている。

てめぇも色々調べているようだが

……

 親父殿はちらりと堤を見やると、口元を歪めた。

犬猿雉、どいつもこいつも桃太郎を狙ってる。犬と雉は跡取り息子が嫁を取らずにいるし、猿に至っては今の賊長が手ぐすね引いてるって話だ

…ーーーー

標は唇を噛んだ。

赤猿の族長はもう五十を過ぎる老爺だが、数多くの女に手をつけているくせに正妻を迎えていない。

あのひひじじいが桃太郎を狙っているらしいという噂は、標が一番受け入れたくない現実だった。

猿に拮抗できる勢力は犬しかいねえ。

幸い、白犬の跡取りはできた男だ。性格もよし、見てくれも良し。何より昔から桃太郎にベタ惚れだ。あの男となら、嬢も幸せになれるだろう。

 そう言い切って、再び族長は標を見つめた。

分かるな、標。潮時なんだ。
嬢をここから切り離してやらなきゃならん。
宝の島への道筋を知っているなんてクソでかい業を抱えて、小娘がこの先幸せになれるわけがねえんだ

 標は少し驚いていた。親父殿の言葉尻に、まるで桃太郎のことを思う父親のような響きがあったからだ。

桃太郎の一族には、もう取引なんぞしなくてもいいくらいの蓄えがある。
それこそ陸に上がりゃ、港町一つが丸ごとあの娘のもんだ。
そいつを嫁入り道具にして、あの娘は白犬の息子に嫁げばいい。
そうすりゃ一生守ってもらえるし、少なくともこの島の海路を巡って、ほかの連中に命を狙われることもねえ

 親父殿はもう一度言った。潮時なんだ、と。

でも親父

分かったな、標

親父!

気がつくと標は絶叫していた。親父殿の胸倉にむしゃぶりつき、その身体を揺すっていた。

親父殿の言う通りにしたほうが、桃太郎は幸せになる。それが間違っていないからこそ、骨の髄から焦りが沸き出る。何もかもが道理に叶っているからこそ、頭に血が昇る。

桃太郎を島に上げちゃだめか、なあ。
そうして、島から出さないんだ。
そうすりゃ、あいつが他の連中に命を狙われることは無くなる、そうだろ。
そのほうがずっと、犬んとこに嫁に行くよりずっと安全だ。
な、そういう考え方だってあるだろ!!

族長は、すっと目を細めて標を見つめた。

標の腕を捉えていた堤の白い手が、行き場を無くしたように下りていった。

風の音さえ黙した中で、標だけがわめき続けた。

そうだ、なんなら俺の嫁にしたっていい。それがいい、そしたら島の秘密だって守れるし、あいつだって好きな島にずっといられて幸せだ。あんただって桃が気に入ってるんだろ、な、そうしよう親父、そうしたら

馬鹿野郎

親父殿は標を殴りつけた。

衝撃とともに、標は背を畳にめりこませるようにして仰向けに倒れた。

後ろ髪が囲炉裏の炭の上に落ち、ぢりっと音をたてて焦げ落ちた。

次の取引は大潮の正午だ。
桃太郎の舟が離れてから、潮目にくさびを打ち込む。久々に、島の男総出の大仕事になるぞ。てめえも手伝え

島長はそう言うと、もうそれ以上は何も言わずに、苦そうに酒を啜った。

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