山村聡子は内気であった。その上、会話が下手であった。
 そのせいか、クラスで隣になった男の子には舌打ちされ、目があった女子にはひそひそと悪口を言われる。典型的な苛められっ子だ。
 誰かの呪詛が彼女の耳に届く度、彼女は心の中で呪い返す。
 

山村聡子

死ねばいいのに

 心の中で何度も振り下ろすナイフ。顔がぐちゃぐちゃになるまで。幾度謝ったって許さない。妄想の中の彼女は、何度も血に塗れた。
 ――そして、今日。初めて彼女は現実で血を浴びた。

 目の前には、よく知らない男性。背中から溢れ出す血は、彼が無事ではないことをはっきりと表している。

山村聡子

あ……あっ……

 ふと聡子は、自分の手元を見る。彼女の手に握られているのは、血の滴るナイフだった。これが妄想で無い事など、痛むほど激しく高鳴る胸の動悸が教えてくれる。ふと、身体の浮くような感覚。真っ白になる視界。そんな彼女の意識を引き戻したのは、優しい声だった。

駿河恵司

だ、いじょうぶ、だから

山村聡子

……えっ?

駿河恵司

君は、早く……ここから、逃げな……

 地面に横たわったまま、苦しそうに呼吸する男。男は必死に聡子に向けて言葉を紡ぐ。その顔は苦しそうでこそあったが、聡子を恨む様な瞳ではなかった。怯んだ聡子は手にしていたナイフを取り落してしまう。既に意識は朦朧としているだろう男は、その音に反応し、地面を弄り、ナイフの柄を握った。

駿河恵司

これ、で、大丈夫

 自身から流れ出る血で手を染めていた男が握ったナイフの柄は、既に真っ赤になっていた。一瞬、男が何を言いたいのか分からない聡子だったが、すぐに男は聡子の指紋を消そうとしたのだと理解する。

山村聡子

な、何で、そんなことするんですか……? わた、私は、貴方を刺したんですよ……?

駿河恵司

それは……君、の、意思じゃ……ないだろう……だから、早く――

 それきり男は黙り込んだ。いや、意識を失ったのだろう。それを見た聡子は突発的に自身の携帯を取り出すと、すぐに110番に電話をする。どうしてこんな事をしているのだろうと頭の片隅で悩み続けながら、彼女は救急車を呼んだ。

山村聡子

お、男の人が、倒れてるんです! た、助けて、下さい……!

 後にやってきた救急隊は、道で血を流し倒れる男を発見する。もう少し搬送が遅れていたら彼は死んでいただろう。しかし、救急隊がやってきたときには既に、通報したと思われる少女――聡子の姿はなかったのだった。

山村聡子

はぁっ……はぁっ……

 運動のあまり得意でない聡子にとって、その短い距離を走ることは大変な運動であった。
 ――とんでもない事をしてしまった。聡子は予め駅のトイレの個室に隠しておいた替えの制服を纏うと、血の付いた制服の入った紙袋を手に一人立ちすくんでいた。

山村聡子

どうして、あんな事をしたんだろう

 それは、彼女が彼女自身に向けた言葉であり、あの男に対して向けた言葉でもあった。
 “彼”からメッセージが来たとき、彼女は目の前が真っ暗になった。“同じ事件の共犯である”という折角繋がった一つの絆を、手放したくなかったからだ。だから彼女はすぐに用意をした。トイレに服を隠し、“彼”が事件を捜査する刑事を見かけたという周辺で刑事を探し回った。そして、幸運な彼女はよりによって深夜、あの時が送られてきた写真と全く同じ顔の男を見つけたのだった。

山村聡子

…………

  考えれば、それは酷く無鉄砲な行動だった。普通に考えればすぐに捕まる。着替えは用意しておいて、凶器に指紋が付くなんて単純な事を失念していた。それに、そもそもあの男が昼間に現れた場所にもう一度、しかも人通りの少ないタイミングで姿を現すなど、確定事項ではない。ナイフを隠し持って深夜にうろつくなど、不審者丸出しだ。

山村聡子

……帰ろう

 小さく呟き、聡子は帰路に就く。軽いはずの紙袋は、随分と重く感じる。そこまで多量の血が付いた訳ではないというのに。
 暗闇の中、ゆっくりと歩く聡子の瞼には、あの血溜まりの男の姿が焼き付いていた。それは罪悪感から来るものだけではなく、自分を逃がそうとした、彼の謎の行動が忘れられなかったからだ。
 「君の意思じゃない」。彼は確かにそう言った。だが、聡子にとってはこの犯行は聡子の意思だ。
 

 ――本当に? 本当に自分は人を殺したかったのか?
 

 ふと、彼女の頭に過ったその疑問は、彼女を絆という束縛から解くには十分過ぎるものであった。

第四話 ⑨ 絆という束縛、罪という解放

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