桐壺雪野を知らない人間はいないだろう。
少なくともこの街には。
ドーム状の屋根で覆われた街の中心部で、巨大な電光掲示板に煌々と映る少女と目の前でバナナクレープを頬張る少女を見比べながら、村崎月代は未だに目の前の現実を信じられずにいた。

人気アイドルがこの街に来るらしい。
そんな噂が、街に流れていた。
どうやら噂は本当だったようで、二週間もしないうちに公式にこの街でのライブ開催が告知された。
とは言っても、月代は別段熱心なファンという訳でもなく、テレビで何回か見て名前と有名な歌を数曲知っているという程度だった。
桐壺雪野。確かそのアイドルは、そんな名前だった。
日曜日の繁華街はごった返していて、暇つぶしに出歩いていた月代はカップルの波を避けながら歩くのに疲れ、デパートの外れにあるベンチに腰掛けていた。
することもないしそろそろ帰ろうかと考えていると、

桐壺 雪野

あの……

村崎 月代

……⁉

目の前に少女が立っていた。
マスクで顔が隠れていたが、それはこの時期なら珍しくない。マスク越しでも分かる愛らしい顔に、月代はどこか見覚えがあった。

桐壺 雪野

この周辺で服を探すのって、どこに行けばいいんでしょうか……?

須森 省吾

ぐ……

放たれた銃弾を刀で弾く。
そのまま距離を詰め、銃を構えた少女を蹴り飛ばす。
見覚えのある制服だった。確か、省吾の学校の近くの女子高のものだ。
少女はそのまま気を失い、倒れた。
転がった銃を拾い上げようとすると、枯れ葉のようにボロボロと触れた場所から崩れ、砂になって消えた。
今週に入って七人目だ。
年齢も性別もまちまちだが、皆一様に拳銃を持ち、そのどれもが回収できずに崩れ去った。

月代と雪野は、すぐに打ち解けた。
月代は余り他人の素性を気にしないタイプだったし、同世代の人間とのコミュニケーションに飢えていた雪野は幼い子供のようにはしゃぎまわって遊んだ。

桐壺 雪野

誰かに狙われてる気がするの

バナナクレープを食べ終わった彼女はそう言った。

村崎 月代

狙われてる?

有名人の悩みなど、一般人である月代に話されても答えに窮すだけなのだが。

桐壺 雪野

うん。でも、なんていうか普通じゃなくて……気配だけあるのに実体は無いっていうか……影だけに追いかけられてるみたいな

路地裏での事を思い出す。
この街で怪事件は珍しくない。
「相談できそうな人がいるかも」
と言いかけて、巨大な電光掲示板のテロップが言葉を遮った。

桐壺 雪野

村崎さん? どうしたの?

電光掲示板には、安っぽいフォントでこうあった。
『噂の自警者、名乗り出る』

警察は、怪事件を把握していないわけでは無かった。
特殊な現象をもたらす器物はいくつか確認されており、いくつかのサンプルとデータも存在していた。
ある協力者の登場により、警察は対怪現象用の部隊を立ち上げることを決定した。
『英雄』を自称する谷川信也という男。
街で話題の自警者。
開かれた会見は前代未聞のものだった。
あくまで一般人である、二十代半ば程度の信也を中心に、怪事件対策部隊を立ち上げる。
それがどのような結果を招くのかは、誰にも分からない。

省吾は一人、自室で数台のパソコンを眺めながら呻いた。
パソコンデスクすらなく、配線もむき出しのまま床にのたくっている。

須森 省吾

谷川信也……

廃学校で戦った男。
街は、ヒーローの登場に沸いていた。
好ましい状況とは言えなかった。警察が自分を攻撃対象と認定すれば面倒なことになる。
街に蔓延っている銃の解決の目途もまだ立っていない。

月代は、雪野の手を取って路地裏を駆けていた。あまりいい思い出のない場所ではあるが、逃げ回るのにこれ以上の場所は無い。
繁華街からの帰り道、銃を持った男たちに囲まれた二人は、咄嗟に路地裏に逃げ込んだのだった。
物陰に隠れ、息を整える。
まだ撒いたわけではない。銃を持った男たちがこちらを探しまわる声が、どこかから響いてきていた。雪野はその一々に肩を震わせている。
……まさかおいて逃げるわけにもいくまい。

村崎 月代

桐壺さん、立てる? 

桐壺 雪野

うん……

雪野の手を引いて立ち上がろうとした瞬間、男の声が響いた。

いたぞ!

村崎 月代

走って!

雪野を引きずるように駆け出すが、凶弾が月代の頬を掠めた。
雪野が悲鳴を上げ、頭を伏せてうずくまる。
万事休す。
しかし、月代と雪野に向けて放たれた弾丸は、二人に届く前に見えない何かに弾かれた。
見えないというのは正確ではないかも知れない。月代が知覚できないほど速かっただけの話だ。

谷川 信也

……名を売るにはいささか地味な相手だが……まあいい

村崎 月代

あなたは……

谷川信也が、剣を抜いて二人を守るように立ちはだかっていた。
信也が構えると、顔が仮面で覆われる。

谷川 信也

殲滅してやる

警官隊と信也に囲まれた男たちは、三分と持たなかった。

ライブについては、問題ありません。予定通り行いましょう

雪野の事務所で、三十代半ばくらいのがたいのいい警官がそう告げた。信也は、腕を組んで壁にもたれかかっている。
雪野の希望で同席していた月代は、不安そうに声を上げた。

村崎 月代

でも、襲撃の首謀者はまだ見つかってないとか……

雪野を襲った男たちは、銃を取り上げられると意識を失い、取り調べてもうわ言のように何か呻くだけで、まともな言葉を返せる状態に無いらしい。証拠品の銃は、回収する前に砂になって消えたそうだ。

我々が万全の警備で臨みます。……それに、彼もいる

警官は、そういいながら信也の方を見る。
月代は、この前の省吾の歯切れの悪い会話を思い返した。
須森省吾ではないヒーローの存在。恐らく、省吾はあの時には自分以外の何者かに感づいていたのだろう。
信用していいのだろうか?
それとも――。

そろそろ時間です

桐壺 雪野

は、はい……

月野は、不安げに雪野の後姿を見送った。
ライブまであと三時間。

ステージ上に立っている少女が、あの弱気な雪野と同一人物だというのは、少し信じがたいことに思えた。
スタッフ用の特別席でライブを見ていた月代は、思わず感嘆した。
ステージで歌う雪野からは、不安も焦燥も一切感じられず、それほどまでに彼女のステージは素晴らしかった。
舞台袖には、信也や警備の警官が待機している。
ステージもクライマックスに入り、会場の盛り上がりも最高潮に達したその瞬間、銃声が響いた。
曲を乱す不協和音。
しかし銃弾は雪野に届く前に、加速した信也によって斬り落とされた
その後も二発、三発と放たれた銃弾は、全て虚しく空中で爆ぜた。
会場は静まり返り、銃声だけが単発的に響く。
パチ、パチとどこからか拍手が鳴った。
信也が見据える視線の先、銃弾の放たれた場所――客席の最前列から、一人の少女が手を叩きながら歩いてきた。
ステージへの短い階段を上りながら、口笛でも吹くように射撃を続ける。

あんまりまどろっこしいんで、殺しに来ちゃいました

言い終わるのを待たずに、信也が動いた。
常人には認識できないほどの速さで距離を詰め、剣を少女の肩めがけて振り下ろす。
少女はそれを見切ったかのようにバックステップで躱し、信也の後方にいた雪野に弾丸を打ち込む。
信也は辛うじて銃弾を弾いたが、次の瞬間四方からの銃弾を受けて倒れた。

谷川 信也

な――

辛うじて急所は逸らしたが、立ち上がれないほどのダメージは免れなかった。
想定外の攻撃。
配備された警官隊が、少女ではなく信也に銃を向けていた。
支給品の銃ではなく、街に蔓延っているのと同型の拳銃を。

この銃が他人の精神に干渉できることくらい察せたでしょうに、対策が甘いんじゃないですか? 

少女が銃を空中に放ると、二つに分裂して少女の両手に収まった。

まあいいです。とりあえずこれで――

少女が雪野と信也に狙いを定める。
少女が引き金を引こうとした瞬間、どこからか情けない悲鳴が聞こえた。

……? 

少女が、怪訝な顔であたりを見る。
また、悲鳴。
警官隊が何やら喚いた。
悲鳴。
悲鳴。
六人いた警官隊が、気づけば二人になっていた。

あらぁ……♪

ステージにどこからか面をかぶりコートを着た男が現れ、残った二人の警官隊を捻り上げた。
月代は、思わず出かけた声を押しとどめる。

村崎 月代

(須森くん……⁉ )

あなたは初めて見ました

須森 省吾

お前が大元か

省吾が距離を詰めて少女を蹴り飛ばす。少女は受け身をとりながらカウンター気味に省吾に銃弾を放つ。辛うじてそれを刀で弾くが、少女が体制も立て直さずに放った弾丸が省吾を捉える。

村崎 月代

危な――

月代がそう言いかけた瞬間、省吾の体が自らの影に溶けて消えた。
月代の脳裏に、あの夜の映像が蘇る。
殺人鬼のナイフ。
銃弾が空を切る。
省吾は影から再び現れ、刀とナイフの二刀で少女に斬りかかる。
少女は顔をほころばせ、二丁の銃を会場と雪野の両方に向けた。

須森 省吾

よせっ

間に合わない。辛うじて、近かった雪野の側の弾丸だけは弾いたが、もう一つは客席に向かった。
瞬間、何かが高速で駆け、銃弾を斬り落とした。

須森 省吾

お前――

谷川 信也

ぐっ……

信也が、力を使い果たして倒れ込む。

あはは。また会いましょう、近いうちに

須森 省吾

待てっ!

少女は続けざまに客席に銃弾を放つ。省吾がそれを弾いている隙に、少女は姿を消した。

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