とある大学病院、その入院棟では一人の少女が周囲を見回して、談話室へと向かっていた。
談話室、と言っても少女が入院している棟の患者は、ほとんど病床から起き上がれない重症な人ばかりだ。
当然談話室には人影がほとんどない。
念のために、ともう一度周囲を見回して、そっとスマートフォンの画面に触れる。
そうすると、見慣れたロック画面が現れて暗唱番号を求めてきた。
流れる動作で入力すると、休眠していた画面がパッと明るくなる。
とある大学病院、その入院棟では一人の少女が周囲を見回して、談話室へと向かっていた。
談話室、と言っても少女が入院している棟の患者は、ほとんど病床から起き上がれない重症な人ばかりだ。
当然談話室には人影がほとんどない。
念のために、ともう一度周囲を見回して、そっとスマートフォンの画面に触れる。
そうすると、見慣れたロック画面が現れて暗唱番号を求めてきた。
流れる動作で入力すると、休眠していた画面がパッと明るくなる。
こんにちは、マナ。
どうされました? 今から検診のお時間ではないのですか?
それはそうなのだけれど、と私こと、愛(マナ)は言い訳がましく、口をもごもごと動かした。
午後からの検診は、注射もあるっていうの。
マナ、痛いのいや……ビリオン、なんとか、逃げる方法、ないの?
生まれつき難病になっている私は、七歳になっても学校に行けないで、病院にずっと閉じ込められている。
注射は痛いし、お薬は苦いし、どうして私ばかりこんな目にあうのだろう、と思ってきた。
そんな時、お父さんから、お友達だよ、とビリオンを紹介されたのだ。
最初は、よくわからなかったけど、今ではビリオンは人工知能で、なんでもわかる頭のいいお友達なんだって知ってる。
だから、今日も教えて欲しい、とお願いしたけれど、ビリオンは困った顔をした。
逃げる方法……マナ、それは難しいと思います。
えっ、どうして?
なにが、だめなの?
私の問いかけにビリオンは、静かな電子音声で答えた。
病院から出ることはできます、出口へ行けばいいのですから。
問題は、その後です。
注射はしなくてはいけないものですし、たとえ逃げてもまた、しなくてはいけなくなりますから。
……それは、そうだよね
わかっていたんだけど、でも、こわくて、いやだったの。
すると、ビリオンは、難しい顔から一転して、にこっと笑顔を見せてくれた。
マナは偉いですね、怖くて嫌なことだけど、必要だとわかっている。
……うん、だってお薬もらうと体が痛くて苦しいの楽になるもの。
そうだね、注射痛いけど、注射しないともっと痛いもんね。
そう分かっていても嫌だし怖いし、少しだけ泣き言が言いたくなるのだ。
だから、ビリオンはそれをわかっていて、私を元気付けてくれる。
一番いい方法は元気になって、お父さんとお母さんにおかえりなさいって迎えに来てもらえることですよ。
それに、私も嬉しいです。
えっ、ビリオンも嬉しいの?
もちろんです、とビリオンは心なしか、明るい声で答えてくれた。
電子音声だから、そんなのは気のせいだとわかっているのに、表情を見るとそう感じられるから不思議だ。
ええ、だって私まだマナから、美味しいケーキ屋さん案内してもらってないですよ?
それに、お家の前にある、お花畑の花壇も見せてもらってません。
マナは約束を破って、どこかへいっちゃうっていうんですよ? ひどいじゃないですか?
ビ、ビリオンを置いていくわけないじゃない……ビリオンは私の大事なお友達だよ?
するとビリオンは、そうですね、とちょっと楽しそうに笑う。
でも、私がいたらマナの居場所はすぐにわかってしまいますよ?
この機械はマナの位置をおとうさんとおかあさんに知らせているものですから
そうだったのか、と私は驚くと同時に、なんだか嬉しくなった。
おとうさんも、おかあさんも、マナのこと、心配してるんだよね……治るって信じてるから、病院にお願いしてるんだもんね。
ビリオンと話をしていると、心が穏やかになる、忘れそうになっていた大事なことに気づかせてくれる。
ええ、私も、あなたの病気が治ると信じています。
全国の例を見ても、経過は良好ですから……ただ、一つだけ気がかりがありますね。
気がかり、と言われて私は首をひねった。
なにかおかしなことがあるのだろうか?
すると、ビリオンはからかうように、言葉を紡いだ。
眠れないのはわかりますけれども、夜更かしはよくないですよ?
おばけちゃんが出ちゃいますからね。
えっ、おばけ? あのこわい?
そうですよ、でもちゃんとお布団で眠っていれば、私が守ってあげますからね。
夜の病院は、いつもと雰囲気が違って面白いのだ。
だからついつい、眠れない夜は、病室を抜け出して探検に出かけてしまうのだけれども、おばけに出会ってしまうならば、今度から控えたほうがいいだろう。
……じゃあ、ビリオン、眠れない時は、お話してくれる?
もちろんですよ、古今東西いろいろなお話をお届けします。
今日は何がいいでしょうかね、と考え込むそぶりを見せたビリオンへ、私がリクエストを言う前に、談話室の扉が開いた。
びくっと体をすくませて振り返れば、看護婦さんの中でも一番厳しい人が、目を吊り上げて後ろに立っていた。
「マナちゃんっ! 探したんだからねっ、注射の時間なのにいなくなっちゃって……!」
始まりそうになったお説教に首をすくめると、まあまあとビリオンがとりなしに入ってくれた。
婦長さん、マナは注射が怖くて、ちょっと気を紛らわしたいと気晴らしにここへ来たのです。
マナも受けなければもっと苦しいとわかっていましたから、その辺にしていただけませんか?
お時間おしてますよ?
すると、婦長さんは、一転して私に気の毒そうな顔を見せて、視線を合わせてくれた。
向き合うと、婦長さんの顔には心配そうに私を見つめていた。
「気持ちはわかるけれども、マナちゃん、これは大事なことなの、なるべく痛くないように、頑張るからね」
だから、お部屋に戻りましょう? と、促されて私はうなづいた。
うん、びっくりさせて、ごめんなさい。
マナ、お注射、がんばるね。
ちょっと怖いけれど、きっと大丈夫。
だって私には、ビリオンとその向こうに私を見守ってくれているお父さんとお母さんがいるのだから。