(……どういうことなのかしら)

 活字に心奪われる、彼女の横顔。
 それは、とってもインテリジェンスで、惹きつけられるものだ。
 私も、活字を読んで知識を取り入れ、活用することはできる。
 けれど、彼女……茉莉のような瞳で知識を見ることは、どうしたって出来ないと想ってしまう。

……

 同性ですら惹きつける綺麗な瞳で、涼やかに、まっすぐに。
 彼女は、あらゆる知識をすくいとっている。

(性格を映してはいないのにねぇ)

 そんな綺麗な瞳なのに、性格はまるで正反対。
 でも、その狡猾さを一切見せない、一挙両得な不公平さ。
 好奇心で彷徨(さまよ)う私の瞳には、いかんせんあの瞳がうらやましくてしかたがない。
 それは私だけではないようで、罪深いとも想う。

 下級生の心を奪い。
 同級生の懊悩を増やし。
 上級生に吐息をつかせる。

 それら――私も含めて――へ同様に抱かせているのは、その内心を知る者たちの、ため息。
 言うなれば、絶望感というものだろう。
 外見と内面が一致するように、神様はどうして人をお造りにならなかったのか。
 ……なってはいるけれど、それを見抜けないほどに固有さがひどすぎるのか。
 校舎の一部が半壊したり、同級生の何人かが奇妙な現象を体験したり、先生方が口を濁したり。
 犯人当ては容易なのに、証拠がない。
 そんな優等生面をした茉莉から、みんな眼が離せない。離したらそこは明々後日。
 どっちにしろ、世界は結果としてすれ違いばかりが増えている。ああ嫌だ嫌だ。

あ、このジュース美味しいわ。さすが、今日のオススメね

……

 無視された。孤独は寂しいよ! と伝えてあげたいが、それも無視されるだろう。無私せざるをえない。
 そんな世界で、私と茉莉は比較的、同じ時間を多くすごしているほうだ。
 世間的には、友達といえるのかもしれない。
 会う場所は、カフェー、図書館、キャンパス、服飾店、雑貨屋、などなど。あまりお金はない。
 その中でも、図書館で出会う予定の時は、少し緊張する。正確には、彼女が本を読んでいる時、だけれども。

(見ちゃう、からね)

 考え込む、茉莉の横顔に吸い寄せられてしまうから。
 彼女の美しい瞳が、書物から知識を奪う光景。そこから、眼を離せなくなってしまうのだ。
 ――そう。彼女は、書物から学んでいるんじゃない。
 あれは、奪っているんだろう、と感じる。
 刻まれた文字を写し取る、不可思議な瞳。茉莉の眼は、うまく言えないけれど、奇妙な気分を人に起こさせる。
 たとえ私が以前読んだ本でも、茉莉が読めば、違う見方をするだろう。
 ……そう、読み方じゃない。見方だ。
 彼女の瞳は、なんとなく、この世界とは別にあるんじゃないか――たまに、私は想うことがある。
 茉莉は、一人でテーブルを占拠している時が多い。
 彼女に近づく大半の者は、その正体を知らないか、熱狂的な信者だけ。
 それも、触れれば熱をうつされて、耐えられなくて去っていく。

(……やっぱり、変り者の方か。私も)

 残りの一部は、私を含めて、物好きと呼ばれても仕方のない者ばかり。
 そういった者達は、自分のことも省みて、あえて茉莉に触れようとはしない。付かず離れずが最適領域。

眼、疲れない?

……

 それにしても、こうして書物に食い入る茉莉は、私をからかう茉莉と、同一とは想えない。
 あまりにも真摯で、真剣で、作り物みたい。

 ――もしかして、私の前でだけ、猫をかぶっているのじゃないかしら?

 普通は優しい猫を被るのだが、茉莉が被るのは意地悪猫だ。猫が意地悪だなんて、捻(ね)じりすぎだと想う。
 そんな不安を想い浮かべながら、カフェーのイスに腰掛けながら、言ってみる。

もっとシャンとすれば、いくらでも相手に不自由しないでしょうに

 皮肉というか、悔しさというか、まあなんとも言えない黒い感情。
 それを、言葉にして投げつけるとこんな形になる。貧困だ。

相手? なんの相手かしら

 書物から眼を戻し、私へ視線を向けた彼女の言葉。
 なめらかな指が本をなぞり、人形のように硬直していた身体が、息を吹き返したように動き出す。
 見られた喜びと、心を奪われそうになる、そんな視線を受けながら、私は皮肉を続ける。

色々よ。例えば……華の乙女なら、夢見るような恋の一つや二つ、連想するでしょうが

 私は少女漫画に出てくるような言葉を言うが、本当はそんなガラでもない。
 茉莉といると、心にもないことがすらすらとでてくる。
 遠慮がないというか、気兼ねがないというか。少しばかり、嫌になる。
 手元の甘いジュースをすする私に、茉莉はエスプレッソのカップを置きながら、口を閉じる。
 口元に淡い淡い微笑を浮かべながら。
 その様子が気になって、私が文句を言おうとすると。

不自由しているように見える?

 あっさりと茉莉は、そんな言葉を語った。

……はい?

 動揺も焦りもない、淡々とした一言。
 今日の天気は晴れね、明日は曇りかしら――そんな、差しさわりのない話のような、本当にあっさりとしたもの。
 でも、なぜか、私の内心は凍りついた。
 手元のジュースを傾ける手が止まり、喉元に絡むはずの甘さが、どうしてか苦くなる。

――あら?

 茉莉にしては珍しい、驚き顔。
 その理由は、その一瞬後に、理解できた。
 頬を伝う、二筋の雫。雨でも降ってきたのかと想ったが、ここは室内だ。如雨露(じょうろ)でイタズラなんて、手がこんでいる。

(あれ?)

 それは、自分の瞳からこぼれているものか。
 みっともない、と想いながらも、両の瞳からこぼれる熱い雫。
 勝手に流れ出る雫を止める方法を、私の理性は想いつくことができない。
 ――仕方がないじゃない。
 気づいた時には、もう、あふれ出してしまったのだから。

……

 こんな時だけ心配そうな、それでいてどこか嬉しそうな、悔しくなるような表情を浮かべる茉莉。
 これはいけない、心底許せない。

これ、使いなさいな

 そう言ってティッシュを渡すこの女、たぶん内心は「ハナを吹きなさい」だ、間違いない。
 くそう、なにがまかり間違って、ここでパターン通りにハンカチを渡してくれないのか。
 ここで鼻水を出すような女に見えるのか、それとも、それを期待しながらも汚したくないからティッシュを渡すのか。
 私は茉莉の思いやりを無視して席を立ち、ずかずかと歩いてカフェを後にした。
 後悔は、公開しない。
 ジュースの代金なんて、私の心を乱す茉莉に、払わせてやるんだから!

……はぁ

 気力の抜けた身体から、ため息がこぼれる。
 図書館は、ひどく静かだ。
 まばらに人がいるというのに、それに比して音が少ない。そういう場所ではあるのだけれど。
 ――あれから、もう数日がたつ。
 偶然なのか故意なのか、あれから茉莉とは口をきいていない。ジュースの代金を請求されにもこない。
 口実があるのに来ないのは、なんというか、不安になる。
 そうなるとこちらからも、なんとはなしに近寄りづらい。
 原因がお互いにあるから、なのだと想う。
 ……多少、私寄りではある気がするけれど。

だからといって、ねぇ

 独り言が増えるのは、一人の時間が多い証拠だ。
 そのせいで、茉莉があまり近寄らない図書館まで、わざわざ足を向けることができる。
 目的は、講義に必要な本や資料を見つけるためだ。
 決して、茉莉に見つかりにくいから、じゃない。

(……いやいや)

 頭を振りながら、反省。我ながら、どうかと想う。
 まだ、仲直りの目処を立てる気に、私はなっていない。
 なれていない、が正確かもしれない。というか、仲直りを考えるほどの状況なのかどうかすらわかっていない。
 わかるのは、今、私は一人でいる時間が多いということだけ。

むむむ……

 呻(うめ)いていると、ふっと、人影を感じ。

今日は、あなた一人?

 呼びかけられて、視線を向ける。
 まっすぐな視線をこちらに向ける、知人の少女がそこには一人。

そうよ、みちる。だって、相手がいなくても死ぬわけじゃないもの

 彼女に想いの相手がいるのか、私は知らない。まあ、こう答えておけば無難だろう。

意味がわからないけれど

 意味がわからないようだ。そんなに私は落ち込んでいるのか? いるのか。
 みちるの瞳が、かすかに周囲をさまよう。
 茉莉ほどではないが、この子も、別の世界を不意に見がちだ。
 みちるの場合、それは夢見がちという言葉がしっくりくるので、理解はしやすいけれど。

今日は、茉莉はいないの?

 けっこう、現実を見ていたらしい。ミステイク。
 こういうところだけ、妙に現実的なのも夢見がちな子の特徴だ。
 エア・リィーディング機能をオプションにして欲しい。

いいのよ、茉莉は。だって、茉莉は茉莉で、私じゃないもの。けれど、茉莉は茉莉なのよ、凄いでしょう

 流麗な私の受け答えに、なぜだか彼女は、いぶかしげな顔を向ける。

意味がわからないわ。あと、ケタケタ笑いながら言うのをやめて

 みちるは周囲に配慮してか、そんな正論を言う。
 偶然会っただけなのだから、知らない他人のふりをすればいいのに。

なにかしらこの暗い子は、失恋でもしちゃったのかしら、まあかわいそうに……、ぷ、プププのプって無視すればいいじゃない

そんな雰囲気だから、声をかけているのだけれど

 そんな雰囲気なのか? 半分は冗談だったのだけれど。
 ただこの数日、食事量が減って、睡眠時間が不規則になっているのは確かだ。
 乙女の肌にはたいそう悪い。気分的にも良くないのかもしれない。なぜだ。

かけても明るく晴れないのが曇り空なのよ。というか、なんの話だっけ

茉莉はどうしたの?

 容赦のない子。
 その話題を、必死に避けようとしているのに。

……今頃しっぽりよ

 そしてみちるは、その話題こそが原因だと知っているから、質問を続けるのだ。おそらく、私のために。
 ため息をついて、みちるは続ける。

喧嘩をしているのは、ある意味凄いけれど

……なんの話?

 本当に見当がつかないので、聞き返す。

あなたくらいよね

いやだからなんのこと

茉莉に気安いというか、嫌味なんかも言えるのは

 ……言われてみれば、そうだろうけれど。

いくら言っても聞かないし効かないし

 そう、その回避術と誘惑には、少し寂しくなる時があるくらいなのだ。
 そのくせに、茉莉の言葉はこちらの心ばかりを揺さぶってくれる。
 不公平で不平等。条約改正はなかなか飲んでもらえない。
 今回だってそうだ。たぶん、きりきりしているのは私のほうだけなのだ。
 みちるは私の答えに、少しばかり考えてから、口を開く。

そうじゃないわ。なんて言うかな……

 そこでまた言葉を選ばれるのは、なんていうか、けっこう困る。
 なので、こちらはそんな彼女のマイペースぶりに関して、突っ込むことにした。

そういうみちるはさ、考えすぎよね。色々と

 考えていないようで見ていないようで、彼女は周囲への配慮を非常に気にする。
 ただし、不器用さがその配慮をうまく生かせない。

言うなれば、気を置かない関係とでも言うのかしら

 間のずれた解答は予想できたことだけれど、その意味を汲み取るのは、ちょっと難しかった。
 自分とみちるのことか、と想ったが、違う。

 ――たぶん、私と茉莉のことだろう。

 みちるは真面目で素直で嘘がつけなくて、そして自己中だ。たぶん彼女の中には世界がある。
 考え込むと人の話を聞かないところは、昔から変わっていない。
 三つ子の魂百まで、古人は良い言葉ばかりを残してゆく。みちるも、そして私も。

私とあなたのこと?

 いちおう確認して、返答を待つ。

個人間に真実は存在しないわ。合うことも、重なることも、人ならば無理なこと。
だから、相手への打算も生まれる。けれどそれが、とても自然なこと。
虚偽と真実を混ぜながら、今という良好を保つのが、人の性と言えるわ

 ……まあ、こういうひねた返答をされるあたり、まだ私は信用されているほうなのだろう。
 みちるは話が通用しないと見たら、その相手とは一切、会話をしない。だから、友達も少ない。
 彼女も残念なことに、私と茉莉の友人の一人だということだ。

会話をしよう、うん

だから、いいなと想うのよ。
打算のない、歪みのない、凹凸の奇跡。
そんな二人が最近一緒にいないのは、どうして?

人の話を聞こうよ~

 そう嘆いてから、みちるがこちらを、しっかりと見ていることに気づく。
 言葉はかみ合っていないが、話そのものの流れは、なんとなくつかんでいるようだ。
 ――そもそも、みちるの問いかけから逃げているのは、私なんだから。

……うん、そう見えないこともないよね

そう見えるから、聞いてるのよ

 確信が好きな子のお話だ。正義なんて悪と一緒なのに。
 つらい。
 なんでつらいのか、いまいち自分の心が把握しきれていない今の私だけれど。

人間はもともと、一人で生まれて、独りで死んでゆくものよ

慰めあいもできない人間は、そんな言葉を言わないわ

 真実ばかりが黒ヒゲ危機一髪だ。私を泣かせたいのか、この女は。

あなたと茉莉は、なんていうのか……ほら、同性同士なのに、そういった匂いがするじゃない

なんの匂い

女の匂い

当たり前じゃんよ

 ふざけているのか、この子は。
 えらい真面目顔なのが、むしろシュールだ。

それくらい、お互いがお互いを意識しているでしょう?

してないです、ええ、とってもしてないです。というか、なんなのよ!?

 言ってから、ふと気になって、周囲へ視線を向ける。
 案の定、胡散臭いものを見る眼が、こちらへと突き刺さる。
 神聖で静謐なるべき図書館にあるまじき、コント二人組み。
 どちらかと言えば、いつもの私達は、大人しい方なのに。
 慌てる私に対して、みちるはマイペース。
 周囲を気にせず、淡々と自身の言葉を語る。
 重ねて、もうちょいエアリーディング機能をつけて欲しいと願う。KYレーダーでもオーケー。

どうしてあなたの持っている本は、そんなセレクトなの?

 発言の抑揚も、まったく持って変わらない。
 言われて、ちらり、と選んだ本のタイトルを見る。

 『仲直りの本』、『困ったときの会話術』、『ストーカー撃退術』、
 『もしも意中の人に彼氏がいたら』、『結婚前の破談劇』、エトセトラエトセトラ――。

こ、講義で使うのよ!

 そういった本もある。あるが、割合は低い。
 なんでだ。自分でもわからない。
 我ながら無茶な言い訳だなとも想うが、相手もそう想っているようだ。
 ……そんな視線を向けてくれるな、胸が痛い。

あなたたちのこと、私には関係がないのだけれど

 そう、関係がない。
 これは、私と茉莉の問題なのだ。
 問題というほどのものでもないはずなのだけれど。
 みちるは、いったいなにを気にしているのか。

落ち込んでいるあなたは、らしくないと想うわ

 それは、わかっていてもなかなか治らないから、困っているところだったりするのだ。

……善処するわ

 言えたのは、そんな言葉。今のままで良くないのは、自分でもわかってはいるのだ。
 そこまでで、お互いの言葉は止まる。
 みちるはすでに本を選び終わっていたようで、別れの言葉を少なく呟いた。

犬も食わないもので、悩まれても困るわ。だから、なるべく早く食あたりをさせてね

 そんな、 まったく理解不能な一言を残して、私の前から去っていった。

……え、食べるの? 食べちゃダメなものじゃない、それ?

 無駄に頭を使うのが、茉莉と違う、みちるの特徴だ。何回も難解。
 残されたのは、乱れた心をさらに混ぜられた、どうにも身動きのとれにくくなった私だけ。
 周囲の視線も、ああ、痛い。

(か、帰ろう)

 居たたまれなくなった私は、急いで本を借りて、足早に図書館を後にした。

 身体が重い。
 本が重い。
 重いのは重いと感じる何かがあるからだ。
 なぜなら持っている本の冊数自体は、いつもより断然少ない。
 気が重いのか。
 想い悩むなんて、年頃の少女らしくていい……なんてのは、漫画だけにして欲しい。

人形みたいに、綺麗に飾られて悩まない人生は、どうしたら送れるのかしら?

 ……。

……はぁ

 ツッコミがないのが、虚しい。
 私は、一人になるのが苦手だ。
 いつもなら、それを補う――むしろ邪推するのが喜びのような――相手がいるのだが。

重症かな

 浮かぶのは数日後のレポートのことでも、数週間後の帰省のことでも、ない。
 ジュースの代金を押し付けてきた相手が、その代金を請求しに来てくれるのだろうか。
 そんな、なんてことない、甘い幻想だけ。
 ――恋の相手がいるのに、友達を優先するか?
 甘い、甘い、甘い。そう、私は甘いものが大好きだ。
 だから、考えも甘い。考え方の甘党だ。楽観思考過ぎる。
 持っているのは、みちるに言われた関係のない本や、文学の古典やら物理学やら粒子力学やら民俗学の基礎資料。
 いったい私は、何をしたいのか。意味がわからない。

人間は、考える葦である

 少なくとも、哲学などして様になる状況ではない、はずである。
 なら藁でもつかんでみるか、そう考えるのが足掻く人間のささやかな心理、と想いたい。

つまりは、なんでそんなに気になるかなのよね

 憎たらしく、かわいらしく、いかがわしく、神秘的。
 少なくとも私にはそう見えて、それは周囲の評価を聞いても、そうであるようだ。
 ――茉莉は、どこかこの世界の人々と違う匂いを持っている。
 まるで天使か悪魔かのような扱いだけれど、知らず知らずのうちにみんなそうして接するのが当たり前になっている。

(あの眼がいけない、と想う)

 瞳を見て話せ、と言われるくらいに、コミュニケーションで眼は大事だ。
 その肝心要のものが、茉莉の場合は、別のモノのように見える。
 あれがこわい。
 あの眼が多分、皆が距離をとって、みちるが不思議に想う、その原因だ。

……眼、かぁ

 茉莉の瞳は、こことは違う場所を見ている。

 たまに想うけれど、あの涼やかで底がない不気味な瞳がなければ、私は彼女に近づけたのだろうか。
 まるで異世界を見ているような、ここではないどこかに住んでいたような、曖昧で焦点の定まらない、揺らいだ瞳。
 他の人は、あの瞳が綺麗すぎて遠慮すると聞くけれど。
 私は、むしろ逆だった。
 あの瞳に引き寄せられるように、私は、彼女に声をかけたのだ。

……つまりは、最初から最後まで、同じことで悩んでいるだけなのよね

 ぶつからなければ、なにも進まない。
 結論が最初からでているのは、知っていた。
 認めたくなかったのだ、簡潔に言えば。
 今日一日、いやいや、ここ数日を、大量に無駄にした。
 時は金なりだ。いったい、どれくらいの損失が出ているのだろう。

でも、それがわかっただけでも……価値は、あるのかな?

 慰めは、明日への予防線でしかないけれど。
 ――避けるのは、もう止めることにした。
 玉砕しても、しなくても、変わらないよりは、変わっていったほうがいい。
 それが、たぶん私という人間には合っている。
 その相手が誰であろうと、茉莉が選んだ相手なら――

変人でしょう

 確信を持って、それだけは言えた。
 センチメンタルな感情にも浸りながら、私は帰路へとつく。
 明日出会う、金髪の小悪魔への心構えをしながら。

 しまったな、と想う前に、気づくべきだった。私の悪い癖だ。
 改善することに集中しすぎて、他に配慮すべきことを忘れてしまう。

あら

 驚いたわ、と言った口調で茉莉が呟く。
 階段の踊り場、方向転換には場が悪い。
 バツが悪いのは、相手が怒っているだろうか、という不安じゃなかった。
 ここ二週間ばかり、茉莉に会っていなかったという不安……それが、今更に湧き上がってきたから。

 ――彼女は、この二週間、いったい誰と過ごしてきたのだろうか――

 胸中の不安。忘れていたのに、消していたのに、またその想いがよみがえってくる。
 他愛のない、本当に他愛のない、気まずい数日振りの友人との再会。

(それだけ、それだけのことのはずよ)

 なのに、今日の茉莉はとても、いつもの親友らしからぬ近寄りがたさを感じさせる。

あ、あの……さ

 口をパクパクとさせながら、もしかすると、と想う。
 回りの友人が語る、私の中の感覚と異なる、周囲にとっての茉莉の認識。
 まるで見えない壁があるような、それでいて触れられる存在でもある、不思議な距離感。
 ――これこそが、皆が茉莉を遠い存在だと呼ぶ、理由なのかもしれない。
 眼が、私を見ている。
 笑っているような、怒っているような、窺うような、からかうような、底の知れない瞳。

(――ああ)

 なんだか、とてもとても、胸の奥がざわざわしてくる。
 他人を嫌いだなんて、憎いだなんて、ましてや怒っているだなんて、本気で想ったことはないはずなのに。

(どうして、私ばっかり、心配して)

 彼女は、違う。
 彼女に出会ってから、私はぐらぐらしっぱなしだ。
 からかわれて、遠ざけられて、はぐらかされて、それでいて――。

(茉莉からは、何も言ってこないわけ?)

 心のざわめきが静まり、代わりに、グツグツと煮えたぎるものが奥底から沸きあがってくる。
 その瞳。その瞳を見て。
 私は、覚悟を決めた。
 吐き出さなければ、こちらがその黒いものに飲み込まれてしまう。
 奥にあるもの、埋めてはいけないもの。
 それを、言葉にしなくちゃ。

……今日は、その、アンダーソン先生の講義があるけど

あるわね。あなたの苦手な、けれど、とても大切な講義

そう。だから、その……

 一歩。そう、たった一歩。

一緒に予習しながら、教室へ行ってくれない?
……私に、あなたのことを教えてほしいから

 言葉を吐いても、やっぱり私はとても緊張している。
 黒いものが、心にわきあがって――周りの殻が、はがれてゆく。

ええ。喜んで

 茉莉はにっこりと微笑んで、それでいて窺うような眼はやめなくて、こちらの瞳を見つめ返してくる。

 ――やっぱり、駄目だ。

 心の中のドロドロがはがれて、中からすっと湧き出る、奇妙な愛しさに塗りつぶされてゆく。

久しぶりね、茉莉。なにをしていたの?

 その二つの綺麗な瞳に、見つめられたら。
 なぜだが私は、とても冷静になってきた。
 茉莉だけに、見られているという――不思議な安心感を、感じられたからだ。
 こちらを見つめることに、迷いのない、彼女の瞳。
 その奥に光る、いたずらっ子のような、常に揺れ動く不安な輝き。
 私を撹乱することのみに、その瞳は本当に光り輝く。
 それを知ってしまった、あの日から。

 ――私は、彼女に夢中になってしまったのだ。
 ――なら、見返すしかないじゃない?

 不安はあるけれど。
 不安に感じる必要などなかったのだ。
 彼女が悪戯の瞳を輝かせるのは、凛子という自分に対してのみ。
 ああ、実にくだらない。

 ――不自由はしていなくても、退屈をしていそうなのが、茉莉という人間。
 ――なのに、それを想いだせなくなっていたなんて。
 ――別に不自由していないからといって、それが、自分以外の他者だという話を茉莉はしていなくて。
 ――そして私という人間が、それを誤解することを、茉莉という人間は知っていて。
 ――厄介なことに、それを楽しむ類の人種なのだと、ようやく気づいて。

 あまりにもくだらなさすぎて、くだらない勘違いすぎて、少しばかり恥ずかしい。
 そんな内心に気づいているのかいないのか、くすくすと笑いながら、茉莉は私の質問へと口を開く。

待っていたの

待っていた? いったい……誰を?

 期待するような含みが、少しばかり言葉に漏れてしまったのは、失態だなと想う。
 私の失態に気づいたのかどうか、わからなかったけれど、茉莉の答えは答えじゃなかった。

あなたはいったい、なにをしていたの?

なにをしていた? そうねぇ……

 こちらもくすくすと笑って、茉莉の言葉を受け流す。答えなど、きちんと返す必要はない。
 だって、答えは……お互いに、知っているのだから。

あなたが寂しがってると想って、帰ってきてあげたのよ

そうね。あなたが寂しがってると想って、待っててあげたのよ


 そうして、二人一緒に瞳を見つめあい。
 微笑み合って。
 ものの見事に、講義には遅れてしまったけれど。

 一人じゃない二人の時間が、戻ってきたのだった。

で、凛子。ジュース代は十一(といち)ね

心は真っ黒ね、茉莉

わたしを待たせるから、黒くなっちゃったのよ

 あなたのせいね、と微笑む茉莉。
 ……まあ、いつもどおりに戻ってきたのだった。

ふふ……

 想わず、笑ってしまうほど簡単に。

その瞳に恋をして

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