避暑生活から帰ってきて、一ヶ月が過ぎた。
家のエアコンも無事直り、私はようやく平穏で快適な日々を手に入れたかに見えた。
だけど家へ戻ってきても変わらないことが一つあった。もう九月に入り、大学の夏休みが終わろうとしている今になっても、私は相変わらず毎日のように夢を見ている。
避暑生活から帰ってきて、一ヶ月が過ぎた。
家のエアコンも無事直り、私はようやく平穏で快適な日々を手に入れたかに見えた。
だけど家へ戻ってきても変わらないことが一つあった。もう九月に入り、大学の夏休みが終わろうとしている今になっても、私は相変わらず毎日のように夢を見ている。
のどかさん? 今大丈夫?
こっちへ帰ってきてからというもの、海里くんは毎日のように電話をくれる。
高校生の彼はもう夏休みも終わり、この暑い中を頑張って学校へ通っているらしい。
だから電話も必然的に夕方以降、放課後帰宅してからになる。私もその時間になると自分の部屋へ入り、彼からの電話に備えるようになっていた。
大丈夫。部屋でごろごろしてる。
海里くんは、今日は部活あった?
あったよ、だからこの時間になった
彼が高校のサッカー部に所属していることは以前から知っていた。
ただ彼のユニフォーム姿はもちろん、ボールを追い駆ける姿さえ私はまだ直に見たことがない。遠くに住んでいる親戚同士ならそんなものだ。
だけど今の私は、見たことがないはずの練習中の彼を知っている。
リフティング練習の時、コーチっぽい人に誉められたでしょ?
あの襟足長い人
そうそう。つか、あれがうちの顧問だよ
あの人が顧問?
なんかチャラそうな人に見えたけど
父兄にもよく言われてるって。
それよりさ、紅白戦の時に俺がどっち側だったか当てられる?
白でしょ。ゼッケンは黄色かったけど
見たことがないはずの彼のユニフォーム姿が私の脳内に焼きついている。
ボールを追い駆ける後ろ姿、走る度に揺れる髪、シュートの時の真剣な横顔――全てが間近で観戦していたみたいに記憶の中に残っている。
それだけじゃない。
会ったこともないチームメイトの顔も、顧問の顔も私は既に知っている。
正確には、夢で見たことがある。
すげえ! 完璧に当たってる!
笑い事じゃないでしょうが……
げらげら笑う従弟殿をよそに、私の胸中は何とも複雑だった。
まさかこの予知夢が今もって続くとは思ってもみなかったからだ。
先月、田舎町にある海里くんの家に泊まった数日の間、私は奇妙な予知夢を見た。
それは主に甘いお菓子の夢だった。
夢を見せているのは無類の甘党だった祖父だろうと推測していたものの、なぜそんな夢を見るのか、祖父は私に何を伝えたいのかという点はなかなかわからなかった。
だけど最後の最後で私は、交通事故に遭った――遭いかけた海里くんを、予知夢のお蔭で救うことができた。
普通の物語ならここでめでたしめでたし、謎の予知夢もきれいさっぱりなくなって、美しき女子大生こと私の夏休みには平穏が戻ってきていいはずだ。
なのに。
まだ見るんだよ、予知夢を。
しかも君の夢ばかり……昨夜はずっとサッカーの練習の夢だった
のどかさんの夢に出られてうれしいよ。
他に何かなかった? 俺の活躍とか
いや海里くんね、喜んでどうすんの。
また前みたいな事故の予知夢かもしんないのに
いや、そうとも限んないだろ。
のどかさんは考えすぎだよ
君が考えなさすぎなんじゃないですかね……。
またおじいちゃんが私に、海里くんの危機を伝えようとしてるのかもしれないんだよ?
そもそもじいちゃんの力かどうかだってわかんないだろ。
俺はそれ、のどかさんの力だと思ってるし
あの交通事故の日以前から、海里くんは『予知夢はおじいちゃんの仕業だ』とする私の仮説に懐疑的だった。
私にも確証があるわけでなし、単にうちの祖父ならやりそうなことだったという点と、甘い物好きだった祖父はおやつの夢を見せてくれそうだという点だけでそう思っていただけだから、信じてもらえないのも致し方ないことではある。
ただ、この予知夢が祖父の力でないとすれば、もっとややこしいことになる。
だったら私がエスパーってことになっちゃうじゃん。
しかも世界の危機とか国の行く末とかじゃなく、海里くんたった一人を予知するエスパーなんてさあ……
何それ。俺の夢じゃ不満?
いや不満とかじゃないけどさ。
仮にエスパーになったんだとしたら、どうせなら世界の危機とか救ってみたいっつか、活躍したいじゃん
そういうとこはのどかさん、子供だよな
でも、思って当然じゃないだろうか。
遠方に住む従弟の夢ばかり見ては、さながらビデオレターを送られたような温かい気持ちになるのも悪くはないけど、せっかく得たかもしれない超能力を言わば私欲の為だけに浪費しているというのはあまりにも無駄だ。無意味だ。
私のこの力がもしかしたら他の誰かの役に立てるかもしれないのに、何だって私は海里くんの夢ばかり見ているのか。
俺はのどかさんが俺の夢を見てくれて、嬉しいけどな
……わ、私も別に君の夢が嫌だってわけじゃないけどさ
そうだ、のどかさん。
紅白戦で俺がシュート打ったの見てくれた?
うん、夢でね。ボレーシュートだっけ?
結構格好よかったよ
マジ!?
俺ものどかさんが見てくれるかと思って張り切ったから、すっげえ嬉しい!
はは……それも変な話だけどね
今ではせっかくの予知能力も本当にビデオレター代わりだ。
私も何だかんだで従弟の溌剌とした学校生活を垣間見られるのは楽しい。
だからこの能力が未だ続いていることに不満があるというほどではないんだけど――。
何となくもやっとするのは、不安があるからかもしれない。
いつかまたあの時みたいな夢を見るんじゃないかって思いが拭いきれなくて、おじいちゃんのせいにしてみたくなる。
私が本当にエスパーで、この力が目覚めた意味をいつか誰かが教えてくれるんじゃないか、なんて希望を持ちたくもなる。
そうじゃないままこんな意味不明の予知夢がずっと続いていって、ある日また海里くんの身に危険が訪れるような夢を見たらと思うと少し怖い。
次に何かあったって、前みたいに思い立ってすぐ飛んでいける距離にはもういないんだから。
そうだ、のどかさん。次の連休にまたこっち来る気ない?
今月、連休あるだろ。うちに泊まってっていいからさ
あるけど、連休明けたら夏休み終わりだからなあ。
いろいろとほら、大学の準備がさ
準備って、二ヶ月も夏休みあったのに授業の準備できてないの?
うっ……いろいろあるの女子大生には!
授業以外にも!
それ、今日からやっとけばいいじゃん。
そしたら連休には間に合うよな?
俺、のどかさんに会いたい。あれから一ヶ月になるし、少しは成長したとこ見せたいよ
私、海里くんは夢で毎日見てるから。
そんなに会ってない気がしないよ
俺が会いたいって言ってんの。
のどかさん、俺の夢には出てきてくんないじゃん
私のせい?
エスパー美女のどかさんと言えど、何でもできるわけじゃないんだよ
わかってる。
でも俺は仮に夢で会ったって満足しないな。
本物ののどかさんがいい
全くこの従弟殿は、こんな口説き文句を一体どこで覚えてくるのか――彼の学校生活は夢で把握しつつあるものの、そんな台詞を学ぶ機会はないように思えたから余計に不思議だった。
先月駅で別れた時、海里くんは『次には会う時はじいちゃんよりいい男になってる』とか何とか言っていたはずだ。
彼にそれが不可能だとは思っちゃいないけど、まだたった一ヶ月。何が変わっているだろうかとは思う。
つか、そう言ったからにはもうちょい溜めてから会おうって言うもんだとばかり思ってた。
とは言え、海里くんがいくらねだっても彼の住む田舎町までは電車を乗り継いで六時間の距離。会いたいからといって気軽に飛んでいけるはずもなく、私は連休の予定を保留にしていた。
何となく、毎日夢で見ている海里くんと直に顔を合わせるのはこそばゆい、というのも理由の一つではあった。
海里くんは残念そうにしていたけど、思ったよりは食い下がってこなかった。
そのうち、俺がそっちに遊びに行くよ。
のどかさん家に泊めてくれる?
いいよ、おいで。
こっち都会だから、海里くんびっくりするかもよ
びっくりするのはのどかさんの方だよ。
間が空けば空くほど、俺は大人になってるだろうから
随分自信たっぷりに言い切るものだから、不覚にもどきっとした。
ともあれ、私はひとまず何の予定もないまま九月の連休前夜を迎えていた。
そしてその夜、いつになく奇妙な夢を見た。
私と海里くんは、あの田舎町にある海里くんの家にいた。
海里くんは厳粛とも言える真剣な顔つきで私と共に仏間へ行き、祖父や祖母の写真が飾ってある仏壇の前に屈み込む。
ずっと気がつかなかったけど、仏壇の真下には隠されているみたいにひっそりと平べったい引き出しがあった。
海里くんはためらわずにそこを開く。
中には黄ばんだ四角い紙箱が収められており、慎重に箱を取り出した後、海里くんは一度私を見てから、今度はゆっくりと箱の蓋を開けた――。
そこで、はっと目が覚めた。
仏間に漂う線香の匂いまで覚えているような、怖いくらい鮮明な夢だった。
私が真っ先にしたことは、やはり夢に見た海里くんに電話をかけることだった。
ふぁい……あれ、のどかさん?
どしたの、こんな朝早くに
ねえ海里くん。
君ん家のお仏壇に引き出しってある?
え、仏壇に引き出しなんてあったっけ?
夢で見たの。
お仏壇の下に引き出しがあって、私と海里くんがそこを開けて、中から箱を見つけて――
わかった、見てくるから待ってて
夢の話をした途端、彼の意識は完璧に覚醒したようだ。
電話の向こうで海里くんがベッドから下りる音がして、すぐにドアを開ける音、階段を下りていく足音が後に続いた。
仏間の襖をしゃっと開けた直後、はっきりと息を呑むのが聞こえた。
……あるよ、引き出し。
前からあったっけ、これ……覚えないな
……やっぱりか
相変わらず、私の予知夢は冴えまくっているようだ。
この夢にいったいどんな意味があるのかはわからない。だけど、何かが起きようとしているのはわかった。
引き出しの中に収められた紙箱には、きっと何かがあるのだろう。
引き出し、開ける?
ううん、待って。
夢では私と海里くん、二人で開けてたから
そう言った時にはもう、覚悟も決まっていた。
夢の通りにすれば何かある。
もしかしたら予知夢を見る理由も明らかになるかもしれない――そんな予感が私を衝き動かしていた。
今日、そっちに行くよ。
だから開けずに待っててくれないかな
えっ、マジで?
のどかさん来てくれんの?
海里くんの声が嬉しそうに弾むのを聞きながら、彼とはどんな顔で会えばいいのか、私は早くも頭を悩ませていた。
いやそれどころじゃないのかもしれないけど。
もっと他に考えるべきことがあるのかもしれないけどもだ、今はそっちの問題の方が大きい。
何せあの時以来、一ヶ月ぶりなんだから。
駅での別れの記憶は夢と現実で二回見た。
だから尚のこと脳に鮮明に焼きついていて、未だにどぎまぎしてしまう。
俺、駅まで迎えに行くよ。
荷物とかあって大変だろ?
楽しそうに浮かれ始めている海里くんは私と会うのに気まずい、なんて気持ちは微塵もないようだ。
この一ヶ月で彼は、本当に大人になりつつあるのかもしれなかった。
けど、夢で毎日見てるのにわからないなんて変な話だ。そう考えると私の予知夢も、実は大したことないんだろうか。
これで向こうにすっ飛んでいって、箱の中身は空っぽでしたとかだったら恥ずかしいけど、その時はまたおじいちゃんに担がれたのだと思うしかない。
私は大急ぎで旅支度を整え、先月訪ねたばかりの田舎町を再訪することにした。