初音の朝は早い。
　しかし身支度は相変わらず遅い。

　久成が囲炉裏の横座に着いた頃、その姿はまだ見えなかった。今朝も時間を掛けているようだ。

　朝餉の支度をする妹に尋ねる。
　佐和子は鍋を掻き回す手を止めて、静かに答えた。

　顎を引いた久成は、落ち着かぬ心持ちでいた。
　初音が現れるのが待ち遠しくもあったし、どう誉めるべきかを考えるなら実に悩ましい。新妻の努力は買いつつも、早く朝の支度にも慣れてくれればよいと思う。
　こんな思案を毎朝のように繰り返していては、そのうち仕事にも差し障りそうだ。

　味噌汁をよそう佐和子が、しみじみとそう呟いた。

　久成は黙り込む。
　どう応じていいのかわからず、妹の温順そうな横顔を見つめる。
　佐和子は兄の方を見ず、鍋の蓋を閉じながら続けた。

　兄はますます答えに窮し、居心地悪そうに足を組み替える。

　佐和子は佐和子なりに兄夫婦を案じているらしく、時々こうして気に掛けるようなことを言ってくる。
　案じられるほどの軋轢もまだないような新米夫婦だから、見ていてかえって歯痒くなることもあるのだろう。久成からすれば気にせずそっとしておいて欲しいくらいだが、妹の気遣いも重々承知している。

　四つ違いの兄妹は仲が良かった。両親は鬼籍に入っており、お互い以外に頼る者がなかったのも一因だろう。久成が初音を娶ると決めた時も、佐和子を家から追い出そうとは考えもしなかった。幸いにして佐和子と初音は仲がよいらしく、三人の暮らしもその点では上手くいっているようだ。久成には喜ばしいことだった。
　ただ、佐和子の横顔を見ていると、たまに胸が痛む時もある。

　久成は独り言のように言った。

　合わせて笑ってみたものの、複雑な思いに囚われる。

　二十歳をとうに過ぎ、娘と呼べる歳ではない佐和子は、今では着飾ることもほとんどしなくなった。世間知らずな初音に代わって家事のほとんどを切り盛りしている。畑仕事もこなしているせいか、しなやかだった手にはまめが目立つようになった。
　せめてもう少し楽な暮らしぶりであれば、佐和子もまだ女らしく化けていられただろうに。稼ぎの少ない兄と暮らし続けることが妹にとって幸いと言えるのか。久成はたびたび自問する。だが答えの出たためしはない。
　三人の暮らしが続く以上、自らの健在なうちは、女房も妹も守りたい。それだけは思う。

　佐和子の声が明るく弾み、久成ははたと我に返る。

　初音がようやく現れていた。
　深々と頭を下げ、やはりいつものように挨拶をした。

　初音が面を上げると、久成にとって見慣れぬ顔がそこにはある。一か月の間寝食を共にしていても、まるで記憶に残らない。
　田舎娘とも都会の女とも違う、目の覚めるような見栄えのよさを、久成は改めて実感していた。初音は実によく、上手く化ける女だ。

　やや堅い口調で、久成は挨拶を返す。それからいつもよりは熱心に視線を向けてみた。

　夫の目に気づいてか、初音は恥ずかしげに微笑む。
　しかし久成は誉め言葉も口にせず、密かに眉を顰めておく。
　しげしげと注視したところで見慣れぬ顔だった。整っていて美しくはあったが、昨日の曖昧な記憶とは重ならない。そのことが久成にはもどかしい。

　佐和子は嬉しそうだった。兄嫁の見栄えのよさは義妹にとっても喜ばしいものらしく、初音が美しく装うたびに誉めそやしていた。久成ほどのこだわりもないらしく、美しければそれでよいと思っているようだ。

　背筋を伸ばして応じた初音は、その後で夫の方をうかがってきた。
　言及を求めているらしいとわかり、久成は困惑する。果たして正直に告げてよいものかと。

　逡巡のうち、初音の方から切り出された。

　どうやら当人にも自覚はあるらしい。久成は嘆息し、家長としての務めを果たすべく口を開く。

　今一度、新妻の顔を見る。
　涼しげな眼差しと大人びた顔立ち、どこか触れがたいような神聖な美しさは、あいにく久成の好みとは違っていた。やんわり事実を告げる。

　そう続けると、初音ははっとしたように身を竦めた。

　いくらかは落ち着いた様子で初音が答える。
　だがめげているのは一目瞭然、久成が気まずさを覚えたところへ、佐和子が割って入ってきた。

　その一言で囲炉裏端の空気が変わる。初音はいそいそと給仕を始め、久成は妹の存在に感謝する。
　新米夫婦が二人きりでは、この家は何も成り立たない。今は佐和子がいることが大層ありがたかった。

　家を出る久成を見送るのは初音の仕事だった。
　それも佐和子なりの気遣いなのだろうとわかっている。ありがたい時もあるし、今日のようにいささか滅入る場合もある。
　下駄を履く久成の横に座った初音は、いつもの朗らかさを失い項垂れていた。どう声を掛けるべきか、全くもって悩ましい。

　下駄を履き終えた久成は、土間に直立して妻を呼ぶ。

　初音は即座に顔を上げ、いかにも浮かぬそぶりで鞄を差し出してきた。

　鞄を受け取りながら告げれば、初音はきゅっと眉を顰めて、いつになく強い口調で訴えてくる。

　縋る眼差しを向けられた。

　久成は僅かにうろたえた。新米の妻に新米の夫、戸惑いも悩みもお互いにあって当然。まして初音の懸案は、久成にはまるで理解出来ぬ領域だ。励ますだけで事足りるはずもない。
　やがて、意を決した。

　名を呼んで、鞄を持っていない方の手で初音の顔に触れた。
　初めは頬に触れ、軽く撫で、次に人差し指の先で、涼しげな目元をつ、と優しく押し下げる。

　初音はくすぐったそうに声を上げ、身を震わせた。

　指先に伝わる感触は、紛れもない女の肌だった。指先だけでも十分にわかる、柔らかく張りのある肌だ。若い女のものに違いなく、久成はそれを妙な気分で撫でた。
　それから少し考え、意を決して告げた。

　初音が惚けたような顔になる。
　好みの顔ではなくとも、夢見るようにぼんやりしたさまは何とも愛らしいものだ。久成は目を逸らさぬようにするのがせいぜいだった。海棠の眠り未だ足らず、そんな言い回しを思い浮かべては一人うろたえる。
　そのくせ口では、さも平静でいるようにふるまう。

　しっかりと頷いた初音は、また縋るような眼差しを向けてくる。

　それも化けた上での目つきではないかと、たまに思うこともある。だとしても久成は初音のように化けられず、いつも隠し切れずに動じてしまう。
　慌てふためき踵を返した。

　化け上手な女は、あどけなく瑞々しい声で夫を送る。