初音は早起きをする嫁だった。
 山の鳥が鳴き始める頃、久成はいつもどおりに目を覚ます。すると初音の姿はとうになく、隣に敷かれていたはずの夜具も片付けられているのが常だ。
 朝日が射す畳を寝惚け眼で眺め、久成はいつも嘆息する。

……つくづく、奇妙な嫁を貰ったものだ

新妻である初音の奇妙さは、挙げれば枚挙にいとまがない。
世間知らずでいささか無知。炊事や洗濯、繕いものもろくに出来ぬというありさまだ。
そのくせ時たま物をわかった風な、大仰な口を利くこともある。
田舎の農村にいる娘らとは一線を画していたが、かといって都会の女とも違っていた。

奇妙と言えば、俺に寝顔を見せたがらないところもそうだ……

『久成様にみっともない姿をお見せする訳には参りません』
そう言って、毎晩夫が寝つくまでずっと起きている。
布団の横にちょこんと座り、目を擦りながら眠気と戦っている妻のそぶりを、久成は毎晩のように呆れる思いで盗み見ていた。

 初音が早起きをする習慣も、寝顔を見せたがらない理由と同じだ。
 夫の前で寝起きの醜態を晒すのは嫌だからと、早起きをして身支度を整えているらしい。
 その身支度がまた時間の掛かるもので、久成が夜具を片づけ、顔を洗い、囲炉裏端へ出向いてもまだ出てこない。

おはようございます、兄上

おはよう、佐和子

 妹のあいさつに応じた久成は、すぐに横座へ腰を下ろした。
 それから何気ない風を装い奥座敷の方を見やる。初音が現れる気配はまだなく、代わりに妹へ尋ねた。

初音はまだか

 味噌汁を椀によそう佐和子が、ふとその手を止めた。静かに答える。

ええ。まだのようです

そうか。
毎度のことながら、あれもなかなか難儀なものだな

 さも関心がないように続けたが、そこで妹から非難がましい目を向けられた。

あら、初音さんは兄上の為に綺麗になさっているのでしょう

 妹の言葉は久成にとって、何ともばつの悪いものだった。
 佐和子は兄嫁にいたく肩入れしているふしがあり、時々こうして初音を庇い立てる。

俺の為ではない

 無愛想に久成は答えたが、妹が眉を顰めたので一層気まずくなった。黙ってもぞもぞと座り直す。

 実のところ、身支度を終えた初音の様はまさに見物といったところで、夫としても密かに毎朝待ち侘びているのだった。
 花の顔と例えるのが相応の、見栄えのよい嫁だった。

昨日も大変美しゅうございましたもの。
今日もきっとお綺麗でしょうね

昨日の、初音の顔か……

 それで久成は初音の昨日の姿を思い起こそうとしたが、できなかった。

 そもそも久成は娶ったばかりの妻の顔を覚えていない。夫婦となって既にひと月近くが経っていたが、記憶は日々移り変わり、なかなか根づこうとしてくれなかった。

 やがて、奥座敷から衣擦れの音がした。

兄上

……

おはようございます、久成様、佐和子さん

 屈託のない挨拶と共に、奥座敷から初音が現れた。
 着物をまとう身のこなしはまだ垢抜けない、小娘そのものと言った無粋さだ。しかしその姿は小娘ではなかった。

 常盤色の着物を身につけた初音は、面立ちもまた美しかった。柳の葉のようにしなやかな眉と、やや垂れがちな艶のある目元、ぽってりとした朱唇。見慣れぬ顔だった。
 豊かな髪には花を飾り、この辺りの田舎では見ない形に結い上げている。それがまた今朝の初音の美しさを際立たせていた。

 田舎の朝には過分なほどの色香を漂わせた妻を、久成も長くは見ていられなかった。直に目を逸らした。

……

初音さん、おはようございます

 兄よりも先に、佐和子が挨拶を口にした。
 それから嬉々として誉めそやす。

昨日よりも一段とお綺麗です。
今朝の初音さんのお顔立ちと言ったら、目が覚めるようです

まあ、うれしゅうございます

 初音は顔立ちよりもあどけない口調で応じた。
 その後で久成の方を向いた。夫の反応が気がかりらしく、しばらくじっと待っている。

 何か言わなければならぬ、そうとわかってはいても上手い文句は出てこない。新妻に対して、ましてや妹の見ている前、率直な誉め言葉は告げづらい。久成も若い女の前ではさほど弁の立つ方ではなかった。
 それでもどうにか言葉を工面した。

なかなか、よい出来だ

 しかつめらしく告げると、佐和子はくすっと笑声を立て、初音は朱色の唇を綻ばせる。

……ふふっ

ありがとうございます、久成様。
私、身支度が大分上手になりましたでしょう

ああ、そうだな

久成様の、お気に召したでしょうか

女房の顔を気に入るも気に入らぬもない。
俺はどんな顔でもよいくらいだ

 なるべく無愛想にならぬよう、念を押しておく。更に言い添えた。

それより、早く慣れるといい。
佐和子の手伝いが出来るようにな

はい。かしこまりました

 よい返事をした初音は、そのまま佐和子の隣、囲炉裏端のかか座へと座った。袖をまくって火箸を持つ。
 初音は火の扱いが苦手とのことで、これになかなか慣れぬようだった。今も腰が引けている。

 見かねてか、佐和子が助け舟を出す。

初音さんはこちらで、兄上にご飯をよそってくださいます?

 それで初音は火箸を佐和子に渡し、櫃から飯を椀へとよそい始めた。手際がよいとは言えなかったが、それでも嫁いできたばかりの頃に比べたら随分とましになった。
 不格好に盛られた飯の椀を受け取り、久成は食事を始める。

 朝餉の献立は麦飯と大根菜の味噌汁、そして糠漬けのみ。久成は黙々と食事を続け、合間に女房の様子をうかがう。朝餉の席ではいつも、密かに初音の姿を眺めている。

……

 つくづく、見栄えのよい女だった。

 しかし田舎の茅屋に着飾った女の姿は不釣合いだ。掛け軸代わりに飾っておくなら都合もよいのだろうが、あいにくと床の間もない家だった。
 不釣合いだと言うのなら、久成にとっての初音こそそうなのかもしれない。もったいないくらいの嫁を貰ったと、久成は思う。

 朝餉を済ませると、久成は手早く支度を整え、出かける用意をした。
 そして土間で下駄を履き出すと、初音がすかさず寄ってくる。ちょこんと傍に座り込み、久成が目をやれば愛想のよい笑みを浮かべる。

行ってらっしゃいませ、久成様

 掛けられた見送りの挨拶に、戸惑いつつも頷く。

ああ

 直後に立ち上がると、待ち構えていたように初音が鞄を差し出してくる。

久成様、鞄をどうぞ

……ああ、ありがとう

はいっ

 初音があまりにも嬉しそうにしているから、久成も笑わずにはいられなかった。この妻は自分が家事に慣れていないことに忸怩たる思いがあるようで、こうして妻らしい務めを果たせただけで大層喜ぶのだ。

 初音の手から重い鞄を受け取った久成は、しばし新妻の顔を眺めていた。
 色気を含んだ面差しと、対照的にあどけない笑み、どちらも見慣れない。明日もまた見慣れない顔でいるのだろう。
 今の顔を記憶のうちに留めておくべきか、そうせざるべきか。久成は思案の末、初音に対してこう告げた。

好みの顔だ

 ぶっきらぼうな物言いになったせいだろう。初音は黙って目を瞬かせる。

……?

今朝のその顔――なかなか悪くない

久成様……大変、うれしゅうございます

 心底うれしそうに初音が言ったので、久成は面映さに目を逸らした。やはり女を誉めるのは不得手だった。

では、ずっとこの顔でいられるよう、励むことにいたします

いや、まあ……無理はするな

 上機嫌の初音にもっと喜ぶようなことを言ってやるべきかと思っても、もう世辞すら出てこない。久成は村の子供達にからかわれるほどの唐変木だった。
 朝餉の席で初音へ告げた、どんな顔でもよいという言葉にも嘘はない。しかし初音が美しくあるということがうれしいのもまた事実だった。他でもない久成の為に励んでいるのだと知っているからこそだ。

 朝の見送りに佐和子が姿を見せないのが幸いだった。毎朝のようにこんなやり取りをしているが、初音と二人きりでも居た堪れない。妹の前で兄の威厳を保つ自信はまるでなかった。

行ってくる。初音、留守を頼む

 息をつき、久成は威厳を保った口ぶりで言い渡す。

はい。お帰りをお待ちしております

 初音は深々と頭を下げ、家を離れる久成をずっと見送り続けていた。

 朝の田舎道を久成は一人、歩き出す。

 この山間の村の小学校で、久成は訓導として勤めている。子供らの相手は女の相手をするよりも余程楽だったが、気をつけねばならぬことも多かった。教え子の前では新妻について、断じて口を滑らせぬようにと心がけている。自衛の為の策だった。

 初音は奇妙な嫁だったが、所帯を持つことについては迷いも、ためらいもなかった。三人での暮らしをただただ守ってゆきたい、久成は常にそう思っていた。

奇妙な嫁と迎える朝の話

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