夢を見た。それは同居人のリヒトが出てくる夢だった。
 
 夢の中のリヒトはまだ子供で、カナンと同じ年頃の子供だった。クチハもいた。まるで迷路みたいな四角い建物の中だった。そこで、リヒトやクチハは、彼らと同じような年齢の子供たちと一緒に生活をしていた。
 そこには子供たち以外にもいろいろなものが詰まっていた。大きな影のような大人たち、耳障りな靴音、殴ったり蹴ったりする鈍い気配、床の冷たい感触、それに血の匂いも。

 ひとごろしをつくるがっこうだ、と夢の中のカナンは、その場所をそんな風に思った。
 リヒトは優しいから、こんな場所は似合わない。りっぱなひとごろしになる前に、ぼこぼこにされちゃうに違いない。そうカナンは思った。
 だから、ここから逃げよう、とカナンは子供のリヒトの手を引いた。傍にいた子供のクチハもそれがいいと言ってくれた。
 はやくここから逃げ出そう、とそう言って掴んだリヒトの手は、ぬらりと濡れていた。
 なにこれ、と首を傾げたら鉄臭いような匂いがした。その匂いに気が付いたら、リヒトの小さな手を染めるその液体の色にも気が付いてしまった。
 それは、人の身体に流れている、血の色。
 ぞくりとカナンが顔をあげると、子供のリヒトは何の感情も宿さない顔でぼんやりとカナンを見つめてきた。赤色に濡れた手に握られている鋭い銀色が、鈍く光る。

 リヒト、と呼んだその声は恐怖で掠れていた。
 はくはくと、酸欠の魚みたいに口を開け閉めするカナンに、リヒトは言った。おれはもうりっぱなひとごろしになってしまったからおいていってくれ、と。何かを諦めるような笑顔でそんなことを言った。横で子供のクチハも仕方がないと頷いた。リヒトはもう立派な人殺しになってしまったから置いていきましょう、と聞き分けのない子どもを諭すように言ってきた。
 嫌だと、夢の中でカナンは叫んだ。絶対に嫌だとカナンはリヒトの真っ赤な手を強く掴んだ。どろりと、カナンの手も真っ赤に染まった。血の匂いが濃くなる。暴力による恐怖がぞくりと背中を逆撫でる。
 ほら早く逃げないとカナンまでのみこまれてしまうよ、と子供のリヒトが背後を示した。いつの間にか、真っ黒い影が広がっていた。ぶくぶくと広がった影はその大きな腕を伸ばし、リヒトを闇の中へ連れて行こうとする。
 気が付くと辺りを真っ黒い影に囲まれていて、クチハもいつの間にかいなくなっていた。飲み込まれてしまったか、それとも一足先に逃げ出すことが出来たのか、分からない。だけど、クチハだけでも無事だといいな、とカナンは思った。

 カナン、とリヒトが諭すように名を呼んだ。
 カナン、てをはなしたほうがいい、と諦めるような笑顔でリヒトが言う。自分のことはすべて諦めているようなリヒト。そんなリヒトの笑顔に、泣いて縋りたいような、その横っ面を引っ掻きたいような。どこか暴力的な感情がカナンを突き動かす。
 絶対に離すものか、とカナンは叫んだ。
 真っ暗な影がリヒトとカナンの小さな体を飲み込もうと、ひときわ大きく膨れ上がった。それでもカナンは小さなリヒトの手を絶対に手放すまいと、強く強く、握りしめた。

 
 がくん、と軽い衝撃を受けながらカナンは目を覚ました。
 何か、嫌な夢を見たような気がする。と、額に滲む汗をぬぐいながらカナンは体を起こした。夜、寝床に入る前に降っていた筈の雨は、いつの間にか止んだようだ。朝はまだ遠く、薄墨のような夜の空気が部屋の中に横たわっていた。
 夢の残滓は目を覚ました瞬間から闇にほどけ、どこかへ行ってしまう。良い夢ならともかく悪い夢の尻尾を追いかける趣味はカナンにはない。ふるる、と頭を振り、カナンは寝床から立ち上がった。
 台所に立ち水をくむ。たぱぱぱ、と蛇口から落ちた水滴がシンクを叩く音が静寂を破るように響く。雨音の様だと思いながら、カナンはこくこくと喉を鳴らしながら水を飲み干した。再び自分の寝床に戻ろうとして、けれどカナンはその足をリヒトの寝床へと向けた。

 古びた毛布にくるまって、リヒトは静かに眠っていた。
 まるで胎児のように小さく丸まって眠っているその姿に、ほ、とカナンは安堵の息を漏らす。
 リヒトが今こうして、目の前に居る事に、何故だかよく分からないけれど、泣き出したくなるほど安心したのだ。
 ほっとしたら今度はなんだか腹が立ってきたので、だらしなく緩んだリヒトの頬を、ぐい、とカナンは引っ張った。眠っているところで突然頬を引っ張られたリヒトは、おぉ? と驚いた声を上げながら目を覚ます。

……カナン?

まだ少し寝ぼけた声で名を呼んでくるリヒトの、平和な様子にまた少し腹が立って、カナンはぐいぐいとまたその頬を引っ張った。

え、どうしたんだ

嫌な夢見たから一緒に寝て

そう言ってカナンはリヒトの返事を待たずにリヒトの毛布の中にその小さな身を滑り込ませた。

嫌な夢?

どんなのかは忘れたけど、嫌な夢だった

そう言ってカナンは、ずりずりとリヒトのおなかの辺りに自分の頭を押し付けた。まるで猫が飼い主に甘えるような、そんなカナンの仕草にリヒトはくつりと笑う。

怖い夢じゃなくて?

怖い夢じゃなくて、嫌な夢だってば。別に、怖くて一人で寝れないとかじゃないから

不機嫌な声でカナンはそう言って、ぐりぐりと半ば頭突きするような勢いでリヒトのお腹に頭を押し付ける。そんなカナンに、痛いって、とリヒトは小さな笑い声を上げた。
 仕方がないなあ、とリヒトはカナンの小さな体に腕を回し、とんとん、とあやすように背中を叩いた。普段だったら子ども扱いするなと怒る所だが、今はその子ども扱いが安心する。温かい腕の感触をしっかりと感じたくて、カナンは無言のままリヒトの胸元にしがみついた。

 それはまるで、憶えていない夢の中でどうしても手放すことのできなかったリヒトを、今もまた絶対に離さないと駄々をこねるような。

夢の話 -遣らずの雨が降る時―

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