魔女の爪先

職場の同期の彼女は常に爪を美しく調えている。綺麗に形を整え磨き、時に深紅に、時に蒼く、色付けている。更には花びらのごとき小さな面に、花や幾何学模様や細かなラインやらが緻密に描かれたりもしているのだ。
その技の人間離れしたところといい、爪先と言う細部に宿るきらきら具合といい、それはまるでおとぎ話の中に出てくる魔女の様な爪なのである。

 午後、コーヒーでも飲もうと職場の休憩スペースに赴くと、同期の彼女の姿がそこにはあった。同期の中でも出世頭の彼女は常に忙しく駆けまわっていて、こうして顔を合わせるのは久しぶりだった。近況報告がてらの会話のついでに、俺は目に入った彼女の爪を指摘した。確か少し前まで彼女の指先は五月の空のように鮮やかな青ではなかったか。それが今は紫でなにやら細かな模様も描かれている。
一体どんな職人の所業か、と問えば、これくらいならば簡単だから自分でやったとの返答。女というのはなんと器用な生き物か。

性別で器用かどうかをくくるなんて、君は相変わらず保守的というかおやじくさいというか。そんなことだと同じ部署の若い女の子に、小暮さんって頭が硬すぎて面倒くさいよね、って影で言われるわよ。気をつけなさい

久しぶりにも関わらず、彼女は俺の他愛のない感想をいつもと変わらぬ辛辣な言葉で跳ね返してきた。
機知に富んだ毒舌は彼女の武器の一つであるから、同期の健在ぶりを喜ぶべきなのだろう。だが久しぶりだったせいでその攻撃をうっかりまともに受けてしまい、俺の精神力は大ダメージである。

君こそ部署の人に、朝倉さんって仕事は出来るんだけど怖いんだよね。って恐れられないように気をつけたまえ

負けじと応戦すると、彼女は無言のまま俺の足を蹴ってきた。
ハイヒールをはいているくせになんて安定したローキック。誉めるべきか、それとも暴力反対! と抗議すべきか。
思案の末、俺はコーヒーと共に痛みを飲み干す道を選んだ。これ以上のどつき合いは、更なる被害が生まれるだけ。憎しみの連鎖はどこかで切らねばならないのである。どこかでどちらかが大人にならねばならぬのだ。

……殴るのでなく蹴りを選んだのは、どうせまた爪の心配をしての事なのだろう?

せめて一矢報いようと皮肉を込めて言ってはみたが、彼女は気にする様子もない。

よくわかってるじゃない。昨日塗り替えたばかりなんだよ。下手に殴って折れたり欠けたりしたくないもの

そう言いながら彼女は買った缶コーヒーのプルトップを、胸ポケットに差していたボールペンの先で器用に開けた。これもまた爪を傷つけないための工夫なのだと前に彼女が言っていたことを思い出す。
 コーヒーの小さな缶を掴む指先に宿る紫が、きらりと光る。

……藤の花、か

白から始まり紫へと変化していくその色彩から連想される花の名前を呟く。と、彼女は驚いたように目を丸くした。

君みたいな朴念仁が、よく分かったわね

実家に藤棚があったんだ

それはまた風流な

そう言って、ふふ、と笑いながら彼女は見せつけるように手の甲を俺の目の前へとかざした。どう、と問いかけられ、俺は顔を顰めた。

藤の花というには派手すぎるな

ほんと、保守的なご意見

俺の感想に彼女は皮肉な口調でそう言った
確かにそこに宿る色彩は藤の花そのものだ。けれど、透明の小さな石が配置され小さく模様まで描かれたそこには、あの、藤の花が垂れ下がるしとやかな佇まいはない。
細部まできっちりと華やかに造りこまれたその指先は敷居が高いというか派手というか。相も変わらずこの友人は魔女的である。というか、俺よりも仕事を抱えているくせに、髪もメイクもきちんと整えているこの同期は本当に魔法が使えても不思議ではない気がする。

というか、だな。大人しい爪というものも世の中にはあるのだろう? こう、ピンクとか白っぽい感じのとか。にもかかわらず何故に君はそんな魔女的な爪にするんだ

そう、世の中には桃色などの自然な色をひとはけ乗せているだけの爪もあるのだ。そもそも我が母上などは普段マニキュアなど塗っておらず、祝い事の時のみ、その爪先を密やかに赤く染めるだけだった。
 この友人の魔女の如く爪先。常に爪をきらびやかに飾り立て磨いている。その鋭い爪は何のためなのか、もしや悪漢に襲われた際に武器になるよう研いでいるわけでもあるまいし。
 全く嘆かわしいとため息をつく俺に、また失礼なことを考えているでしょ、と彼女は再びローキックをお見舞いしてきた。何度も言うようだが、彼女はハイヒールである。にもかかわらずこの威力といったら。彼女は仕事も有能だが、キックボクシング界に転身してもきっと華々しい成果を挙げられることだろう。

君の趣味なんか聞いてないし。私はこういうのが好きなのよ。仕事中に、自分の手元を見て綺麗な指先を見ると、やる気出るんだっつーの。ていうか、そもそも自分が稼いだ金で自分を好きなように着飾って、何が悪い

ふん、と鼻で笑いながら彼女はそう言い放つ。どこか挑戦的な光がアイラインで囲まれた彼女の目に宿る。自分以外にも彼女の爪について誰かが何かを言ったのだろう。

まぁ、確かに君らの言うことは理解できる。だが米を研ぐのはどうするんだ。みかんや甘栗を剥くときはどうする。あと、洗髪はどうやるんだ

……気になるところが所帯臭いわね。君はあれだね、日常生活が苦にならなくて婚期を逃すパターンだね

それを言ったら君は仕事重視で婚期を逃す典型的なパターンだろうな

俺の素直な感想は彼女の図星だったようだ。
本日三度目の蹴りが本日最凶の威力でもって襲いかかってきた。まるでお手本のようなフォームで繰り出されたハイヒール・ローキックが俺の脛を強打。

弁慶っ

あまりの痛みに思わず体の部位を口走る。じんじんと鈍く痺れる弁慶の泣き所。肉や筋という部位を超えて骨というもっとも固い部位が痛みを訴えている気がする。折れたのか俺の脛の骨よ。頼む、そうでないといってくれ。
どちらにしろ、これは青あざ決定にちがいない。帰りに湿布でも買って帰ろう。どこか達観した心持ちで思いながら蹲る俺の上に、あ、と友人ののんきな声が降ってきた。

ヒールが飛んでいった。ちょっと支えて

その言葉と同時に、蹲る自分の肩に掴まるような気配。ずしりとのしかかってきた重みに更に俺はよろめいた。

こら、ふらつくな、男だろうが。ちゃんと支えなさい

無茶を言うな。その爪でがっつり肩を掴むな。痛い、痛いから。まじで。お前の爪が俺の肩肉をえぐるから

それは言い過ぎというものじゃない。さすがに肉はえぐれないわよ。皮膚をちょっとばかし削る程度よ

それでも十分に恐ろしいからやめてくれ。痛いのは弁慶だけでもう十分だ

そう声をあげるながら、彼女を支えた。近くのソファに座らせた。飛んでいったハイヒールを回収する。
 彼女のハイヒールは思っていたよりも遠くまで飛んでいた。どんだけ容赦なく俺のことを蹴ったんだ君はこのやろう。
 休憩スペースの椅子の影に転がっていたハイヒールを拾い上げ、その小ささに俺は少し驚いた。

君、足のサイズ小さいんだな

そう、なかなかちょうど良い靴が見つからないのよね。この靴、何にでも合うし、かなり重宝してるのよ

だったらもっと大切に扱え。ローキックなんかしてヒールが折れたらどうするんだ

そしたら修理に出すもの。良い修理店知ってるから問題なし

修理に出さないよう大切に扱うべきなんじゃないだろうか

そんな軽口を叩きながらソファに座る友人の元へ戻る。
友人はぷらぷらと子供のように足を揺らしている。片足だけさらされたその小さな爪先は予想外にも、素のままの姿だった。
友人の足の爪のことだから、手の爪以上にけばけばしく飾りたてられていると思っていた。だが、実際は小さな足には桜貝のような小さな薄紅の爪。それはまるで幼い少女が背伸びをしているような、純粋な色彩。
 その無防備な色にどきりとひとつ、胸が鳴る。

ありがとう

差し出したハイヒールを受けとりながら、彼女は自分の足ばかりを見つめる俺に眉をひそめた。

なに人の足を凝視してんのよ。セクハラ?

いやいやいや、そんなつもりは

全力で否定されるのも腹立たしいな

言葉とは裏腹に、からりと笑って彼女はハイヒールを履いた。
 小さな爪先は華奢な靴に包まれて見えなくなる。

……君、足はなにもしてないんだな

隠されてしまった、まっさらな爪先を名残惜しく思い出しながら俺がそう呟くと、彼女はくすりと笑った。

なんにもしていない訳じゃないよ。ピンクのクリアネイルをひとはけだけ塗っている

そう言って、彼女はこちらを見上げた。長い睫毛の奥で極彩色の色気がきらりと走る。魔女が魔法をかけるとき、杖の先からこんな光がはしるのではないだろうか。そんなことが頭の片隅をよぎる。

普段は完全武装で指先まで手を抜かない女が見せる、隙のある一面。ホント男の人ってそういうの、好きだよね

強気な光をきらりと瞬かせ、そう挑発的に彼女は言った。
それはまさに、その言葉の通りであり。俺は頬が熱くなるのを感じた。このたちの悪い同期の彼女は、俺の胸の内に鳴り響く、なかなか平静に戻らない鼓動の音も、なにもかも、お見通しなのだろうか。
絶句している俺に、ふ、と彼女は破顔した。

シンプルなのも好きなだけよ。けばけばしいだけじゃつまらないでしょ?

残りのコーヒーを飲み干して、先に行くわね、と彼女は休憩スペースを去っていった。
 かかとの高い靴を履いても揺るがない彼女の後ろ姿には、先ほどちらりと見せた色気など微塵もない。あるのは磨きあげられた爪を装備した魔女の、美しくも強い背中。
 彼女の無防備な爪先は、その足元に膝をつく男だけが見ることができるものだ。あの傲慢さも受け止めて手を伸ばすことができる男が彼女の素顔に触れることができるのだろう。
 あるいは、あの桜色の爪先は本当に欲する獲物を狩るために張り巡らした彼女の罠か。相手に策略を気付かれる事なく欲しい男を手にいれる事くらい、彼女ならば朝飯前だろう。
 どちらにしろ、あの爪の先に宿る魔法は、不特定多数ではなく、特定のだれかのための大切な魔法に違いない。
 そんな事を口に出したら、彼女はまたあの辛辣な調子で、笑みを浮かべるのだろう。
君の頭の中は少女漫画で出来上がっているのかしら、なんて言いながら。

魔女の指先 -コスメ・ボックス*-

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