さようならをしたいの

え?


 聞き返すことに意味はない。

 聞き間違いだったのではないかという希望がないわけではないが、確立はとても低い。

 騒がしい街中でのセリフでなら、確立は数パーセントアップするだろうが、ここは機械音しかしない、とても静かな実験室なのだ。


 声は、嫌と言うほどクリアに聞こえてくる。

もう、あなたとは恋人同士でいられない、という意味よ

 彼女は丁寧に言った。まるで機械の説明だ。

 これじゃぁいけない。もう少し感情的になってほしい。

 聞こえなかったの? じゃぁもう一度言うわ……さようならを、したいのよ。

 とかが理想なんだけどなぁ、と僕は考える。

どうして?

 僕は尋ねた。どう切り返してくるかな? 

 内心わくわくしながら、ポーカーフェイスで相手を見つめる。こんなところで笑ってしまったら、彼女はきっと怒るだろう。


 彼女はうーんと首をかしげた。

どうしてかしら……きっと、あなたといると、楽しくないからね

 心の中で、僕は笑った。喜びの微笑み。

 理由を考えてから、結論に達するまで一秒もかかっていない。なかなか有能だ。

 さっきの機械のような説明も、許してあげようかな、と思うぐらい、大満足だ。


 しかし、僕を愛してくれないのなら、意味はない。
 意味はないんだ。



 僕はもう少し抵抗してみる。

なぜだい? 君が好きなものは何でも用意してあげたじゃないか

そうね、そう思うわ

 彼女は即答する。
 なるほど、そこは納得するらしい。

毎日おいしい食事を用意してあげた。

一緒にいろんなところへ遊びに行った。

僕は働きもせず、君とずっと、本当に四六時中一緒にいたんだ

 僕は早口で、彼女にすがるように言った。

 まぁ、ずっと一緒にいたのは、彼女と一緒にいたかったからとか、彼女の笑顔が見たかったからとか、そういう理由があったからではないのだけれど。

 やっぱり、そうやって尽くしてあげられるほど、魅力的で素敵な女性になってもらわないと、恋人にはなれないのかなぁ。


 心の中でひとつため息をつき、気持ちを切り替える。

 今はあくまで、実験中だ。

ああ……

 僕はうなだれた。うーん、我ながら演技派だなぁ、と場違いなことを考えながら、表情を寂しげにし、頭をそっと上げる。

 そして彼女を見つめる。彼女は黙って、こちらの反応を待っている。

 それは、ただ単純に僕の言葉を待っているだけなのだろうか。
 それとも、彼女も何かを思考中なのだろうか。

 後者であってほしい。あとで思考データを読み取ってみよう。
 時間は……体内時計を調べる。夜中の一時二十三分二十一秒。ちょっとした数字の羅列の奇跡に、僕の心は躍った。


 しかし、今は演技に集中だ。
 僕はすがるように言った。

ずっと一緒にいたのに……なのに、どうして?

 彼女はうーんとうなる。『思考中』だ。視線をそらし、右上を向く。


 もう少し思考中のパターンも増やしたい。ムードが台無しだ。

 彼女の思考がまとまると、彼女は僕と目を合わせた。
 少し時間がかかった。二秒ちょい。

きっと、貴方と四六時中いたから、あなたの悪いところも見えてしまったせいね

 彼女は無表情で言った。こんなとき、少し笑って見せたら素敵なのに。


 理由は単純なようで難しかった。なるほど。ずっと一緒にいるから、という理由か。


 この前の『彼女』は、ずっと一緒にいてくれればよかったという言葉を残して消えてしまったから、今度は一緒にいてあげたというのに。



 僕は、僕の親が、人の心は複雑すぎるんだよ、とぼやいていたことを思い出した。


 そんな『人』からしてみれば、彼女の思考なんてずっとずっと単純で簡単なものなのだろうか。



 
 僕には難しいけどなぁ。
 ためいきをつきたくなったが、我慢した。

 わからないことはひとまず置いておいて、少し質問をしてみよう。

僕の悪いところは、どこだい?

まず、私を拘束して、束縛すること

 何てことだ。

そんな言い方ないじゃないか

 僕は思わず大きな声を出してしまった。彼女が少しだけびくっとする。

 しまったしまった。冷静に、冷静に。

君が生きつづけるために、あれは必要なことだろう?

 僕は諭すように言った。

分かってるわ。でも、あの時間が、私にはたまらないの

 僕は贅沢もの、と、心の中で舌打ちした。

たった三十分だろう? どうして我慢できないんだ?

だって、頭の中がぐわんぐわんして、電気もばちばち言って、怖くて仕方がないの

 少し抽象的すぎるなぁ。少しだけ彼女が可愛く見えた。


 ぐわんぐわんでばちばちって。

あぁ、気持ちは分かるよ、本当に。でも、三十分なんて、短いものじゃないか

 僕は彼女をなだめるように言った。しかし彼女は、納得してはくれなかった。

いやなものはいやなのよ

でも、あれをしないと、君は止まってしまうんだよ

分かってるわ。でも、嫌いなの。

私に尽くすといっておきながら、私の嫌なことをする貴方が、いや

あー……

 なるほどね、そういうことか。謎が解けた。記憶しておこう。

それだけ?

他もたくさんあるわ。私のことを君、って呼ぶところとか、隠し事ばっかりするところとか

君って呼ぶの、嫌なの?

嫌よ、名前で呼んでほしいわ

名前って……

 僕は困惑した。名前って、なんて呼べばいいんだ? 

七号?

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