どういう訳かいつも、良くない事は重なる事が多い。


あー、もう最っ悪っ!!



 きっと、その日は朝から疲れていた。確かに夜は眠れなかったし、会社のデスクに到着してからの遅い朝食も喉を通らなかったように思う。

 それでも、通常と同じだけの仕事はこなしてきたはずだし、通常と同じだけのコンディションでは居たはずだった。

 ……そんなに、大きなミスだったとは思えない。

何がいけなかったんだろうなあ……


 どうしても、溜息がこぼれてしまう。

 今月末まで。……それで、会社を辞めなければならなくなってしまった。業績が悪い事も聞いていたから、多分首が回らなくなっているのだ。

 ……会社の事情と私のプライベートは、関係ないけれど。関係ないからこそ、こういう事もあるのだろうか。

 携帯のディスプレイを点けると、怒りに拍車を掛けるかのようなメールが表示されている。

ごめん!!

結婚資金増やそうと思ってパチンコ行ったら、今月の稼ぎが飛んじゃった σ(^_^;)


 同棲して三年になる、恋人からのメールだった。

『飛んじゃった σ(^_^;)』なんて書いている暇があったら、とっとと稼いで来いという話である。

 いや、それ以前に大して上手い訳でもないパチンコで勝てると思っているのがおかしいんだ。行きたかっただけでしょ、絶対。一攫千金なんて諦めて、とっとと地道に働きなさいってこと。

 結婚する気があるのかないのか。……いや、あったらこんな風にはなっていないかもしれないから、やっぱりなっていないんだろうな。

 遊び歩く事が何より大事。将来の事なんて、どれだけ考えているのか。

 …………人の気も知らないで。

バーカ!! もう帰って来ないから!! 私が居なくなってから、後悔すればいいのよ!!


 擦れ違ったサラリーマンが、すごい顔をして私の事を見ていった。

 見てんじゃねえよ。見世物じゃないぞと思いつつ、私は海沿いの道の、堤防の上に備え付けられた柵に寄り掛かり、夜の海を見詰めた。

 コンビニで買ったビールを一口。この仕事に就いてからというもの、何かあるとビールを買って帰り道に飲んでしまうのは、私の悪い癖だ。

…………


 どうにも世の中、うまくはいかないものだ。

 分かっているのさ。二十五にもなって、大声を出したくらいで悩みが解決するのなら、街中ゴリラの雄叫びで満ちているはずだって。

 ああ、本当に、もう。私は一体、何をやっているんだろう。

 情けなくて、涙が出る。

…………身投げしちゃおうかな


 そんな事を口に出している時点で、そんな勇気はない。

 どうせ。結局。やっぱりダメ。否定的な言葉ばかりが、いつも私の頭の中にある。それは焼き付いた烙印みたいに私の行動を縛っていて、私は決してこれを取り払う事ができない。

 それが悪い出来事を引き寄せているような気もする。でも結局の所、嫌な妄想はいつも、簡単には止められないものだ。



 ……はあ。

おーい!!

…………?


 おや。

 海の下から、子供が手を振っている。

 子供かあ……大声で手を振ったりして、無邪気だなあ。あのくらいの年齢だと、まだこの世のしがらみを知らない、くたびれた社会なんかは見た事もない、美しい世界に囲まれているだろうに。

 会社を辞めさせられて、海の堤防でビール飲んでるような、くたびれた大人にはならないで欲しいと思う。切に。

おーい!!


 ん?

 よく考えてみれば、先程擦れ違ったサラリーマン以降、この場所に歩いている人は一人も居ない。時折車は通り過ぎるけれど……それだけだ。

 …………呼ばれているの、もしかして私?

聞こえてんだろー!!


 私だ。なんで……!? いや、それよりも前に気にしなきゃいけない事が……今、何時だったっけ……?

 再度、スマートフォンの画面を確認した……二十二時、だ。間違いない。それなのに、海に子供がいる。

……!!


 なんで……!? 親はいないの……!?

 考えながら、階段を降りて砂浜へと向かった。

 こんな時間に夜の海なんて、何を考えているんだろう。……一応、大人として注意しなきゃいけないか。

 近寄ると、その人影は男の子のように見えた。

 男の子……だよね。暗い夜の海では、起伏の少ない子供の身体は判別が難しい……見たところ、中学生くらいだと思う。いや、小学校高学年くらいだろうか?

 家を抜け出して来たとか? ……家出? それとも、夜に遊んでいるだけ? ……でも、もう二十二時だし。親が放っておいているのも、なんか変な気がする。

 あれ? もしかしてこれは、警察にでも相談をした方が良いんだろうか。

 まいったなあ。あんまり、こういう事は経験がない。電車の中でお年寄りに席を譲るのも躊躇する私なのに。

 近くに寄る。……男の子だ、間違いない。私の顔を見ると、丸い瞳が月明かりに反射した。

 走り回っていたのか何なのか、とにかく汗がすごい。

何してんの? こんな所で


 それは私の台詞だ。

……えっと、まあ仕事帰りなんだけど。それより、夜の海は危ないよ? 上にあがろう?

お前さ、名前、なんてーの?

…………


 …………ぐっ。

 どうしよう。意外と、人の話を聞かない子のようだ。見た目、大人しそうなのに……思わず、笑顔が引き攣ってしまう。私は大人に見えないんだろうか。……いや、見えるだろう。ならば、この子がどこか、ずれているのだ。

お前って……。私は清香(きよか)。ねえ、私これでも二十五よ?

十年も二十年も、大して変わんねーよ


 いや、変わるだろ。

 まだ十代もなりたてといった風貌の少年に、十年二十年の時間の重みを語られたくないわよ。

 いや。ここは大人の威厳を見せる時だ。めげるな、私。

……それで、下は危険だから、早く上にあがろう?

清香は心配性なの?

…………


 ……ふふふ。やっぱり私、子供はあんまり得意じゃないみたい。っていうか、いきなり呼び捨てかよ。子供ってそんなもの? ……そんなものか?

心配性なんじゃなくて、危ないの。波にさらわれても、誰も助けに来てくれないでしょ

ふーん。うちの母さんも、心配性なんだよなー


 人の話を聞けよ。

 近頃のガキは、こんなにも態度が悪くなったんだろうか。もう無視して帰りたい、と思ってしまった。……いいよね。誰も見てないし、彼がどうなろうと彼の責任だし、親が見に来ないのも悪いし、私関係ないし。

 何より、私が言ったところで素直に帰るとも思えない。聞いてないし。

……君は、何をやっていたの?


 と内心では思いつつ、結局目の前の男の子のことを、見捨てきれない私なのだった。

 考え直すのよ、私。誰も見ていないからといって、後ろ指をさされるような事をしてはだめ。

 ……こういうガマンが、巡り巡って私に悪い影響を与えている気もするけれど。

 男の子は透き通るような笑顔で、言った。

ああ。星、数えてたんだ

…………


 不毛――――――――!?

 何それ……そういう趣味なの? もしかして、学校では友達が作れなくて、教室の壁のシミとか数えちゃうような子なの?

 夜の海で、一人で、星を数えている少年に出会った。これが小説なら、素敵な旅とか始まってしまいそうだ。

どうして、こんなとこで……

ああ、よく見えるだろ? 病院の周りは電気ばっかで、まともに見える場所ないんだよ


 それは、そうかもしれないけれど。だからって、何もこんな所に来なくても。

 でも、男の子の目はとてもきらきらしていた。それが、とても楽しいかのように……まあ、楽しいんだろうなあ。小学生の時って段差から飛び降りるだけで喜んでたりするし。そんなものだろうか。

 ……いや、幼いとは言え、さすがにそんな歳では無いか。

ほ、星……数えてると、何か良いことがあるの?


 悩んだ末の返答がこれでは、私に子供の相手が出来ないはずだ。……子供できたらどうしよ。

……楽しいよ。清香もやる?


 いやあ。私は、いいかなあ。そんな言葉を言外に含めつつ、苦笑で返す私。

 男の子は何の躊躇もなく砂浜に座って、先程までもそうしていたのか、星空に視線を向けた。

星は動くから、ちゃんと見てないと数えられないんだよなあ


 …………動く。

いつから、ここで数えてるの?

 そんなにも長い時間、こんな所にいたのだろうか。

え? わかんねー……一番星見えてからいるけど

え、その間ずっと、星を数えていたの?

うん


 何の、理由があって。

 友達が居ない、とかだろうか。それで、こんな時間まで外に……? 昼から外に居たのだとしたら、もう随分な時間になる。

 何か、悩みを持っている子なのかもしれない。

 ……私のように。

ねえ、少しだけ、お姉さんとお話しよっか


 そう思い、男の子の隣に屈み込む。そうすると彼はものすごく嫌そうな顔をして、私を見た。

歳上ぶってんじゃねえよ。
そういうの、あんまり好きじゃない


 いや、歳上だってば。

 物悲しい気持ちは反転して、怒りさえ覚えたけれど。……仏の心を持つんだ、私。この子は友達がいないから、人との接し方も分からないだけなのよ。

 能面のように笑顔を貼り付けた私。男の子は未だ、不機嫌なままでいる。

大人ってみんなそうだよ。
人の生き方なんて違うんだから、自分と同じモノサシで計るんじゃねえよ




 …………あれ。


 その言葉は、だいぶ的を得ている気がした。


 確かに、人ってそうだよね。社会に出ると特にそうだけど、プライベートの事情なんて人それぞれなのに、皆同じ枠の中で生きないといけない。

 ついさっき、そんな事で不条理さを感じていたような。

 同じことか、これも。

そうだね。ごめんね。私が間違ってた

……別に、分かればいーんだけどさ


 良くないな。結局私も、自分都合ばかり気にして、人の事が見えていない人間の一人なのか。

 それを考えると、確かにこの子の方が、私よりも余程『他人』のことを知っているのかもしれない。

それで、全部の星を数えるの?

できれば全部を数えたいけど、難しいだろうなあ。全部は拾ってやれないかもしれない

…………拾う?


 先程まで怒っていた男の子は、夜空を見上げると、静かな顔をして夜空を指差した。

 思わず、釣られて空を見上げてしまった。

声を、拾ってるんだ


 急に、私の視界が広くなったような気がした。



 声を、拾う。何のことを言っているのか分からない私は、思わず目を丸くして、空を見上げてしまったけれど。いくつもの星々は空を駆け巡り、決して暗闇と混ざり合うことはなく、そこに光っていた。

 ……知らなかった。街灯のない場所に立つと、星ってこんなに明るいんだ。

こんな話があるじゃん。
……生き物はさ、死んじゃうと星になるんだよ


 よく、親が子供に言い聞かせる話だ。

空に光っている星はさ、全部元は生き物だったわけ。長い時間を掛けて空に昇って、それからゆっくり、次はどこでどうやって生きようかって、考えるんだ


 でも、そこから続くストーリーを、私は初めて聞いた。

へえ……そのあとは?

最初は、身体を与えられるんだよ。魂が入って来るのは、もっと後なんだ。
俺たちは示された通りに、遠い遠い、宇宙のもっと先から、この場所に向かって落ちてくるんだ

落ちてくるの?

そうだよ。お腹の中にいるときに落ちてくる事もあるし、生まれた後で落ちて来ることもあるけど、とにかく落ちて来るんだ。
……空から、落ちてくるんだ


 男の子は、どこか遠くを見て話す。

 それは、彼のよく知る誰か……そう、例えば両親……とか、そんな人から聞いた話だったんだろうか。それとも、何度も読み返した小説や絵本に出てくる内容だったのだろうか。

 まるで、童話のような話。でも、この子は物語として話している訳じゃない。

 どこか、その話を本当に、信じているように見えた。

やることを全部やり切ったら、また星になる。そうやって、繰り返していくんだよ。
ずっと、それは変わらないんだ

…………へえ。じゃあ、私たちがここに生きているのは、偶然じゃないんだ


 それはとても、夢のある話だと思う。

全部、自分で決めたことだよ。
……少なくとも俺は、そう思ってる


 その言葉は、今の私にはとても重い。身体の奥深くまで、突き刺さった。



 そうだ。



 自分で決めたんだ。私がどのように生きて、これから何をして行こうとしているのか。彼と結婚しようと決めたことも、この会社で働こうと思ったのも、すべて…………私で。

 恋人や上司や、他の要素なんて関係ない。

 そんな事も分からずに、男の子に対して大きな顔をしていた自分のことが、少しだけ恥ずかしくなってしまった。

 もしかしたら彼は、彼の言うように本当に、私よりも『大人』なのかもしれない。

清香?

……ううん、なんでもないよ


 なんて。子供と大人の違いなんて、よく考えてみれば立場の違いでしかない。

 経験に縛られることが、必ずしも偉いとは限らない。

 一生懸命に生きているのは、大人も子供も、変わらないんだ。

 少し、考え直す事になった。

だから、ここで声を聞いていたの?

うん、俺はそろそろ、また『あっち側』に行きそうだから


 ふと、その言葉に違和感を覚えた。

 私は努めて冷静なままで、彼の話を聞いていた。

あっち側?

向こうからはさ、こっちの生き物がどれだけ居るのかってことは分かるんだけど、自分と同じ……星のことは分からないんだよ。

だから、どんな事を考えているのか、今のうちに聞いておこうと思って


 彼の、今までの話を統合して考えた。ひとは死ぬと星になって、それからまた、ひとの所に『落ちてくる』。永遠にそれを、繰り返すんだと言っていた。

 …………奇妙さと、不快さを覚えた。

 私は、思わず。男の子の手を、握り締めてしまった。夜の海は夏場でも少し涼しいくらいなのに、やたらと汗ばんだ、彼の手は。

 心なしか、ほんの少しだけ冷たい。

 いや。落ち着け、私。子供の言う事だ。頭の中では、そんな事を考えていたけれど。

そろそろって。まだ、そんな時じゃないでしょ。これから学校を卒業して、仕事に行くようになって、恋人ができて、結婚して、それから――……

あ、俺、学校行ってないから


 そう言われて、頼りないながらも動いていたのに。

 ……ついに、私の時間は止まってしまった。

…………どうして?

どうしても何も。俺、行ってもしょうがないからさ。
勉強って、この世界の事を覚えることじゃん。星になったらこっち側で生活してた記憶なんて無くなっちゃうんだからさ


 嘘を言っているようには、見えない。

 男の子は砂浜から立ち上がり、海と、夜の闇に溶け込んだ水平線を眺めた。少し思い詰めたような瞳の奥に、私は事の重大さを、初めて、その肌で感じていた。



 まさか、初めから、そのつもりで。



 私は、これまでその子が口に出して来なかった言葉を、口にして良いものかどうなのか、悩んでいた。男の子は決して、自分が『そう』だとは、認めていないように思えたから。

 人は、弱い。どれだけ真剣に取り組んでも、悩んでも、結局どうしようもない事なんていうのは、ざらにあることだ。

いつごろ、ここを離れるの?


 即ち。

今週かなあ。もう少しだけ、早いのかもしれない


 それは彼が、病気なのだと。

どうも、俺に今回予定されていた時間っていうのは、思ったよりも短いみたいなんだ。
詳しい事は分からないけど……そうなんだろうって、母さんが言ってた


 汗ばんだ彼の手が、どれほどに彼の体調不良を訴えているのか。

 つまり、こういうことか。病院なのかどうなのかは分からないけれど、病気の子供がいた。その両親は自分達の子供が若くして死んでしまうことが意味のない事だと思いたくなくて、子供に物語を聞かせる。

 それは、死後の世界について。

 男の子は、心の底からそれを信じているようだった。

ちょっと、寂しいけどな。まあ、来世に期待するよ


 ……ううん、多分きっと、信じているだけじゃない。

 何か確信のようなものが、彼にはあるのだと分かった。

 確信なのか。……それともそれは、『希望』ゆえに、そう思うことしか出来ないのか。

 男の子がふと、私の表情の変化に気付いたのか、私に近寄って来る。私自身が理由を理解していないうちに、私の目元を人差し指で拭った。

清香? ……なんで、泣いてるの?


 訳も分からず、自分の目元を同じように、指で拭った。泣いている事に気付いて、慌ててハンカチで目を拭う。

 やだ。メイクが落ちちゃう。咄嗟にそんな事を考えた自分にまた、羞恥心を覚えた。

ごめん。……俺何か、変なこと、言った?

……ううん。……なんでもない。……なんでもないよ


 その時の自分がどうして男の子の言葉に涙したのか、私自身、よく分かっていなかった。それでも、彼が思う以上に彼の人生に重く伸し掛かった運命を、私は可哀想だと思ったのかもしれない。

 可哀想だなんて。男の子は、さっきからちっとも、辛そうな気配を見せないのに。

 そんなものは、私のエゴでしかない。

 …………でも。

ねえ、清香はさ、恋人とかいるの?

…………一応、いるよ

そっかあ。じゃあ来世でもしまた会えたら、次は恋人になれるかなあ


 死後の世界。……本当に、あるんだろうか。今までそんなものを信じた事は無かったけれど。

 目の前の事でいっぱいになってしまっていた私には、気付く事が出来なかった。目の前の私事や雑念が全て取り払われてしまった男の子は酷く純粋で、ある意味で天使のようにも見えた。

 いや、天使なのだろう。何故なら、彼の居場所はもう、ここには無いと本人が思っているのだから。

なんとなく……運命っぽいじゃん。
つい、声掛けちゃったんだよな


 男の子の言葉に、私はどう返答していいものか、迷っていた。確証なんて無くてもいいから、いいよ、と答えるべきなのだろうか。それとも、私は私なりの常識で、死後の世界の事なんて約束できない、と答えるべきなんだろうか。


 ……わからない。

気にすんなよ。
そんなに真面目に考えなくていいから


 結局の所、答えが出せずに、男の子は笑って、それで終わりになってしまった。

 私は、いつもそうだ。立ち止まって迷ってしまうと、途端に判断ができなくなる。一つ一つの事がうまく行かなくなる度に迷って、戸惑って、結局の所、何か簡単な結論に流されてしまう。

 そんな事が続いているのが、本当に嫌だと思っているはずなのに。……何故か、いつも一歩を踏み出せないのは。

なんか、すごいね。……私だったら、環境が変わるなんてこと、耐えられないなあ

……平気ではないよ。
だから、こうしてる


 耐えられないからこそ、仕事から見捨てられたことに戸惑っていた。

ねえ、恋人ってさ、手を繋ぐもんなの?

え? ……まあ、繋ぐ人もいるし、繋がない人も中にはいるわね

じゃあ、繋いでみてもいい?


 言っている間に、手を繋がれてしまった。

 今の私が不安定でいることに、気付いたのだろうか。男の子はしっかりと私の瞳を見詰めて、笑顔になった。

 汗だらけで、よく見てみれば肩で息をしている、精一杯の『前向き』。それは酷く不格好で、ふとすると風に飛ばされてしまうように不安定なものに見えたかもしれないけれど。

俺達はさ、まだ『途中』なんだよ


 きっと、男の子の中では、それは嵐の中の突風にも耐えられる程に強靭な、『覚悟』というものだったんだと思う。

人生って、良いことと嫌なことが半分ずつだって言うじゃん。
きっと俺達は、来世まで含めて『人生』なの。だから、多分来世ではちょっと、良い事あるかもしれない

…………ちょっと、なの? 今、そんなに辛いのに?

良い事あったからさ


 彼の屈託の無い笑みは、暗闇の海でも光り輝いて見えた。

清香に会えたじゃん


 その時、声が聞こえた。それは夜の海でも分かるほどに大きく、そして今の今までその声が私達の所に近付いていたことに、私は初めて気付いた。

 男の子は不意に気付いた様子で、反射するように首を動かすと、堤防の向こう側にある道路を砂浜から見詰めていた。

そろそろ、行かないと駄目みたいだ


 やっぱり、何処からか抜け出して来たんだろうか。

 私がこの場所に来てからも、着実に悪くなっているのか、男の子の息は徐々に荒くなっていた。その現実に、私はどこか散漫な気持ちで居る事で、気付かない素振りをしていたのかもしれない。

 だって、それほどに異常な、この状況では。

俺さ、ちゃんと最後までこの世界で、頑張るから!! 今世では殆ど会えなかったけど、今日、清香に会えて、嬉しかったから


 私は、困っていた。過去から今までの私の経験に、この状況に対してどのような返答をしたら良いのか、解答はない。今の私には判断が付かなかった。

来世でも、また会える?


 やめてよ。

 そんな、寂しそうな目で、『来世』なんて言わないで。もしかしたら、今抱えている何かだって治るかもしれないし、元気になるかもしれないから、また。

 元気になった時にまた会おうって、言ってよ。

 無責任な言葉は、男の子の詳細な病状を理解していない私には、当然掛けられるはずもなくて。

あ、やべっ


 そして、唐突に。

 ――――何の躊躇もなく、その手は離された。

 汗ばんだ、とても気持ちが良いとは言えない手で、少しだけ冷たくて、でも確かな輝きと、暖かさを持っていたその手を、私は。

ねえ、ちょっと……

 離した瞬間に、途方もない消失感を覚えて。

『また』ね!! 清香!!


 とうに、その男の子が堤防の階段を上がって居なくなるまで、呆然とただ、その場に立っていた。


 ○


 朝。

 私はまだ、砂浜にいた。

 男の子の言った言葉が、私には深く響いていた。どうせ仕事もなくなったし、家に居る彼氏とも話す気分になれなかった私は、朝まで夜の海でビールを飲む、駄目な大人になっていた。

 当然のように、男の子は戻って来なかった。

 名前も自宅も、病院の場所も知らない。追い掛ける事は出来ず、きっと彼の人生に、今後関わる事は無いだろうと思えた。

 …………私達は、死んだら星になる。星になったらまた人としてこの世に生まれて、ずっとそれが繰り返されていく。

 本当だろうか。

 着信があった。

 恋人からのものだった。

……もしもし?


 いや、実の所それが本当かどうかなんて、今の私にとってはどうでもいいことだろう。

 私は、救いが欲しかったんだ。

 悩んで、挫けて、失敗して、もう自分の人生には価値なんて無いんだと思って、それでも、誰かに『生きていていいよ』って言って欲しかったんだ。

清香っ…………!!
今、どこにいるんだ!?


 きっと、それだけが真実なのだろう。

 だから、救われたような気がしてしまった。

 無垢な顔で、自分の災厄の全てを純粋に受け止める、男の子の存在に。

 いつになく焦った様子の恋人は、私の所に来ると大層慌てた様子で、私を抱き締めた。

ご、ごめんっ!! まさか、帰って来ないなんて思わなくて……
俺、ちゃんと働くから!! 本当に悪かった!! 心を入れ替えたから、帰って来てくれよ!!


 なんだこいつ、必死だな。

 思わず、笑みが溢れてしまった。

……帰るから。ちゃんと帰るから、死んだりしないから

えっ…………!? いや、マジでやめてくれよそういうの!! 清香が居なかったら俺、生きていけないよ!!


 夜通し寒い海に居る事で、幾らか私の頭も冷えていた。

 男の子との接点はない。これから私がどう頑張ったところで、近くの病院を当たったって、仮に知っていたとしても教えてはくれないだろう。

 本人かどうかの区別も付かない。


 私と彼を繋ぎ止めていたのは、たった二本の手だけしかなかった。


 きっと、それだけが私と彼の人生を繋ぎ止めていた、一本の細い糸のようなものだった。


 そして、私達は帰る。ほんの少しの、ふとすると忘れてしまいそうな程に不確かな時間を過ごして。



 それぞれの、居場所へ。

実は、仕事クビになっちゃって。へこんでたの


 私達は、誰もが人生の『途中』なんだろうか。

 全てが終わった時、思い出に変わった時に、辛かった出来事は、幸せなものに変わっているのだろうか。

 いや、そうであって欲しい。

 彼を見て、そう思った。

……でも、もう帰るから

……俺がちゃんとしてないから、苦労掛けてたよな。……ごめん


 ならば、どんなに辛くても、笑い飛ばして頑張ってみても、良いんじゃないだろうか。

 苦労しても、報われなくても、些細な日常の中に転がっていた小さな笑いでさえ、生きる理由になるのかもしれない、なんて。

バーカ。気付くの遅いって


 それが今日だけじゃなくて、百年先も千年先も、ずっと続いて行く未来なら。

 誰もがきっと、幸せになれるだろう。

 きっと、いつか。

いま、星を数えている途中

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