白い狐




 大人へと成長したあなたは、
 覚えていないかもしれません……

 私のことを、楽しかった二人だけの記憶を。

 輝かしい「思い出」を胸にしまい込んで、
 あなたの姿をそっと遠くから見守るだけで、
 私は幸せでした。




………

おや、若旦那。
神社に居るなんてめずらしい、
どうしたんでい?

神様に参拝ですかい?

ああ、餅屋の佐藤さんか。
いや何、少し昔のことなんだが……

私が幼い頃、この神社で
キツネを見かけたことを思い出してね

キツネ、ですかい?

そう、キツネさ。
白くて毛艶が良い見事なキツネだった

あのキツネは今頃、
どうしているんだろうか、と
何故か気になってね……

仕事の合間に、
ここをふらりと寄ってみただけさ

……そうですかい、
あっしは用があるんで先に帰りますね

ああ


 彼は一言だけ返事をすると、神社から去る餅屋の佐藤の後ろ背を見送った。

 その後、彼は一人で神社の境内をゆっくりと散策する。絵馬を奉納する絵馬掛所、おみくじを結ぶ木、何もかもが懐かしい。ゆっくりと神社内を散策するのは久しぶりだ。

 普段は忙しくて神社に参拝に来ても、拝んで直ぐに帰る始末。ここは彼にとって大切な、思い出の場所でもあるというのに。


あれ以来、姿を見かけたことがない。
あのキツネは一体、
どうしているんだろうか……


 彼は空を仰ぎ、息を吐いた。

 今になって、どうしてあの「キツネ」が気になったのかは分からない。

 しかし、これだけは言える。

「あのキツネが居たおかげで、今の私が居るんだ」と。






………


 十の頃、幼かった私は友だちが一人も居なかった。

 近所には歳違いの子供たちがたくさん居たのだが……私はどうにも馴染めずに、一人で過ごすことが多かった。

 唯一の居場所はこの「神社」だ。
 子供が遊びに来ることはない、居るのは神主と巫女と、参拝しにやってくる人たちぐらいだ。

 どうやらあの頃の私は「人が多い」場所が苦手だったようで、自然と人が少ないこの神社を居場所にしていたのだろう。

 私がここに来ることがなければ、あのキツネと会うことは出来なかった。

 ここが、私とあのキツネを結びつけた場所になる。


あーあ、
明日が来なければ良いのに……


 勉強道具一式を家から持ち出し、この神社で一人、勉強するのが日課だった。

 勤勉だったわけではない。ただ単に時間をつぶしたかっただけだ。

 しかし「勉強」というものは面白いもので、勉強した数だけ身がつき、今では私の糧となり仕事に生かされている。勉強に励んでいたおかげだと言っても過言ではない。

ん?なんだ、あれは?

 ある日のことだ。
 神社の階段の下に、私はうごめくものを見かけた。

 薄暗がりでよくは見えないが、動物であろうか。

 幼い私は「人間」よりも「動物」が大好きだったので、その「うごめくもの」が気になった。

ん……いてっ

 私は階段下を潜るために身をかがむ。砂利で膝を痛ませた。すると

ぐ、ぐるる……

 その動物は私を警戒するように、威嚇した。どうやら「うごめくもの」の正体はキツネのようだ。

 後ろ足が血で滲んでいる。ケガをしているんだと見て分かった。

大丈夫、
僕は危害を加えるつもりはないよ?

 そうキツネに手を差し伸べるが、警戒しているのか一向に動く気配がない。不思議なことに、このキツネは私の手を噛もうともしなかった。

どうしたら、このキツネは
警戒を解いてくれるだろうか?

……そうだ

 自身のカバンの中に、弁当として持ってきた稲荷寿司があったことを思い出す。

 私は静かに階段したから出ると、すぐさま神社に置いてきたカバンの中から弁当を持ち出し、キツネが居る階段下へ戻った。

警戒しないで、
ほら、お稲荷さんだよ。
お食べなさいな?

 私は弁当から稲荷寿司を一個手に取ると、キツネに向かって手を伸ばした。

ぐ、ぐるる……

るるる……

………

……くんくん

ほら、美味しそうな匂いがするだろう?

……パクッ

 恐る恐るだが、キツネは稲荷寿司を一口、食べてくれた。

もぐもぐ……

どうだい、美味しいかい?
僕の母さんが作ってくれたんだ

 稲荷寿司が気に入ったのか、キツネは警戒を解き私の手にある稲荷寿司を食べてくれた。

きゅぅん

 丸々一個、ぺろり平らげたキツネは、嬉しそうにひと鳴きする。

ああ、良かった。
食べる元気はあるし、
ケガは大事に至っていないようだね

 しかしケガをしている、キツネの後ろ足がどうも気になる。今なら、大人しくキツネは治療させてくれるかもしれない。

 そう思った私は弁当箱からもう一個、稲荷寿司を取り出すと、私の傍へ行けるようにキツネに差し出した。

 ゆっくりと、ふらふらとした足取りでキツネは稲荷寿司めがけて歩いた。

 やっとの思いでキツネが階段下から出れる距離まで、稲荷寿司で誘導させた私は、ご褒美にその稲荷寿司を食べさせた後、そっとキツネを抱いた。

お前、よく見たら白いんだな

 白いキツネは私に抱かれても抵抗はしなかった。稲荷寿司を二個ほど平らげたためか、満足そうな顔で大人しく私に抱かれていた。

よしよし、
そのまま大人しくしておくれよ……

 私はキツネを抱きかかえ、カバンがある所まで持ち歩いた。

 カバンには、ちょっとしたケガでもすぐに治せるように、清潔な布きれと母親が薬草で調合した塗り薬がある。

 私はキツネを抱いたまま、カバンから布きれと塗り薬を取り出すと、ケガをしているキツネの後ろ足に薬を塗り、布きれを巻いてやった。

これでよし

もう大丈夫だよ、
数日したらケガも良くなるからね

きゅぅん♪

ははっ、さっきまで警戒していたのに。
……よしよし

 

 キツネが逃げないのは、私が危害を加えない人間だと悟ったのか、それとも私を気に入ったのか、稲荷寿司をもっとくれるのかと期待しているのか、人間の私には分からない。

 だけどこのきっかけが、キツネとの出会いが。

 私の人生を良い方向へ変えていく大きな出会いだったと、今の私にはそう思えて仕方がなかった。

【白い狐End】

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