彼はどんどん私との距離を縮めた。心臓が高鳴る。


 ふと話しかけたいという思いがこみ上げる。どうしようもなくこみ上げてくる。



 人込みのざわめきが、いつからか私の耳に入らなくなっていた。

 まるでこの世界には二人しかいないのではないだろうか、という錯覚に陥るほど、その景色は静かで、緊張したものだった。



 彼は否応なしに、私へと近づいてくる。私は決心していた。なんとかいちファンとして彼に話しかけたいと思っていた。


 どんどん近づいてくる。私も前進した。驚くほど勇気が湧き上がってきた。彼に、彼に話しかけたい! 


 何を言おうかなんて決める時間はなかった。とりあえず、応援しているという気持ちを伝えたい。それから……それから。


 時間はなかった。彼は私の数歩先にいた。
 チャンスは今しかなかった。
 夢だと思った。

すみません

 私は彼に声をかけた。思ったより小さな声が出た。彼の動きが一瞬止まる。目が合う。倒れそうだ。

あ……の、市ヶ谷選手ですか

 私の質問に、彼はうなずいた。少しだけ口元が微笑んでいた。泣きそうになった。

あ、の。ずっとファンでした。あと……

 急に私たち二人は、忙しい人込みの流れの中にいることに気がついた。もう彼も行ってしまうだろう。何か伝えたいことが……。



 そうだ、伝えたいことがあったはずだ。素直になれないけど、祝福の言葉を、本当は送りたかったはずだ。

ご結婚、おめでとうございます

 彼はまた、少し笑うと

ありがとう

 と言った。ヒーローインタビューの声と、変わりはなかった。低い、やさしい声だった。



 どうしようもなく、嬉しそうな笑顔だった。私は胸が苦しくなった。苦しくて苦しくて仕方がなかった。

これからも、応援しています。がんばってください

 私は早口で、そう言った。

はい

 と彼は答えてくれた。私は頭を下げると、もう一度彼の顔を見た。目がまた合った。終始彼は微笑していた。



 あぁなんてやさしい人なんだろう。なんて素敵な人なんだろう。


 私はこみ上げる想いを悟られないように、笑顔を返すと、彼に背を向けた。同じタイミングで、彼も私に背を向けたと思う。



 私は、一目散に駆け出した。




 まっすぐまっすぐ、自分から彼との距離をどんどん遠ざける。
 広い改札に出た。相変わらず人で溢れている。私はそんな駅でもひっそりと静かな柱の陰で、涙をぬぐった。

 ざわざわとうるさい人込みの音が、私を隠してくれている気がした。どこか駅内は暖かかった。



 彼に抱いていた思いは恋心だったかもしれない、と今さらながらに私は思った。

 だからこんなにも切ないのかもしれない。失恋した時のと、似たような悲しさが私を包んだ。


 遠い人だ。でも、そんな人に恋をすることもあると思う。

 恋心なんて、いつどこで生まれるか、わかったものじゃないんだから。私は自分にそう言った。これは泣くことへの肯定だ。


 自分を慰めた。認めたくなかったのは、結婚という事実より、私のこの恋心そのものだったのかもしれない。


 ずっとずっと、彼が結婚する前からずっと、私は彼に恋していた。でも、遠すぎる彼だから、それを認めることができなかった。

 認めてしまってはいけないような気がしていた。


 あともう少し泣こう。そして自分のこの恋心を、立派な恋だったと認めてあげよう。

失恋かぁ

 久々の響きに、少しだけ笑ってしまった。
 苦しいけど、やっと現実を見つめることができた。
 きっと私は、また素敵な恋に出会うことができる、という確信がどこかに芽生えていた。

 恋の神様が私にくれた、サプライズな出来事は、少し切ない出来事だった。










サプライズな出来事 後編

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