6.選んだ理由
6.選んだ理由
…どうしたんですか…?
彼の上擦った声が、戸惑いながらも俺へと投げかけられる。はっと我に返った俺は、おずおずと確かめるように尋ねた。
なぁ…水瀬おかしくなかったか…?
…?そうでしたか?
彼は先程の彼女を思い返しているのだろう。小首を傾げ記憶を遡っている。だが、俺が尋ねたことの真意に辿り着くことはできなかったらしい。
そっか…、ごめん、変なことを聞いて
…いいえ
風が草木を揺らし、静寂が訪れる。先程よりも幾分落ち着いた彼の様子をちらりと覗き見れば、彼の視線と交わった。
あ…、そういえばお名前を…
あれほど泣き叫んでいた己を恥じているのか、少し照れくさそうに笑った。そういえば、互いに自己紹介をする暇などなかったなと、姿勢を正した。
俺は、佐藤凛太
僕は、イヴァンといいます。
先程までお恥ずかしい姿を晒してしまって
なんとお詫びを申し上げればよいのか…
気にすることないぞ、イヴァン。
これからよろしくな!
…そうだ、イヴァンの妹はどんな子なんだ?
彼がこの世界にやってきてからというもの、ずっと探していたという“妹”はどんな子なのだろうか、と。
イヴァンは闇夜に光る街灯を見上げ、目元を和らげた。
とても、いい子なんですよ。
…本当の妹ではないんですけどね
のどかな田舎にギリシャ正教の教会があった。そこは孤児院である。周辺の広大な土地を利用し、自給自足ができるように作物を育て、家畜も飼われているところだった。
イヴァンは幼い頃からこの孤児院で育った。だが、人と関わることを得意としてなく、彼の友達といえるものは本だけであった。昼夜に関わらず、暇さえあればその年にして読まぬであろう、難しい書物を読み漁っていたのだ。
あの日のことは鮮明に、そして昨日のことのように思い出すことができる。そんな、とても天気のいい、日差しの強い日のことであった。
…とても小さい子だ
神父の傍らに、隠れるようにして周りを伺っている女の子。その子の第一印象はそれだった。
困ったように笑いながら、神父が彼女の背を押し、『今日からこの子は家族の一員だ』と紹介するも、彼女が発した言葉は一言だけ。
…ヤナ
名前と思しき単語を述べるだけだった。
とても、とても悲しい瞳をしていた。その齢に似つかわしくない、悲しい表情。そのせいか、同年代の子供達は最初こそヤナに興味津々といった態だったが、何の反応もないと知ると、彼女へ意識を向けるものは誰一人としていなくなってしまっていた。
ヤナがこの孤児院へ来てから、数日が経った頃。その日もイヴァンは樹の幹に背を預け、読書に耽っていた。
木漏れ日と頬を撫でる風がとても心地良い。ふと、何気なく本から視線を上げたイヴァンの視界に人影が写った。
…っぅわ!?
思わずでてしまった驚きの声に、予期していなかったのだろう、影の主もまた、小さな悲鳴を上げた。
ご…ごめんなさい
い、いや、僕こそ…。何か用?
…ううん
それきりヤナは口を閉じ、俯いてしまった。イヴァンは非常に困った。普段から人と極力話さないため、人とどう接すればよいのかわからないのだ。その上、少女はあまりに幼い。余計、彼の心を乱していた。
…ヤナもここにいて、いい?
子供特有の高い声。だがそれは耳に障るものではなく、心地よいものだった。
イヴァンは小さく、頷いた。すると少女は恐る恐るイヴァンの隣に腰掛けると、視線を遠くへやった。
それきりヤナは口を開くこともなく、時折イヴァンが視線をちらりと投げかけるも、少女は変わらず遠くの景色を眺めているまま。
何のために己の側にいるのだろう、彼がそう思うのも無理はないだろう。会話をするわけでもなく、ここにある本を読み合うわけでもない。ただ、側にいるだけ。
イヴァンはより一層、少女に対して苦手心を高めていくだけであった。
その日からというもの、ヤナはイヴァンの側にいたがるようになった。移動も、食事の時も、就寝時も。何かをするときには必ず、ヤナがイヴァンの後ろをついて歩いた。だがその距離は微妙なもので、数歩離れて、だ。
どうして…僕のそばにいるの?
いつものように大木の下で本を読んでいる時、堪らずヤナに尋ねた。それは側をついて歩くようになった日から、二度目の対話であった。
少女は彼の問い掛けに少々吃驚したようだったが、零れ落ちそうな大きな瞳をイヴァンへ向け、小さな口を開いた。
ヤナがそばにいちゃ…だめ?
そんなことは…ないけど…
…ごめんなさい
最後の言葉はくぐもっていた。少女は両膝を抱え、顔を隠すように膝に埋めたからだ。長い栗色の髪がさらさらと吹き抜ける風に揺れて、項が顕になった。
…っ
イヴァンは息を呑んだ。細く白い首筋に、痛々しい紫色の痣が残されていたのだ。まさかと思い、注意深くヤナの体へ視線を這わせば、この季節には不釣り合いな長袖から僅かに覗く、皮下出血したあとがあった。
…ヤナ、生まれてきちゃいけなかったのかな
…え?
お母さんがね…、ヤナは生まれてこなければ
よかったのにって、言うの
覆っていた顔をゆっくりと持ち上げ、イヴァンの瞳をじっと見つめるヤナの瞳は、今にも溢れ落ちそうなほど涙で濡れていて。
ヤナは、生まれたらいけなかったの?
再び問うたこの少女に、イヴァンは目を逸らすことができなかった。そして少女に対してその問に適する言葉を返すことさえもできなかった己を恥じた。
何冊もの本を読み、その年では難しいとされているであろう、本も数えきれないほど読んだというのに。人一倍、知識はあるというのに、この幼い少女の質問に答えることができなかったのだ。