ゆり子

もうやだ! 私、この家出ていく!

 新品のXb@x-one本体を知多半田義男(ちたはんだよしお)に向って振り上げながら、セーラー服姿の一人娘、ゆり子は言い放った。

パパン

待って、さすがにそれで攻撃されるとパパン死んじゃう

ゆり子

パパンが死ぬのと! 失業手当で買ってきたゲームが死ぬのとどっちがいいの?

パパン

待って、すごい悩むそれ

ゆり子

待たないわよっ!

 賃貸マンションの床にノーウェイトで叩き付けたXb@x本体に、さらに真上から打ち下ろされる正拳突き。清心流空手の美しい型。幼稚園の頃から欠かさず続けた修練の賜物だ。

パパン

ああっ!

ゆり子

どうでもいいじゃない、箱なんて!

ゆり子

どうせまたすぐ赤いランプ点いて動かなくなるわよ!

パパン

待って、えっ、そこなの

ゆり子

待たないわよっ!

 肩を怒らせて義男を押し退け、玄関から出て行こうとするゆり子。ただ一撃の元にXb@xをブラック漬物石へと変えてしまったその拳は、固く握られたままだ。

パパン

ど、どこへ行こうって言うんだい。ゆり子

 娘の剣幕にたじろぎながらも、義男はでっぷり太った身体の幅で、玄関への狭い道を何とかふさごうとする。

ゆり子

……ほっといてよ

ゆり子

寮もあって働きながらひとり暮らしできるところ、友達に教えてもらったの

パパン

そんな……だってお前、大学に行きたいって、あんなに勉強して……

 仕事人間だった義男を見放し、妻が出て行ったのはもう五年も前。教師になりたいと夢見るゆり子の為に、義男はさらに働いた。

 決していい暮らしをさせてやれているわけではなかったが、それでも義男の思いを汲んでくれたのだろう。高校三年生。ゆり子は道場に通う日数を減らし、勉学に励んでいた。

 残業で遅く帰ってきた義男が、リビングのテーブルで参考書を枕に眠るゆり子を起こしてやった事も、何度もあった。必ず食事も用意してくれていた。真面目で懸命な一人娘に、義男の胸から感謝の気持ちが消えることはなかった。 

 なのに。

ゆり子

もういいの! だって私

ゆり子

ネバーランドで伝説のキャバ嬢になってセレブになるって決めたんだから!

パパン

な、なんだって!

ゆり子

もう源氏名だって決めてあるんだから!

ゆり子

パパンみたいに人生に疲れた子供たちを癒やす、母性豊かな伝説のキャバ嬢

ゆり子

そう、今日から私は

ウェンディ

ウェンディよ!

パパン

ま、待ちなさい……

パパン

ぱ、ぱ、パパンそんな事……ぜ、絶対許しません!

 唐突にわけのわからない事を言われ、義男はただ慌てふためく。

ウェンディ

パパンなんて、仕事しててもリストラされても、結局ずっと引きこもってゲームばっかりじゃない!

パパン

待って、いや、それは、仕事がそういう……

ウェンディ

待たないわよっ! 家でも外でも結局ゲームばっかりで……

ウェンディ

いつまでもパパンがそんなんだから! お母さんだって出てって当然じゃない……っ!

パパン

ま、待ってゆり子

ウェンディ

待たないわよっ!

  激情のまま放たれるゆり子の拳を、義男の目が捕捉する。あ、まずい。これ本気のヤツだ。判定発生まで8フレーム。すかさず体が動く。首を反らし、半歩退く。

 義男のたるんだ頬を、娘の拳が生んだ風圧がぶおっと揺らす。アクロバティックなモーションで、かわす直撃紙一重。

 ――だが!

 わずかに空いた隙間に、ゆり子はそのまま踏み込み、肩で義男の体を思い切り押し退ける。どすんと尻餅をつく義男。

パパン

おふぅっ

 ゆり子はほんの少しだけ、痛そうに腰をさするパパンに申し訳なさそうな顔を見せてから。

 きっと唇を噛み、玄関に行儀良く並んでいたローファーを突っかけて、

ウェンディ

パパンの……

ウェンディ

パパンのバカ!

 そう言い捨てて、非常階段を駆け下りて行った。

パパン

ゆり子……

 勢いに押され、呆然とそれを見送ってしまった義男。はっと正気を取り戻し、どうすべきかを考え始めた、その時だった。

――追いかけて、あなた。

 義男の頭の奥の方から、聞き覚えのある声が届いた。

パパン

その声は……!

――ゆり子を守ってちょうだい、あなた。

 義男に懇願する声の主は、やがて光と共に彼の視覚に姿を現す。

 そう、彼にしか見えていない妖精さん。

 ティンカーベルだ。

パパン

なる美、お前……

 ティンカーベルの顔は、出て行った妻によく似ていて、義男はついそう呼んでしまった。ティンカーベルはやさしく微笑み、

ティンカーベル

――私との約束でしょう、あなた。

ティンカーベル

――ゆり子を守ってやって、お願い。

 それだけを言って、ふわりと消えていった。

パパン

……そうだね、なる美。そうだった

 義男は壁に手をついて、重い腰をよいしょと上げる。

 そうだ、思い出した。去って行く妻を引き止められず、せめて彼女の最後の願いだけは守り抜こうと、そう決めたのだった。

パパン

行かなきゃ、ネバーランドへ

 義男はゆり子が言い残していった勤め先の名を、もう一度確かめるように口にしてから、娘の後を追い玄関を飛び出した。

つづく

その娘、ウェンディ!

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