一九四四年三月、東京・御茶ノ水――。
女学生の崎田沙紀は、学友の珠子と一緒に家路についていた。

珠子

ときに、沙紀さんのお父様は学者様でいらっしゃったわよね。
何の研究をしていらっしゃるの?

道すがらの何気ない雑談の途中で、ふと珠子が沙紀に尋ねた。沙紀は父の研究にあまり興味がなかったが、自宅には父が仕事に使う論文の山だの研究ノートだのがそこかしこに積まれているので、大体どんな研究をしているかは知っている。

沙紀

専門は神経科学で、主に脳髄の研究をしてるんですのよ。

珠子

まあ、脳髄。
他人が何を考えているかとか、人はどんな時に恋に落ちるかとか、そういったことも研究でわかるんですの?

年頃の娘らしい問いに、沙紀は苦笑する。

沙紀

お父様が言うには、脳髄の研究でそこまで分かることは、少なくとも自分の存命中はありえないそうよ。
そういうのは心理学の分野なのですって

そんなことを話していると、正面から見慣れた人物が歩いてきた。

沙紀

あら、お里さん、ごきげんよう

沙紀が声をかけてからしばらくして、お里も沙紀に気づいたようだ。

お里

……

お里は黙って会釈する。

沙紀

珠子さんにも紹介するね。こちら、うちのお手伝いをしてくださってるお里さん

珠子

はじめまして、沙紀さんの学友の珠子と申します

お里

……

お里は黙ったままでお辞儀をする。

沙紀

ごめんなさいね。お里は口がきけないの。
生まれつき耳も聞こえないのよ。

沙紀は珠子にそう釈明してからお里に向き直った。そしてお里のほうへ向き直って、珠子を指してから、自分の右手と左手を握手させるように組み合わせた。
友達、と言う意味の手話だ。

沙紀は握りこぶしを作って親指だけを立てる。続いて指を下に向け、人差し指から薬指の三本だけを伸ばす。次に親指以外の四本の指を、掌と直角に曲げる。
これは手話でた・ま・こを表す。お里に手話で珠子を紹介したのだ。

珠子

まあ沙紀さん、手話がお出来になるの?

沙紀

まだお勉強中ですけれどね

照れ笑いしながら、沙紀は頭を掻く。沙紀が小さいときに亡くなった母の代わりに、お里が住み込みで働き始めてもう十年近くになる。少しでもお里と意思の疎通を図れるよう、独学で少しずつ手話を勉強しているのだ。

お里は買い物へ行く途中のようで、手話で暇を告げるとすぐに立ち去ってしまった。沙紀たちも再び歩き始める。

神田川沿いに外堀通りを神田方面へ歩いていると、後方から黒い自動車が騒音を立てながら二人を追い越し、行く手を塞ぐような形で停車した。

沙紀


なんですの?

自動車から、帝国陸軍の軍服を着た男達が四人、わらわらと降りてきた。男達の中で一番上官らしい男が、居丈高な口調で「崎田沙紀というのはどちらだ?」と声を荒げた。

沙紀

崎田はわたくしですが……

沙紀が返事をした瞬間、軍人たちは沙紀を取り囲み、あっという間に自動車に押しこめてしまった。
何がなんだかわからないまま、沙紀を乗せた自動車は発進した。


沙紀が連れて行かれたのは、何の飾り気もない真四角の、コンクリート造りの白い建物だった。今はその建物の中で、後ろ手に縛られ研究室のような室内で立たされている。
室内の一方の壁には薬品の瓶や機械部品らしきものが置かれた棚が並んでおり、その反対側の壁には大きなガラスの窓があり、その向こうはどうやら屋外のようだ。
そして沙紀の後方には今しがた彼女が入ってきたドアがあり、正面にはまた別のドアがあった。部屋にあるものはそれだけ。椅子も机も何もない部屋に、沙紀は軍服の男二人に見張られながら立ちつくしていた。

その部屋にもう一人、同じように後ろ手に縛られた男性が連れてこられた。その男を見て沙紀は、思わず声を上げた。

沙紀

お父様!?

崎田教授

沙紀!?
どうしてここに

思わぬ場所での親子の対面に驚いていると、二人が入ってきたのとは別のドアから、白衣を着た若い男が入ってきた。

若林博士

ようこそ私の研究室へ。私は工学博士の若林だ。帝国陸軍で兵器の研究開発を行っている。

崎田教授

その若林とやらが私に何の用があるのかは知らんが、我が娘を縛り上げるとはどういうことだ。
事と次第によってはただでは済まさんぞ

若林博士

まあまあ、
まずは私が開発中の兵器を見ていただきたい

そういって若林は、部屋の一面を占める大きな窓を指し示した。沙紀と崎田教授はそちらを見る。
あらためて見てみて気がついたのだが、屋外だと思っていた窓外の風景は屋外ではなかった。吹き抜けのように天井の高い空間に、土を敷き詰めてところどころに木や岩を配置し、屋外のように見せているだけだ。広さは野球場くらい。地面のところどころを小さな丘のように盛り上げたり、窪地にしたりしてある。

その広い空間に、なにやら黒い影が動くのが見えた。
影はこちらに近づいてくる。その全貌が見えたとき、沙紀はその異様さに息を呑んだ。
遠くにいた時は気づかなかったが、そいつは途轍もなく大きかった。体高は十数メートルはあろうか。全身を黒光りする装甲に覆われ、その重そうな巨躯を、がしゃり、がしゃりと動かして前進している。

全体の形態でいえば、人間に似ていた。寺の釣鐘のようにどっしりと太い二本の脚。交互に動くその脚の動きに合わせて、バランスを取るように可動する腰、エンジンを内包しているのだろう、背面から黒煙を排出する胴部に、円筒状の腕、そして、細やかに動く手の指。人間と違うところといえば、頭が異常に大きく、首はまったく存在せず、肩(これも、人間と比べて異常に大きく、頑健に見える)に頭が半ば埋没していた。そのため人間のように頭を上下左右に大きく動かすことはできず、上下は三十度ずつ、左右は二十度ずつ程度しか稼動しないようだった。

さらに奇妙なのは、額部分に換気扇のような、回転する大きな羽があることだった。人間の脳髄と同じように頭に思考するための機械が入っていて、それが動作するときに発熱するために、換気扇で風を送って冷却しているのだ、と若林は説明した。

崎田教授

思考する機械が入っているだと?
つまり人工の脳髄ということか?
冗談もほどほどにしたまえ、脳髄のような複雑なものを、人間が作れるわけがないだろう

若林博士

人間の脳髄は、百億ほどもある神経細胞が複雑に繋がって、電気信号を伝えている。
一つの神経細胞は、複数の細胞からの入力を受け付け、それら複数の入力の合計が一定の電位を超えると、自身も他の細胞へと信号を発する。
そうですよね? 崎田教授

崎田は頷く。

若林博士

入力が一定値を越えないうちは電気を発さず、一定値を越えると電気が流れる……
それにそっくりな動作をする電子部品があります。私の専門であるツェナーダイオードがそれです。

ツェナーダイオードというのは、十年前の一九三四年にクラレンス・ツェナー氏が発見したツェナー効果に基づく電子部品だ。一定電圧以下では電気を通さず、一定を超える電圧がかかると電気を通す。

若林博士

似たような動作をするなら、ツェナーダイオードを神経細胞の代わりに使って脳髄を人工的に作れるのではないか、実際やってみると口で言うほど簡単ではありませんでしたよ。

若林博士

しかし! この天才若林はその容易ならざることをやってのけた。数ナノメートルの神経細胞の変わりに、ミリ単位の大きさを持つダイオードを使ったことで大型にはなりましたがそれは問題ありません。
どうせ巨大人型兵器に使うつもりだったんですから

若林博士は、以前から巨大人型兵器を作れないかと思案していたという。人間の脚は戦車のキャタピラでは進めない険阻な地形も踏破することが出来るし、人間の指は複雑に動くので様々な武器を扱える。
何よりも、兵器自身が自律した思考能力を持って動き回るなら、操縦士が要らない。仮に破壊されても人的損害は出ないのだ。

若林博士

だから実物の脳より遥かに巨大になってしまったことは別に良いのですが、問題は……。
まあ、口で説明するより、実験を見てください

若林は後ろにあるドアに歩いていくと、ドアの向こうに控えていた助手らしき人に「始めたまえ」と指示すると、再び窓の方へ向き直った。

窓の向こうに、数十人の男達が入ってきた。半数は日本陸軍の軍服、もう半数はアメリカ海兵隊の制服を着ている。
だがよくみると、海兵隊の服を着ている男達も東洋人だ。

若林博士

あれはどちらも本物の軍人ではありません。日華事変で捕らえた捕虜達ですよ。
あの兵器の性能実験のため、日米の兵隊を演じてもらうのです

日米の兵隊を演じるといっても、武器を持っていないので互いに戦うようなことはしない。室内にいる巨大な人型兵器を、ものめずらしげに遠巻きに見ているだけだ。
人型兵器はそんな男達の姿をみとめると、そちらへ足を向けた。動き出しは緩慢だったが、次第に速度が乗ってくる。
人々は自分達に向かってくる巨大な鉄魁に驚き、散り散りに逃げるが、人型兵器は歩幅が大きい分思いのほか早く、アメリカ海兵隊の制服を着た一人が追いつかれてしまう。

沙紀

!!

人型兵器はその鈍重な右腕を、男へと振り下ろした。男は押し潰され、血があふれ出して地面を流れる。
人型兵器はさらに、他の男を追いかけ始めた。男は逃げ惑うが、部屋の隅に追い詰められ、圧殺されてしまった。

若林博士

今殺された男は日本軍の服を着ていたでしょう? 友軍と敵軍の区別をつけるよう、繰り返し教育しているんですがね。どうやっても覚えてくれない。
それに反応速度も遅すぎるんです。何かを見つけて、動き出すまでが遅かったり、攻撃を受けてから隠れるなり反撃するなりの行動を起こすまでに数秒かかる

若林博士

端的に言って、こいつの脳髄は性能が低すぎるんです。特に反応速度の遅さについては、人間で言うところの神経伝達の速度が遅いことが原因だと考えています。
神経伝達の速度といえば、崎田教授のご専門でしたよね

崎田一三教授は、一九三八年に神経細胞同士の信号伝達に関する論文を発表し、世界的に高い評価を受けていた。神経細胞には、軸索の周りに「髄鞘」と呼ばれる鞘のようなものが巻きついている有髄神経と、髄鞘のない無髄神経が存在するが、有髄神経は無髄神経の百倍の速度で信号を伝達することが出来る。この、有髄神経で情報が高速に伝わる仕組みを、崎田教授は解き明かしたのだ。

有髄神経系に巻きついている髄鞘には、蓮根の節のように一定間隔で絶縁された場所がある。これをランヴィエの絞輪と言うが、この絞輪がもたらす「跳躍伝導」という現象が、高速の神経伝達を可能にしているのだ。
神経系に関する最先端の発見をした崎田教授は、間違いなく神経と脳科学における世界最高の見識の持ち主と言えた。

崎田教授

私を連れてきたのは、その兵器の脳髄を改良する手伝いをさせるためか。
馬鹿馬鹿しい。私は興味のない研究には手を貸さん

若林博士

拒むというのなら、痛い目を見てもらうことになりますが

崎田教授

私は暴力には屈しない。
矢でも鉄砲でも持って来たまえ。そんなもの私は、少しも怖くない

かたくなな崎田の答えに、若林はむしろ嬉しそうな、嗜虐的な微笑を見せた。

若林博士

私は先ほど痛い目を「見て」もらうと言いましたが、残念なことに人間は自分の目を自分で見ることは出来ないんですよね。
では教授に痛い目を見てもらうためにはどうしたらいいか、答えは……

若林が部屋にいた軍人達に目で合図すると、軍人の一人が沙紀を羽交い絞めにした。もう一人の軍人が、沙紀の目に短剣を突き付ける。

崎田教授

沙紀!!

銀色の切先が、沙紀の目の前、半寸ほどの距離に付き付けられている。切先はさらに、少しずつ近づいてきた。恐ろしくて思わず沙紀は目を閉じたが、目を閉じると見えない切先がよけい恐ろしく感じられて、慌てて目を開けた。

崎田教授

やめてくれ! 協力するから!
私に出来ることならどんな協力も惜しまない。沙紀に手を出すのだけはやめてくれ!

若林博士

娘さんを人質にして正解でした。こんなにも効果があるとは……。
ともあれご協力いただけるのはめでたい限りです。早速打ち合わせがしたいので、別室に来てもらえますか

そう言って彼は崎田教授を促し、部屋を出て行った。
出て行く途中、ふと思い出したように、軍人達に指示を与えた。

若林博士

崎田教授の娘さんは引き続き人質として研究所内に留まってもらいます。
丁重に扱うように


沙紀が研究所で暮らすようになって一ヶ月。
研究所内であれば、ある程度行動の自由は許されていた。とはいえ学校に行かない分退屈は否めない。
することのない沙紀は、ぼんやりと人型兵器の実験を見ていた。
いつぞやのように捕虜を殺す実験は正視できないが、幸いなことにそんな実験はめったに行われなかった。今回はハリボテで作られた戦車を破壊する実験だ。

正面に星型が描かれているものが、アメリカのM4戦車を模したもの。砲塔に日の丸が描かれているものが、日本の九七式戦車チハを模したものだ。
人型兵器の性能は、格段に向上していた。チハには攻撃せず、M4戦車だけを選別して鉄拳を振るう。新たな戦車を見つけたときの反応速度も速い。

若林博士

いいぞ、その調子だダイダラ!
あとは模擬戦を繰り返して学習を積めば、実戦投入できるようになる

「ダイダラ」というのが、その兵器の名前であるらしい。それにしても、わずか一ヶ月でこれほど性能が向上するとは、やはり父の功績が大きいのかな、と沙紀は思う。

崎田教授

ヒトの脳髄には、回路の高集積化のヒントが詰まっている。私の考案した小型ダイオードが完成すれば、更なる高集積化が可能なはずだ。

崎田教授の声も、どことなく満足げだ。
彼がダイダラの開発に協力しているのは、ダイダラが実践投入可能となるまで彼と娘の身柄が拘禁されているからだが、彼も研究者として、日々向上していくダイダラの性能に、嬉しさを感じているのかもしれない。

ダイダラがまた一つM4戦車を破砕する。一撃で戦車が粉々になるのは、なにも模擬専用のハリボテだからというだけではない。ダイダラの腕の最大出力は、厚さ八センチの鋼板をひしゃげさせる威力がある。本物のM4戦車にも通用するはずだ。

沙紀は、どうにも落ち着かない。
父の研究が形になっていくのをみて、父を誇らしいと思う気持ちも少しはあるけれど、ダイダラは敵兵を殺すための兵器だ。実際、捕虜を敵兵に見立てて殺す実験も何度も行われている。
全てのハリボテを破壊し終えたダイダラを、沙紀は複雑な気分で眺めていた。

ふと、ダイダラのほうも沙紀の方を見ていることに気がついた。ダイダラがこちらに興味を示すそぶりをみせることは、これまでも何度かあったが、今日は間違いなくこちらを見ている。

何とかダイダラと会話できないだろうか。沙紀の頭にそんな考えがよぎる。幸い、実験が終わって若林も他の研究員たちももうダイダラにあまり注意を払っていない。今なら誰にも見咎められないだろう。

とはいえ、彼我の間には分厚い硝子が嵌められていて、よっぽど大声を出さなければダイダラに声は届かない。そんな大声を出せばさすがに若林たちに気づかれてしまうし、第一こちらの声が届いたとしても、ダイダラにはどうやら声を出す機能は備わっていないようだ。

ならばと、沙紀は右手の人差し指と中指だけを延ばし、時計の十二時を指すように額のあたりに立てた。こんにちは、の手話だ。

ダイダラは理解できなかったようで、戸惑ったように視線を泳がせる。彼の視線は、土の上に一輪だけ咲いた、小さなスミレの花で止まった。
沙紀はそのスミレを指差した後、両てのひらを向かい合わせて、指を花びらのように広げた。
ダイダラはしばらく逡巡しているように見えたが、やがてためらいがちに花を指差し、おずおずと沙紀の手話を真似した。

沙紀は今度は石を指差し、石の手話をする。ダイダラはゆっくりとだがそれも真似をする。相手が分かってきたとみて、沙紀は自分を指差した。続いて握りこぶしを作って「さ」の手話、影絵のキツネの形を作って「き」の手話。
ダイダラの無骨な鋼鉄の手が、彼女を指差した後、サ・キ――、と動く。沙紀は今度はダイダラを指し、ダ・イ・ダ・ラと指を動かす。

こうして、沙紀とダイダラの、ちょっと不思議な交流が始まったのだった。

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