『ミソフィリア(汚損性愛)は、着用して汚れのついた衣類や使用後の生理用品、
もしくは汚れた人間に対して著しい性的興奮を覚える性的倒錯の一種である』





 昼休みにさしかかり、クラスメート達はそろって学食へ足を運ぶなり、弁当を啄み始めるなりしている中で、俺は手ぶらのまま教室を、そして校舎を後にした。
 無断早退じゃない。目的地は裏の旧校舎。厳密には、その済にある男性用トイレだった。
 トイレの前には、待ち合わせ相手がすでに到着していて、俺に向かって手を振っている。



佐藤

ほら田中、早く早く

田中

ばか、静かにしろよ。人が来ちまうだろ

佐藤

ここのトイレはもう使われてないんだから、誰も来やしないよ。それより午前、体育あっただろ。もう待ちきれないよ



 俺と待ち合わせ相手の佐藤は、トイレの個室に二人で身を潜めると、狭い空間で面と向かい合った。俺は照れくさくなって顔をそむけたものの、佐藤のほうは真顔である。



佐藤

ほら、田中。いつもみたいに見せてくれよ

田中

わかったよ。わかったから焦るなって……



 急かすような佐藤の声に、俺は周囲に人の気配がないことを改めて確認すると、おずおずと自分のズボンのベルトをゆるめ始める。幾度と行ってきたことだけれど、この気恥ずかしさだけは慣れることがない。

 ゆっくりとズボンが降ろされると、汗のシミでまだらに染まったグレーのボクサーパンツが姿を見せる。それを見た佐藤は薄い笑いを浮かべていた。



佐藤

おお、しっかり汚れているな。やっぱり色の目立つ下着がいいよな

田中

そのこだわりは知らないよ。いいからさっさとしてくれよ



 本当は汗の色が目立つような灰色の下着なんてあまり着ることはなかったのだが、佐藤がこのほうが興奮すると言ったので、俺はその要求を飲み込んだのだ。

 すると、佐藤は俺の股間に顔を近づけて、その頬や鼻先を擦り付けると、下着の湿り気を肌の表面で存分に味わっていた。
 俺は佐藤の頭をそっと掴み、出来る限り煩悩や情欲を逃がすため、天井をぼうっと見つめ始めた。
 佐藤が深く息を吸い込むと、熱を奪われた下着の湿り気が冷たさを帯びる。



佐藤

ああ、やっぱりいい匂いだな

田中

……そうかよ



 どうしてこうなってしまったのか。なぜ、こんな状況に陥ってしまったのか。
 それはちょうどひと月前に、俺がクラスメートの佐藤に告白したことから始まる。単なる友情とは違う思いを佐藤に感じ始めた俺は、玉砕覚悟で無謀にも、人気のない場所へ連れ出し、その思いを伝えた。

 すると佐藤は、受け入れるとも断るとも言わず、俺をトイレへ連れて行くと、ズボンを脱ぐように指示した。もしかして受け入れてくれたのだろうか、それにしたって展開が早くないかと思って、俺は戸惑いながら言われるままにズボンを下ろしたのだ。
 すると佐藤は、今こうしているように俺の下着の汚れや匂いを堪能すると、まるでゲーセンで一緒に遊び終わったあとのように軽く、『じゃあまた明日な』と言ってその場を後にした。俺は下着姿のまま、呆然と佐藤の背中を見ていた。

 どうやら佐藤には昔から、そういう性癖があるらしい。汚れた下着に対して異常に興奮するらしいのだ。それ以来、佐藤は何かにつけ、俺をこのトイレに呼び出しては下着の匂いを嗅いで帰るということを繰り返していた。



田中

なあ、ひとつ聞いていいか?

佐藤

おう、なんだ?

田中

お前は、俺と俺の下着、どっちが好きなんだよ

佐藤

っていうか、俺は別にお前のこと好きだって言ったことないだろ

田中

う……



 トイレの個室に、俺の下着の匂いが静かに漂い出す。汗と、それ以外の色々な何かが混じった、あまり面と向かい合いたくない匂いだ。
 俺は下半身に血がたぎりそうになるのを、佐藤に話しかけることでごまかそうとした。



田中

のんきに人の下着を堪能しやがって。こんなの、なにがいいんだよ

佐藤

ダメだなあ、田中。お前は何にもわかってないよ

田中

わかりたくねえよ、こんなの。
お前、考えたことないだろ。お前に嗅がせるためだけに今日は多めに汗をかかないとなとか、ちょっと派手に汚しておこうと思ってる俺の気持ちなんか

佐藤

おお……そうだったのか。お前も大変なんだなあ

田中

こいつ……!

佐藤

あ、言っとくけど勃起すんなよ。
それは『違う』からな。
もし勃起したらその場でねじり切るからな

田中

わ、わかってるよ。こっちだって必死に抑えてんだから……



 佐藤はあらためて、下着に顔を埋めだす。俺の身体が少しだけピクッとはねた。
 形は歪んでいるとはいえ、好きな人間が俺の神聖な部分に、布一枚を隔てて触れているのだ。興奮を覚えないわけはないが、俺が興奮するわけにもいかない。それは佐藤が求めていることだったし、この状況に興奮する自分を受け入れるわけにもいかないのだ。なので必死に関係のないことを、たとえば数式などを思い浮かべてみる。
 けれどこの布一枚が、俺には何よりも高く厚い壁で、佐藤の体温が伝わっているのに、その熱い吐息がかかっているのに、三枚980円の薄い布一枚が、二人が交じり合うことを拒み続けているのだ。
 佐藤は男が好きなのだろうか。それとも性別は関係ないのだろうか。あくまで好きなのは汚れた下着であって、性別などは二の次なのかもしれない。
 それから十分ほどして、佐藤は満足したように顔を離した。俺はぐったりとして便座に座り込んだが、一方の佐藤はその表情に艶めきすらある。



田中

なあ、前から思っていたんだけれどさ

佐藤

んん、なんだ?

田中

俺の汚れた下着がいいっていうんならさ、俺、替えの下着を持ってくるから、俺が脱いだ下着だけ嗅いだらいいじゃん。
何も俺が穿いたまま嗅ぐ必要なんかないだろ。そっちのほうがお前にとって都合がいいんじゃないのか



 どうせ、俺じゃなくて下着しか見てないのなら、俺にはそのほうがまだ辛くない。このままではいつか、俺の方の自制心がどうかしてしまいそうだからだ。
 たとえこの屈折したひとときが、俺と佐藤が唯一人目を気にせず触れ合える瞬間であり、俺の提案がそれを奪ってしまうとしても、伝わるものも伝わりきれないままの生殺しよりはマシなのかもしれない。
 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、佐藤はいやらしい笑みで俺に近づくと、



佐藤

田中、お前は本当に何もわかってないな



 などと言いのける。
 その余裕に満ちた表情が、俺のカンにひどく触った。



田中

だから、そんな性癖のこと誰も理解できるわけないだろ。屈折し過ぎなんだよ、お前は



 少しばかりムキになり、俺は感情のまま言葉を投げた。このくらいのことは、言われて当然なのだ。
 そのとき、佐藤の顔が一瞬陰りを帯びたように見えた。俺の目の錯覚だろうか。佐藤はすぐにいつもの薄い笑みを見せる。


佐藤

……そうだな



 ふと、そのいつもの薄い笑みが、少し悲しそうに映ったので、俺の胸には少しのざわつきが芽生える。佐藤に何か声をかけようとしたけれど、佐藤はそれから何も言わずにその場を去って、その背中はすでに遠くに見えた。


田中

わけわかんね……



 俺は便座に座り込んだまま天井を見上げると、また今度この場所へくるときは、もう少しいい下着でも穿いてみようかなどと、少しズレたことを思いふけっていたのだ。



汚損性愛(ミソフィリア)

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