残骸と化した家を踏み越えるようにして現れた、鎧を着た人間の男に心当たりのあったアキトが、呆然としながら呟く。
残骸と化した家を踏み越えるようにして現れた、鎧を着た人間の男に心当たりのあったアキトが、呆然としながら呟く。
勇者……様?
それに対して人間の男――勇者は、アキトと隣にいるルリイエを冷たい目で睨みつけた。
魔族め……まだ生き残っていたか……
ゆっくりと掲げられた血塗られた刃と、勇者の瞳の奥の暗い光に、アキトはぞくり、と背筋が粟立つのを感じて、慌ててルリイエを守るように飛び出した。
ま……待ってください、勇者様!
ルリは……彼女は確かに魔族ですが、人間に危害を加えたりはしません!
むしろ、俺たちと一緒に暮らすくらいに穏やかで……、優しい女の子なんです!
だから……!
黙れ!
アキトの必死な訴えを、しかし勇者は一喝して黙らせる。
魔族は人間に危害を加える悪だ!
そこに例外はない!
現に、こいつら魔族のせいで人間たちは毎日苦しんで、傷ついている!
魔族は滅ぼさなければならないんだ!
だから皆殺しにする!
そこをどけ……
静かに、けれど絶大なプレッシャーを伴って放たれた勇者の言葉に、アキトは思わず腰を抜かしそうになる。
だがそれでもなお、勇者の前に立ちはだかり、ゆっくりと首を振った。
どかない……。
俺はあんたが間違っていると思うから……。
魔族にも悪い奴は確かにいる。
けど、それは人間だって同じだ。
なのに、あんたは魔族を一方的に悪いと決め付けて滅ぼそうとしている。
俺はそれが間違いだと思うから……
アキト……
小さく呼ぶルリイエを肩越しに振り返り、アキトは微笑む。
大丈夫。
何があろうと、君だけは俺が絶対に守るから……
そうして再び勇者に目を戻したアキトを、勇者は鋭い視線で見つめた。
そうか……。
あくまでも魔族の味方をするというのならば、人間の裏切り者としてお前も殺す……
視線と言葉に殺意を乗せ、ゆっくりと剣を振り上げる勇者。
そして、月明かりに白刃が煌き、躊躇いなくアキトに振り下ろされようとした瞬間だった。
アキト……!
だめぇっ!!
ルリイエが悲鳴を上げ、咄嗟に炎の魔法を放った。
アキトの頬をかすめて飛んでいった炎は、突然のことに対応し切れなかった勇者に直撃し、小さく爆発する。
ぐっ……
思わず苦悶の声を漏らす勇者をよそに、ルリイエはすぐさま起き上がると、アキトの手を掴んでそのままがむしゃらに走り出した。
一瞬、驚いたように目を丸くしたアキトを肩越しに振り返り、ルリイエは言う。
アキト……、あなたに死なれたら私は悲しいです……。
私を幸せにしてくれる、そう約束したじゃないですか……
ルリイエの言葉に、アキトは息を呑んだ。
そうだ……、あの執事の人にもルリを頼むといわれた……。
彼女を幸せにすると約束した……
強く自分の手を握り締めたアキトは、「ごめん」とルリイエに小さく謝ると、すぐに彼女の隣に並んで走り出した。
しかし、その数瞬後。
逃がさねぇよ!!
勇者の叫びと共に魔法が二人の足元に直撃し、爆発する。
悲鳴を上げるルリイエを抱え込むように庇って地面を転がったアキトは、直後、がしゃりと鎧がなる音に気付き、顔を上げた。
あまり勇者の俺を舐めるなよ……
憤怒の形相で近づいた勇者は、爆発の衝撃で動けないアキトとルリイエにゆっくりと近づくと、手にした剣を三度、高々と振り上げ、背中にルリイエを庇うアキトへ向けて一気に振り下ろした。
闇夜に一瞬だけ煌いた刃は、防具も何もつけていないアキトの左肩をやすやすと切り裂き、そのまま斜めに通り抜けた。
あっ……
一瞬遅れてやってきた全身を駆け抜けるような鋭い痛みに、アキトは一瞬だけ声を漏らすと、傷口から盛大に血を吹き、地面に倒れこむ。
アキ……ト……?
一瞬呆然としたルリイエは、じわりと広がったアキトの血を見て我に返ると、
いやぁぁぁぁぁあああああぁぁっ!!
悲鳴を上げながらすぐさまアキトに飛びつき、泉のように血を溢れさせる傷口に向かって手をかざした。
そうして、ぼんやりと手を輝かせてアキトに治療の魔法を掛けようとするルリイエを、勇者が冷たい目で見下ろした。
貴様も……死ね
短く呟いた勇者は、必死にアキトを治療しようとするルリイエの胸の中心を、情け容赦なく剣で貫く。
あ……き……と……
搾り出すように大好きな人の名前を口にしたルリイエが、ゆっくりと折り重なるようにアキトの上に倒れこんだ。
二人の血が二人を真っ赤に染め上げていくのを見下ろした勇者は、小さく鼻を鳴らして踵を返した。
だから気付かなかった。
最後の力を振り絞るように体を動かしたルリイエが、アキトの唇に、そっと自分の唇を重ねたことに。
そして、二人の体が淡い光に包まれたのことに。
ルリイエは、薄れ行く意識の中で思う。
父の――魔王の人形として生を受けてからしばらくして、城下町の魔族の親子たちを見ていて、魔王から愛情が注がれないことに気付いた。
それから城を逃げ出した後、あの村でアキトに出会った瞬間から、自分の人生は大きく変わった。
人を愛するという気持ちを知り、幸せという感情を知った。
そして、それを教えてくれたアキトには感謝しているし、心から愛している。
ゆえにルリイエは願う。
愛おしい人に生きて欲しいと。
死にゆく自分の分まで、たくさん生きていて欲しいと。
アキト……。
私はあなたに、こんなところでは死んでほしくないです……。
あなたに私の中の魔力を……魂をあげます……。
だからあなたは……生きてください……
そう願いながら、重ねた唇から自分の魂をアキトに吹き込んだ。
次の瞬間、勇者にばっさりと切り裂かれていたアキトの胸の傷が、まるで始めからそこになかったかのように消え去った。
アキトは、徐々に冷たくなっていた全身が、暖かい何かに包み込まれ、同時に意識が覚醒していくのを感じて、ゆっくりと目を開けた。
えっと……俺は確か……ルリを庇って勇者に斬られて……。
そうだ……ルリ!
直後、完全に意識が回復したアキトは、目に大写しのルリイエの顔と、そのルリイエにキスされていることに目を丸くした。
…………!?
しゃべろうにも、ルリイエにキスされていてしゃべることができず、目を白黒させるアキトをみて、ルリイエは満足そうに微笑み、顔を離す。
よか……った……。
間に…………合いまし……たね……
そのまま力なく倒れこむルリイエをアキトは慌てて支え、次の瞬間、手にぬるりとした感触を感じて、ルリイエが血を流していることに気付いた。
……っ!
ルリ!
慌てるアキトの頬に、ルリイエはゆっくりと真っ赤に染まった手を当てる。
あな……たに……わた……しの……魔力を……、たまし……いを……ふ……きこみ……ました……
ルリイエの言葉を聞いて、すぐにアキトの脳裏によぎるものがあった。
それは、村で老執事が話したこと。
魔族にとって、魔力とはすなわち魂そのものであり、それを抜き取られれば、魔族は死に至る。
それをすぐに思い出したアキトは、ルリイエの手を握り返しながら問いかける。
何でそんなことを……!?
アキ……ト……あな……た……に生き……て……ほし……いから……。
私の……しあ……わせ……は……、あ……なたが……いき……て…………元気で…………いる……ことだから……
次第に力が失われていくルリイエの手を、アキトは強く握り締める。
ルリ!?
駄目だ!
死ぬな!!
必死に叫ぶアキトに、ルリイエはゆっくりと微笑む。
アキ…………ト。
村で…………たす……て……くれ……て……、あり……とう……ご……まし……。
わ……し……、とて……も……しあわ……せ……でし……
ルリ!?
死ぬな!!
ルリ!!
わた…………は、……な……たを……愛…………して……い……ま…………す…………
力尽きるように瞳を閉じ、ルリイエの体から力が失われ、するり、とアキトの手の中から、手が抜け落ちる。
ルリ……?
ルリ…………?
手を取り、揺らす。
肩を抱き、揺らす。
何度も声をかける。
けれどもう、ルリイエがそれに応えることはない。
まだ暖かい彼女の血が、アキトの服を染めていく。
まだ暖かい彼女の温もりを、肌がアキトに伝える。
けれどもう、ルリイエがアキトに微笑みかけることはない。
それが現実となって襲い掛かり、アキトはようやくルリイエの死を理解した。
う……うぅ…………
うわぁぁぁぁあああぁぁぁぁあああっ!!
まるで心の大事な部分が、ごっそりと抜け落ちたかのような喪失感が襲い、アキトは泣いた。
その泣き声に気付いたのだろう、立ち去ったはずの勇者が戻ってきて、殺したはずのアキトが生きていることに驚き、目を見張る。
貴様……何故生きて……?
勇者の声が聞こえたアキトは、勇者を見た瞬間に憎悪の炎が胸の中に燃え上がり、同時にアキトの心臓が強く脈打つ。
強く脈打った心臓は、ルリイエの魔力に適応するため、そのまま激しく鼓動を刻み続け、アキトの体を人でもない、ましてや魔族でもない何かに作り変えていく。
それを感じながらも、勇者を鋭くにらみつけたアキトの口から、まるで獣のような声が漏れた。
貴……様がルリを……っ!!
ぅおおおおぉぉおおおおおおおっ!!!
アキトが吼えると同時に、彼の体から魔力が暴風のように吹き荒れ、地面を軽く抉る。
ぞくり、と勇者の背筋が粟立った直後、アキトはまるで瞬間移動でもしたかのように勇者の目の前に出現し、胸の中心に腕をつきたてた。
どん、という衝撃と共に、アキトの腕が勇者の背中に突き抜け、勇者は悲鳴を上げるまもなく、絶命した。
ぞぶり、と腕を引き抜いたアキトは、倒れる勇者に構うことなくルリイエの亡骸を掻き抱き、慟哭の声を上げた。
それは、魔族でも人間でもなくなったアキトの、魔人とでも言うべき新たなる存在の産声でもあった。
翌日、勇者一行全滅の知らせを受けて、魔王は勇者の死体を確認しに村へ来ていた。
焼け落ちた家々やむせ返るような血の匂いが、村の惨状を物語る中を、しかし平然と歩く魔王を、突如魔人へと変貌を遂げたアキトが物陰から一気に飛び出し、護衛や魔王自身が気付く前に魔王の眼前に飛び込むと、その頭を掴んで、思いっきり地面に叩きつけた。
凄まじい音と衝撃でクレーターが出来上がる中、その中心に倒れ伏した魔王が、目を見張った。
すぐさま魔王の部下がアキトを取り押さえようとするが、魔人になってしまったアキトの力の前に、逆に吹き飛ばされてしまう。
貴様はルリイエが逃げ出した村にいた人間か……?
何故ここにいる?
それにこの力は何だ?
余が地面に倒れただと?
黙れ!!
疑問を浮かべる魔王を、魔人アキトは一喝して黙らせ、この村で何があったかを語って聞かせた。
そして、ルリイエが死に、勇者一行を全滅させたとアキトが言うと、魔王は一瞬きょとんとした後、おかしそうにくつくつと笑い始めた。
ふ……ふふふはははははは!
そうか!
アレは死んで勇者も死んだか!
何がおかしい!?
もう一度魔王の頭を地面に叩きつけ、アキトは叫ぶ。
ルリはあんたの娘だったんだろう!?
悲しむとかしないのかよ!
何で笑っていられるんだよ!
悲しい?
余にとってアレは所詮駒の一つでしかない。
たかが駒の一つを失った程度で何を悲しむ必要がある?
ふざけるな!!
アキトは思いっきり魔王の顔を殴りつけた。
血が飛び散って顔につくのもかまわずに、アキトは魔王を殴り続けた。
それじゃあ何のためにルリは生まれたんだ!?
あんたの道具として生きるためか!?
勇者に殺されるためか!?
そんなのは間違ってる!!
何度も何度も魔王を殴りつけ、その度に血が飛び散り、アキトに降りかかる。
もちろん、魔王もただ殴られるだけじゃなく、殴り返したり、魔法で吹き飛ばそうとしたりしているのだが、怒りがそうさせるのか、あるいは魔人としての力ゆえか、そのすべてが無効化されていた。
それからどのくらいの時間、アキトは魔王を殴り続けていただろう。
肉を殴打する音から、「ぐちゃっ」という生々しい水音に変わったころになって、ようやくアキトは魔王の上から立ち上がった。
アキトの足元に倒れる魔王の顔はすでに原型をとどめておらず、見るに耐えないものとなっていて、体はピクリとも動かず、すでに魔王が絶命していることを物語っていた。
ざわり、と魔王配下の魔族たちに同様が広がる中、アキトは呻くように呟く。
こんな世界は間違っている……。
人間にも、魔族にもルリが認められないこんな世界は……。
俺がぶっ壊してやる……。
俺が世界に……ルリを認めさせてやる!
アキトのその言葉は、やがて魔族、人間に関わらず、世界全体への宣戦として広がることになった。
それから数年後。
魔人アキトの猛威はとどまることを知らず、ついには魔族、人間共に生き残りはごく僅かというところまで追い込まれてしまった。
もちろん、人間にしても魔族にしても、幾度となく魔人アキトの討伐に乗り出していたのだが、それぞれの象徴であり、最大戦力の魔王と勇者がすでにアキトに敗れた状況で、当然のように勝てるわけもなく、あえなく返り討ちにあってしまった。
これにより、人間と魔族はそれぞれ抵抗する力を失い、それが皮肉にも双方が共存するきっかけになりながらも、世界は滅びへの道を歩み始めた。
そして、それからさらに十数年後。
世界が滅ぶことを嫌がったのか、それとも偶然かは分からないが、ともかく新しく世界に生れ落ちた勇者と魔王が、魔人アキトの前に立ちはだかった。
ここまでだ、魔人アキト!
人間と魔族を……世界を滅ぼしたお前を、私たちは絶対に許さない!!
貴様が支配したこの世界を、あたしたちが終わらせてやる!!
お前たちのことなんか知ったことじゃない!
俺は……ルリを否定したこの世界を壊す、それだけだ!
そうして始まった魔人アキトと、勇者・魔王の戦いは苛烈を極め、いつまでも続くかと思われた戦いはしかし唐突に終わることになる。
でぇぇええい!
魔王の放った魔法が一瞬の隙を突いてアキトに直撃し、意識を割かれた瞬間に振るわれた勇者の一撃が、かつてアキトが先代の勇者に斬られた所をなぞった、その直後だった。
傷の深さは大したものではなく、せいぜいが浅く皮膚を切り裂く程度のものだったが、それでもアキトにトラウマを想起させるには十分だった。
ぐっ……うぅぅ……
戦いの最中に突然アキトが膝を突き、頭を抱えて苦しみ出す。
その脳裏をよぎるのは、胸の中心を貫かれ、血をあふれ出させながらも微笑むルリイエの姿と、彼女が残した言葉。
それがまるで毒のように、あるいは氷を溶かす光のように、アキトの心に広がっていく。
そうして生まれた隙は、勇者と魔王が渾身の一撃を繰り出すには十分だった。
勇者の剣が、魔王の魔法が致命的な一撃となり、魔人アキトは、どうと床に倒れ伏した。そして、
ル…………リ……
その搾り出された言葉を最後にアキトの命は尽き、魔人アキトが死んだという知らせを聞いた、僅かに生き残った人間と魔族たちは歓喜に震えた。
アキトは、徐々に薄れ行く意識の中で、ルリイエと再会していた。
私はあなたに生きていて欲しかっただけなのに……
まったくもう、と頬を膨らませるルリイエに、アキトはごめん、と謝る。
でも、ルリが世界に認められないなんて……そんなの悲しすぎるから……だから俺は……
いいんです……
アキトの言葉を遮ったルリイエは、微笑みながらそっとアキトを抱き寄せる。
世界がたとえ私を認めなくても……、あなたが私を認めてくれた……、愛してくれた……、それだけで私は十分なんです……
そう……なんだ……
まぁ、褒められた方法ではありませんが、私のためにここまでしてくれたのはちょっと嬉しいですけどね……。
ありがとうございます、アキト……。
そしてお疲れ様でした……。
だから……、もう休んでください……
照れくさそうに笑うルリイエを見て、アキトも小さく笑い、そっと目を閉じる。
うん……ありがと、ルリ……。
お休み……。
愛してるよ……
お休み、アキト……。
私も愛しています……
そうしてアキトの意識は、光に飲まれて消えた。