悲劇の始まりには、喜劇がついてまわることがよくある。



 幸せ、からの急行下。彼の場合も、最初は喜劇だった。


 傷ついた彼を、献身的に支える人物が現れた。その人物は女性で、彼女は彼を愛していた。


 静かな愛だったように思う。彼は、少しずつ立ち直り、彼女の愛を受け止めた化のように見えた。



 喜劇に見えた、だけだ。


 彼女は、喜劇が悲劇に変わった直後に、僕に教えてくれた。


 キスをしたのだそうだ。
 キスをした、その直後に、彼は発病した。



 精神の病だ。

違う、南と違う

 その言葉と共に頭を抱え、倒れ、気絶をし、数時間後、病室で目を覚ました彼の記憶の中からは、新しい恋人のそれが一切合切なくなっていた。


 きれいさっぱり、消えてしまった。都合のよい脳みそだとも思うし、とんでもない人類の発達系だとも思う。

 彼の脳みそは、記憶を消した後に、記憶を作り始めた。

 妻の死という現実が消え、彼女の病気が治った、と思うようになってしまったのだ。

 彼女の病気は治っていないといくら言っても、信じようとはしなかった。



 僕はいつまでも、忘れられない。夢にもみる。






だって彼女は俺の隣にいるじゃないか


 と、誰もいない自分の隣を指して彼が言う、あの衝撃的な瞬間を。



 

 このことは、公にされなかった。


 仕事を続けることは、困難と思われたため、理由を公にせず、彼は音楽の世界から姿を消した。突如失踪を遂げた伝説の歌手となってしまったのだ。



 彼は、自宅にずっといるようになった。

 いや、いるようにさせたのだ。外に出して、何か問題が起きたら大変だ。

 音楽会社がつぶれたから仕事が無くなったと、彼には説明してあった。しばらくは外に出ない方がいい。





 思えば、このころから僕らは嘘をつくようになっていた。
 彼の幻想に、嘘で対抗してしまった。悲劇は、加速していく。

 彼は、彼女の幻覚と暮らすようになった。


 最初はおとなしく暮らしていたが、やがて音楽活動がしたいと求めるようになった。

 そして、いつのまにか自分は音楽活動をしているという錯覚まで起こすようになってしまった。夢の中で見たコンサートを、現実の物と思うようになってしまったのだ。


 知らない会社の名前を挙げ、また僕の曲を売り出してくれるってと、周りに嬉々として語った。



 彼は、重病だった。
 治す方法は見あたらなかった。
 新聞や雑誌にコンサートの記事がないと、彼は発狂した。

なぜだ、なぜ、あんなに成功したのに!


 僕らは慌てて、彼のコンサートの記事を作った。


 新作のCDがないと、やはり彼は怒り狂った。CDのジャケットを作り、売れているというニュースを作った。




 嘘に嘘を重ね、五年が経った。

 昨日のことだ。彼は夢の中で、幻想の妻に素敵なサプライズをしてあげたと、嬉しそうに話してくれた。

これは、もう明日凄いニュースになるね

 彼がそう言ったので、できた新聞が、僕が持っているこの新聞というわけだ。


 彼に、どんなことを言ったかを、それはうまく聞きだした。素晴らしい出来だ。










彼を見て唯一確信したのは、愛って素敵ってすばらしいってことよ

 彼女は、本心からか、嫌みなのかわからないが、そんなことを言った。




 彼の愛の形は、幻想を抱くことだった。
 



 彼女が、静かに唇を撫でた。癖だ。なんの癖かはしらないけれど、僕は、彼女が彼のことを考えているときの癖だと思っている。



 キスを思い出しているのだろう。
 彼女の唇は、今でも一度きりのキスを忘れられない。
 彼女は、嘘をついて、ついて、ついて、苦しくて、それでも彼のそばにいる。



 それが、彼女の愛の形だ。

姉さんは、素敵な人と結婚したわ

 何度見たか分からない涙を、また流した。

羨ましくて、嫌になる

 僕は思う。何度も。何度も。



 抱き締めてあげられたら。



 その度に拳を握りしめているのを、きっと彼女は知らない。

――僕の兄も、素敵な人に愛されていると思います

 僕の兄を愛してくれている人の中に、彼女をこっそりといれた、こんな回りくどい方法に、彼女は気づいてくれているだろうか。





 僕の愛の形は、一番嘘でまみれている。




 彼女のことを、好きだとも言えない。

 弟という立場を利用している僕は、彼女のそばにそれでもいたいと思う僕は、歪んでいる。





 僕は、新聞を丁寧に畳むと、机に置いて部屋を出た。廊下で兄とすれ違った。

素敵な記事だったろ。後で南にも見せてあげるんだ

 と笑う兄に、そう、と答えることしかできなかった。

 悲劇は、続いていく。嘘にまみれて、加速していく。
















幻夫婦と感動コンサート 後編

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