こんな酷い嘘もないわ

 僕に向けて彼女は新聞を投げ捨てた。新聞はばささ、と情けない音をたてながら、僕の目の前に落下する。

 笑っているようでもあるな、と思った。





 新聞が笑いかけてくる。なあ、嘘つきどもよ、楽しいか。




 僕は何も答えることができない。楽しくなどないと答えて、ではなぜ続けているのかと問われたら、もう、何も言えなくなってしまう。

ねえ、酷いと思う?

 自分の空想の中にいた自分は、一瞬なんのことを問われているのかが分からなかった。


 二秒ほどの間をあけ、

うん、酷い

 そう答えた。彼女は、当たり前よねという顔をして、ああ、と両手で顔を覆った。

いつまで続ければいいのかしら

……いつまでも、続けるんじゃないか

 お決まりの台詞だった。残酷な真実を突きつけると、彼女は冷静になる。

 顔をあげ、まっすぐと、どこかを見つめる。

そうね

 覚悟の決まった顔だ。何度も見た顔だ。きっと、見つめる先には彼がいるのだ。


 僕は、眼中にない。

……明日は、アルバムのジャケット撮影日ね

明々後日はインタビュー

その後しばらくは、レコーディングよね。


はやく、レコーディングでこもってくれないかしら、そしたらおとなしくしてくれる。



でも、夢の中でされたらって、考えた方がいいわね

万が一に備えてね

 リン、と携帯電話の音が鳴る。彼女は画面を見て顔をしかめた。彼だろう。



 何も言わずに部屋を出ていく。
 僕など眼中にない。





 静かすぎる部屋で、僕は、新聞を拾い上げた。かさ、とまた新聞が笑うが、無視をする。


 その一面には、大きな見出しで『西藤夕 感動コンサート』と書かれていた。


 僕は新聞を拾い上げ、今日少なくとも三度は読んだその記事を、ため息まじりにもう一度読見始める。


 何度読んでも、酷い。










俺の奥さんに、挨拶させてください

 今月十五日、人気歌手西藤夕(さいとうゆう)(29)のコンサートが、レオーネスタジアムで行われた。


 歌手活動十周年の節目であるこのコンサートで、サプライズがあった。当日会場に来ていた妻、西藤南さんへ、メッセージが送られたのだ。


 彼は、愛妻家として知られている。十年、彼によりそった彼女へのメッセージは、多くのファンの胸を打った。

俺の奥さんは、南って言います。


本当に素敵な人です。優しくて、強くて、芯が通ってる。


俺より二つ上で、まぁ姉さん女房で、ほんと、頼りにしっぱなしです。

 

五年前に、南は病気にかかったよね、ってごめん、もう語りかけちゃっていいかな? 

みんな、ごめんね、少しだけコンサートの時間をちょうだい。

 

――それで、南、なんだっけ。そう、南は病気にかかって……死ぬかもしれないってなって、俺もう本当にどうしようかと思った。

そのときにもコンサートがあったけど、俺は全部中止にしようとした。

そのとき、南は僕の頬を叩いたね。

そして、行きなさいって言ったんだ。




あなたを待つ人は、私以外にもたくさんいる。

裏切るようなことをしてはいけない。

今のあなたは、過去のあなたが夢見た未来を、歩いているんでしょう。

だったら、その過去のあなたのためにも、コンサートに行って。






あのとき、俺は、心の底からこの人と結婚してよかった、って思ったよ。

ありがとう、君がいなかったら、俺はこの場所には絶対にいなかった







 はぁ、とここで目をあげる。そんなこともあったなと、僕は懐かしくもなる。


 西藤夕の語った通り、彼の妻は五年前に重い病にかかったが、それでも気丈に振る舞った。残る力を振り絞って、頬をはたいた。そして、コンサートをやりきれと、彼の背中を押したそうだ。




 それが、彼女と彼の最後のやりとりになった。




 彼女は、ただ、息をする存在になってしまった。植物人間なんて、的確で残酷な言葉を最初につけたのはだれなのだろうか。

彼女の意識があるうちにもっと一緒にいてあげたかった

 彼は、酷く嘆いた。










 悲劇はそこで終わらなかった。彼の妻の死は、悲劇の始まりでしかなかったのだ。

幻夫婦と感動コンサート 前編

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