遠くへと放り投げられていた私の意識が、聞き慣れた声で急速に引き戻される。
月曜日のオフィス。自分のデスクにいた私は、途中まで打ち込まれた会議用の書類の文章が踊るパソコンの画面をぼんやりと見つめたまま、眼前に積まれた仕事とは全く関係のないことを考えることに脳を使っていた。
……山さん
……
……さん。岩山さん!
遠くへと放り投げられていた私の意識が、聞き慣れた声で急速に引き戻される。
月曜日のオフィス。自分のデスクにいた私は、途中まで打ち込まれた会議用の書類の文章が踊るパソコンの画面をぼんやりと見つめたまま、眼前に積まれた仕事とは全く関係のないことを考えることに脳を使っていた。
は、はい!
岩山さん、さっきから何度呼んでも返事してくれないんだもの。体調悪いの?
あっ、いえ。大丈夫です。すみません。ちょっとぼうっとしていて
声の主である一回り年上の先輩社員が私の傍に立っていた。どれほどの時間かわからないけれど、私は仕事をなおざりにずいぶんと呆けていたようだ。
そう……いくら休み明けだからといって、ダラっとされたら困るからね。まあ、頑張り屋さんの岩山さんのことだから、そんなことはないだろうけれど
はは、ありがとうございます
はい、このデータの見直しとクライアントに持っていく書類の作成。明日までに済ませておいて
わかりました
私は気を引き締めて、まずはやり残している作業に手を付けた。有能な社員だという評価こそなく、かといって業務の足を引っ張るほど役に立たないわけでもないけれど、やる気だけは他社員から褒められることが多く、私自身それだけは失わないよう常々心掛けている。
それでも私が珍しくぼんやりとしてしまったのは、昨日から私の部屋に住み着くことになった、居候が要因である。それも急な話であり、相手がまた複雑な存在だっただけに、私も未だ適切な対応を取れずにいた。
誰に相談できるだろう。『おとなのおもちゃ』が人間になっただなんて。
ずいぶん蒸し暑い夜だった。私はじんわりと汗をかきながら帰路を辿り、路上から自分の住んでいるマンションの部屋を見上げた。
普段は消えているその窓に、今日は明かりが灯っている。ひとりで暮らし始めてもう六年になるけれど、家を出るときに明かりを消し忘れた日を除けば、初めての光景だった。
そっか。今日からしばらくは『ただいま』を言う相手がいるってことなのね
帰りを待つ相手がいるのはいいことだ、とはよく聞く話だったけれど、今はまだ実感が湧かない。
私はマンションを登り、自室のチャイムを鳴らした。ドタドタと騒がしい足音の後に、居候がドアを開けて姿を見せる。
おかえり、麻子ちん。今日もお仕事お疲れ様!
ただいま。余計なことせずいい子にしてた?
してたしてた。ね、お風呂にする? ご飯にする? オ◯ニーする?
疲れてるところに頭のおかしい三択を迫るのやめて
昨日から今朝にかけて、この居候は何度も私に自慰を要求してきた。当然私はそれを全て撥ね付けているのだけれど、どうやらまだ懲りていなかったようだ。
そ。したかったらいつでも言ってね。麻子ちんのオ◯ニーを手伝うのが、私の仕事だから
『居候』は喜々とした表情でそう言い放った。すごい言葉である。昨日から何度も聞かされている言葉だったけれど、まだ慣れそうもないし、慣れたくもない。
それが彼女の誇り、アイデンティティなのだろうけれど、私にはちょっと応えられそうになかった。
貴女はおとなしくしてればいいの。ご飯から先に食べちゃおうかな
あ、晩ご飯作ろうと思って冷蔵庫の中を見たんだけれど……
本当? でも買い出し行ってないから、何も入ってなかったでしょ?
本当なら休日だった昨日、一週間分の食材を買いだめしている予定だったのだけれど、この居候と諸々あったことにより、すっかり忘れていた。私はこう見えてしっかり自炊するタイプなのだ。
うん。でもオカズだけでも用意しようと思って、そのパソコンで
オチがわかったから言わなくていいわ。まあそうだろうと思って弁当を買ってきたのよ
ん? そういえば貴女、料理できるの?
人並み程度くらいにはできないよ
なんでできない人を基準にするのよ
私にできることは麻子ちんのオ◯ニーの手伝いだけだよ。
でも居候の身分だもんね。一応、家事ぐらいでできていないとマズイかなと思って。掃除と洗濯だけはしておいた。料理はこれから覚えるね
なるほど。たしかに室内を見回してみれば、多少散らかり気味だった部屋は綺麗に整理整頓され、床や窓も光沢を放つほどに磨かれている。この様子ならこのあとに入る風呂場にも期待が持てるかもしれない。物盗りの心配も、きっとない。お荷物だとしか思ってなかった居候だったけれど、実はありがたいのかもしれない。
これで料理ができて、自慰を強要してこなかったなら、さほど悪くない環境なのかもしれなかった。食事も基本的には充電さえさせておけばOKだというのもいい。
じゃ、食事とお風呂が終わったらオ◯ニーだね
あのね。この間も言ったけれど、私はもう金輪際、そういうことはしないの
え、なんで?
誰かがいるのにそんなことするなんて、ましてや他人に手伝ってもらうなんて、そんなことできるわけないでしょう
そんな水くさい事言わないでよ。私達の膣内(なか)じゃない
変なルビをふるな
大丈夫だって。絶対気持ちいいから! オ◯ニー! オナ◯ー! オナニ◯! オn
伏せ字をちょっとずつずらすな! ストリエのスタッフから『伏せ字にしてくれ』って頼まれてるのよ!
自慰の話をするときにだけ、この居候はテンションを上げる。これが面倒くさいことこの上ない。第一、卑猥な言葉を日常生活で連呼されたら、こっちの精神がどうにかなってしまいそうだった。これからの共同生活に差し障る最大の不満点である。
そのオ……オ◯ニーって言葉。今後は禁止。使ったら、即座に出て行ってもらうからね
私からその言葉を封じるなんて、死刑宣告と一緒よ!
……でも、私だって貴女の存在意義を知らないわけじゃない。だから代わりの言葉を設けましょ
代わりの言葉? ワンマンショーとか?
だからショーじゃないっての。使いやすい言葉にするのよ
あなたはどうせ、オ◯ニーを何と表現しても、結局はその名称を連呼するんでしょう。だったら何回聞いても、誰が聞いても変な想像をしない、させないように、もっと清楚な表現にしなさい
あー、やだな。そういう臭いものにはフタ的な発想。そもそもオ◯ニーは臭いものじゃないからね。いや、臭い人もいるけどね
うるさいわね。社会通念上の話をしてんの
清楚な表現って何よ。ビデとか?
『ちょっと私、ビデしてくるわね』とか?
せめて下半身から離れてよ。ていうかわざわざ他人に確認取ってやらないよ
すると振る舞いに清楚さの欠片もない居候は、腕を組んでううんと頭を捻った。彼女にも悩むということがあるのか。
しかし、彼女も彼女なりに今後のコミュニケーションに関して真剣に考えてくれているのだということは、信頼の面に於いて大きな要素だった。
清楚な表現って言われても急にはピンとこないって。
清楚……清楚ね……『お嬢様』とかどうかな
安直ねぇ
いいじゃない、お嬢様。
『昨日私、五回もお嬢様しちゃった』
『今日はなんだか眠れないし、本日七回目のお嬢様でもしようかな』
やりすぎでしょ。猿レベルじゃないの。清楚さの欠片もない
『今日は大胆にテーブルの角で角お嬢しようかしら。それとも床お嬢にしようかしら』
『おっ、これはおじょりがいのあるオカズね』
言葉の使い方がおかしくなってるわよ。
おじょりがいって何よ
『私、ティータイムのあとは欠かさずお嬢様していますの』
『あら偶然、私もセバスチャンとお嬢様の見せ合いをしますのよ』
もう本人がお嬢様になってるじゃない。っていうかお嬢様はそんなゴミみたいな会話しないわよ
でも『お嬢様』自体はそう悪くない表現なんじゃないの?
たしかに、清楚だといえば清楚なのだ。お嬢様だから清楚だというのも、ずいぶん貧困な想像力だとは思うけれど。
私は少しだけ思案した。
お嬢様という言葉が、私の脳内で反復されたとき、胸の奥にすっと、陰のようなものが降りてきて、途端に私はわずかな不快感を催した。
……いや、やっぱり『お嬢様』はだめ
えー、なんで?
とにかく、ダメと言ったらダメ。
私、その言葉苦手なの
……?
それと……その名称も大事だけれど、貴女のことをなんて呼ぼうかな
私? 『オルガマニア』じゃダメなの?
機械みたいな名前だとその見た目に合わないし。なにより長いし人前で呼びづらいじゃないの。人前に貴女を連れて行くことはまずないだろうけれど
これから一緒に暮らしていくんでしょ。曲がりなりにもルームメイトなら、名前をわかりやすくしておかないと
……!
私はただ、これからの生活に必要な提案を投げただけである。けれど、それを聞いた居候の表情は綻び、満面の笑みを見せていた。
会社から与えられた、事務的な名称がそんなに気に入らなかったのだろうか。
じゃあいい名前を付けてくれたら嬉しいな。かわいいやつ。ううん、麻子ちんが呼んでくれるならどんな名前でもいいよ
そう? そうね……元が『オルガマニア』なわけだから……オルちゃん?
……
な、なに? 不服? なんでもいいって言ったじゃない
いや、私に向かって安直だって言った割には自分だって……と思って
仕方ないじゃないの。ネーミングセンスなんて私にはないんだから
犬にポチって名付けるタイプ?
ネコにタマって名付けるタイプ?
スナックに来夢来人って名付けるタイプ?
ドラクエの主人公に『ああああ』って名付けるタイプ?
うるさいわね。オルちゃんで決定! あなたの名前は今日からオルちゃんだよ
押し付けられた安直な名前に、『オルちゃん』は噛み殺すような笑いを漏らすと、喜びを隠し切れないといった具合に小さく飛び跳ねた。こんな名前で申し訳ない気もしたけれど、ここまで喜んでもらえるなら名付けがいがあったというものだ。
オルちゃんか、そうかあ
元が機械だったとはいえ、今は人間さながらの肉体と人格を宿しているのだから、それに見合った名前を得て自分を認識してもらうというのは、複雑だけど嬉しい事なのかもしれない。
オルちゃん、オルちゃん……麻子ちんが私のために付けてくれた名前……安直な名前……ふふふ
安直……そうだ、安直でいいのよね
うん? どうしたの?
ここまでオルちゃんが喜んだのだ。私は自分の直感を信じて再び提案した。
決めた。『お花摘み』にしましょう
何が? ゴールデンウィークの予定?
どんだけ暇人なのよ。
そうじゃなくて、その、アレの呼び方よ
ああ。そういえば、お手洗いに行くときもそういう表現するもんね。うん、いいんじゃないかな。上品だし
はい決まり。じゃあ今後は『お花摘み』って呼ぶように。わかった?
わかったよ。ふふふ
上がりきりで抑えきれないテンションのまま、オルちゃんは背中から私に思い切り抱きついてきた。
ちょっと、ひっつかないでよ。いま汗かいてるんだし、暑いんだから
じゃ今からさっそくお花摘みオ◯ニーしよ!
早々に誤用すんな。それじゃただの変態プレーでしょ
こうして形だけの清楚さに包まれたまま、ただれた共同生活の夜は過ぎていくのだった。
第五話に続く