人生は一度きりだという言葉に、証拠はない。
人生は一度きりだという言葉に、証拠はない。
人生は一度きりだという励ましに、人は疑問を覚えるべきである。
それで自分を鼓舞させる人間は、根本から疑うことを知らない人だ。
例えば死ぬ間際に、ループする可能性だってあるのだ。そうだろう?
死ぬなあと思って、目が覚めたら赤ん坊なのだ。
そこで、ああ、この感覚を自分は覚えている、
もう何度目か知れない、と思う。
しかし赤ん坊の脳みそだ、
処理しきれなくなり、
どんどんと忘れていく。
そんなことはないと、言いきれる人なんて、いるだろうか?
あるいは輪廻かもしれない。たくさんの魂の連続として、私がいる。
その記憶がないじゃないかって?
死ぬ間際に、今までのすべての魂の情報を思い出したら?
今はただ、忘れているだけだとしたら?
人間だったあのころ、私はそういうことを考える人間だったことを、まず思い出した。
私の考えは当たっていた。
ループ説は外れていたが、輪廻説が当たっていたのだ。
死の間際に思い出す、今までの魂の情報、すべて。
すべて思い出した。私の輪廻の始まりは人間だった。
言葉で思考するためだろう。機械的で合理的な言葉というシステムを持つのは、人間だけだ。
神様と呼ばれているような大きな力の何かが、輪廻のスタートを人間にしているの違いない。
死の間際にすべてを思い出したときに、その思考を統制する何かがないといけないと考えたのだろう。
言葉があるから、考えることができる。考えているから、私がいるといったような言葉が、そういえばあった。
このことだったのかもしれない。
私は今、天井を見上げていた。まわりには、レタスだろうか、野菜が敷き詰められている。
苦しい。
なぜ生きているのだろうと思う。
必死に考えているのは、
この苦しさから逃げるためだ。
呼吸ができない。
でも生きている。
いい、もう、いっそ殺してくれと思う。
でも、それを言う言葉もないから、
そして殺してくれるような兄弟もいないから
(そういう話もあったはずだ)、
わたしは思考するしかないのだ。
人間であるころ、私はずいぶんとひねくれた子どもであった。
裕福な家庭で育ち、その時には珍しい、メイドなんてものも家にはいて、生活のすべてを彼女が行ってくれていた。
当たり前のように移動は車で行い、運転手に行き先を告げればどこへでも行けるような生活を送っていたのだ。
料理も、毎日大きな机一杯に出てきていた。それをありがたいと思うこともなく、平気で残しているような子どもだった。
そう、私が今この思考のなかで注目したいのは、この、
食べ物を残すような子どもだった
という、ここである。
いただきますの意味も知らないような子どもだった。