僕の見えている世界
第1話
気が付くと世界には誰も居なくなっていた。
いつも通っている、学校の教室。
すでに授業が始まっている時間なのに、先生も生徒もいない。僕一人だ。
僕は自分の席に座って、ぼうっと考えていた。
みんな、どこへ行ったんだろう。
学校だけじゃない。ここに来るまで、僕は誰とも会っていないのだ。
隣に住んでいるいつも気むずかしそうな顔で僕を見るおばちゃんも、ビクッとするほど大きな声で挨拶してくる八百屋のおじさんも、淡々とホームルームを進める冷たい印象の担任も、密かに想いを寄せていたクラスメイトの女の子も、誰も居ない。
人だけじゃない。いっつも僕を吠える近所の犬も、そこらでよく見かける野良猫も、駅前にいるものすごい数の鳥たちも、どこにも見当たらなかった。
気が付いていないだけで、もしかしたら虫すらもいないのかもしれない。
それならば僕の大嫌いなゴキブリを見なくて済むと思ったけれど、秋の鈴虫が奏でる音色を聴くことができないのは寂しいなと思い直す。嫌いな虫は多いけど、いなくなるとそれはそれで寂しいものなんだな。死にかけの蝉も町の賑わい。とは言わないか。
なんて、これではまるで人より虫の心配をしているみたいだ。
もちろんそんなことはない。ただ僕は、人がいなくなってしまったという現実を受け入れることができなくて、どうでもいいくだらない考えに、ついつい思考が向いてしまうんだ。
だってそうじゃないか。
人がいなくなった。じゃあ世界はどうなる?
……そんな想像、できやしないよ。
人が消えたなら、その時に僕自身も消えてなきゃおかしい。
本当に、みんなどこに行ったんだろう。
どうして僕だけ、世界に残っているんだろう。
僕は椅子から立ち上がり、窓の外を見る。
雲一つ無い晴天。いい天気だ。季節は初夏。梅雨が明けたとか明けないとか言ってた気がするけど、この陽気なら明けたのだろう。カラッとした暑さはその証拠だ。
「もしかしてこれ、世界の終わりってやつなのかな」
冷静な、落ち着いた自分の声。
こんな状況でも淡々とそんな言葉が呟ける僕は、少し頭がおかしいんだろうか。
それとも世界がおかしくなってしまったから、どこか麻痺してしまっているんだろうか。
キーンコーンカーンコーン……。
誰も居ないのに、チャイムは鳴る。自動的に鳴るようになっているんだ。
僕は誰も居ない教室を見渡し、頭を下げて、早退します、と言って教室を出た。
平日の真っ昼間。
普段なら学校で授業を受けている時間に歩く町並みは、いつもと違って見えた。
なんて、またしてもくだらないことを考える。
違って当然、誰も居ないんだから。
騒々しいはずの町は、とても静かだけど、ほんの一瞬前まで誰かがいたんじゃないか、そんな気配のする場所だった。
本当は僕をビックリさせるために、僕が来たから一斉に隠れたんじゃないか?
そんな馬鹿なことを考えてしまうくらいに、町は人の気配を残しつつ、誰も居なくなっていた
当てもなく、ふらふらと歩き続ける。
暑い。人はいなくても汗は出るものだ。
当たり前だった。汗と人の有無は元々関係ないのだから。
……ああ、また僕はよくわからないことを考え始めている。いけない。
ハンカチで額を拭って、日陰に入る。
梅雨が明けた途端こんなに暑くなるなんて、これはもう異常気象レベルだ。
そんなんだから、人も消えてしまったんだろうか。
突き抜けるような青空を軽く睨んで、視線を降ろすと……。
視界の端に、場違いな何かが目に入った。
「……え?!」
女の子だ。
道ばたに、一人の女の子が立っている。
世界に人も虫も動物もいなくなってから、僕は酷く冷静になっていたのだけれど、そんな僕が初めて驚いたのは、今この時、そこに女の子がいたことに対してだった。
「ね、ねぇ! 君! ちょっといいかな?」
…………
僕は慌てて駆け寄って、女の子に声をかける。
しかし女の子はまるで僕の声など聞こえていないといった感じで、真っ直ぐ正面を向いたまま、こっちを見ようともしない。
「話がしたいんだ。あ、ナンパとかじゃないよ。安心して」
言ってから、変な心配をしちゃったなと思う。だって、彼女だってこの世界の状況をわかっているはずだから。そんな世界でナンパもなにもない。自分以外の人を見付けたら話しかける、それが普通の行動なんだから。
でも……僕の変な気遣いに対しても、無反応だった。
呆れているわけではない。そもそも聞こえていないし、見えてもいない感じだ。
僕は耳元で、おーい、と声をかけてみる。
…………
それでも無反応。ぼうっと立っているだけで、僕の存在に気付いていないようだった。
もしかしてこれは、人形なのかもしれない。
でも、近付いてよーっく眺めてみたけど、どう見ても人間の女の子だ。いくら精巧に作られていたとしても、さすがに見間違えるとは思えない。
「ねぇ、僕の声、聞こえてないの?」
…………
女の子はやっぱりなにも答えてくれない。
……これじゃ、そこにいないのと同じだ。
僕を認識してくれないのなら、消えてしまった人たちと変わらない。
「どうしたら気付いてもらえるんだろう……」
僕は女の子の正面に立ち、じっとその目を見つめる。
深い緑がかったその瞳は、どこか儚げで、どこか破滅的で、深く深く悲しみを湛えたような、どういう経験をしたらこんな瞳になるのだろうと、いったい何を見てきたのだろうと、見ているだけで深く考えさせられる。
吸い込まれるような瞳というのは、こういう瞳を言うんだろう。
そんな風に、彼女の目を少し驚いた顔で見ていると……遥か遠くを見ていたその目に僅かに光が灯り、スッと焦点が合った。
そしてその瞳が、僕の瞳を映し出す。目と目が合う。
「あ、やっぱり……君はそこにいるんだね」
…………
誰も居なくなった世界で出会った、無反応な女の子。
それじゃあそこにいないのと変わらないと思ったけれど、僕を認識してくれるのなら話は別だ。
ちゃんと、そこに人がいるということだから。
「……よかった」
僕の口から、初めてその言葉が出た。
よかった。
世界に僕一人じゃなくて……本当によかった。
思わず涙が零れそうになる。
「よかったよ……君がいてくれて」
…………
女の子は相変わらず無反応。なにも答えてくれない。
だけど居ないわけじゃない。僕を見てくれている。
それなら、居てくれるだけでもいい。
ひとりぼっちじゃないなら、それでいい。
「一人だけなんて、そんなの嫌だよね。君もそうかな?」
…………
「そうだといいな。僕のことが、君の救いになっていると思いたいよ」
…………
「君も気付いてるよね? 世界に誰もいなくなっちゃったこと。
ひょっとして、この町に隕石が落ちるから全員避難していて、僕は置いて行かれたんじゃないか、なんて妄想もしてたんだよ。
そんなのあり得ないのにね。それじゃ僕の両親は僕を置いていってしまったってことだもん。そんなはずないよね」
…………
「でもなんらかの、どうしようもない理由で置いていかれたのなら……。
でもそうなると、君も置いていかれたってことになるよね。
……はは、やっぱりそんなわけないか」
…………
「もしかして君は、世界に誰もいなくなっちゃたから、だから無反応なのかな?
……そういえば、今さらだけど、君の髪の色……まるでアニメに出てきそうな、綺麗な水色だよね。髪がまるで水でできてるみたいに滑らかで、陽の光に輝いて見えるよ」
…………
「褒めたんだから、反応して欲しいなぁ……。あ、別にお世辞じゃないよ? 本当に綺麗だと思うから」
…………
どんなに話しかけても、彼女は言葉を返してくれない。
それでも彼女の中に意志があるのなら、聞いてくれているのなら、僕は話し続けるしかなかった。
「みんなどこに行っちゃったんだろうね。本当に他に誰もいないのかな」
…………
「ねぇ、一緒に探しに行ってみない? 他にも僕らのように、残っている人がいるかもしれないよ。だからさ……」
…………
僕は反応の無い彼女の手を取ろうとして……
そこで、意識が途切れた。
…続く