俺達はどこにも逃げられない。
窓を割り、進入してきた女性。

この世の物ではない事が瞬時に理解できた。
幽霊。
床を這うようにこちらへと近づいてくる。

恐怖と衝撃に俺達は言葉すら話せずにいる。

愛を求める怨念。
俺達の前に姿を見せた女性。

うわ言のように言葉を呟く彼女。

その顔を見て、俺は驚きを隠せなかった。

この世への未練と憎悪。
世界の歪み。
彼女の顔は恐ろしく身もすくむ。
だが、俺はもうひとつ別の意味で驚いたのだ。

これまで俺達はこの事件を起こしていたのはあの時の少女だと思い込んでいた。
悩みを抱えて一人寂しく線路を眺めていた。
死の直前、最後に会った事が原因だと……。

それすら俺の思い込みに過ぎなかったのだ。
真実はもっと単純なものだった。

俺の想像していた相手とはまるで違う。
怨霊の正体はあの日の少女ではない。

違う、あの子じゃない。
あの時の少女とは別人だ。
こんな顔をした女性を俺は知らない。
ならば、こいつは……誰だ？

憎しみを込めた表情を見せる相手。
俺達を襲う闇。
それは俺の見知らぬ女性の顔をしていた。
未曾有の脅威に声が震える……。

分からなくなってしまう。
なぜ、俺達はこの人に呪われているのか。

ずっと独りよがりの思い込みで恐怖していた。
だが、俺達を襲う恐怖は見知らぬ女性だった。

冗談抜きできついぜ。
壁際にまで追い込まれていく俺達。

暗闇に光る獣のような瞳。
女性は千影ではなく、俺にその瞳を向けていた。
俺はそこでようやく思い出す。

一度だけ彼女が生きていた頃に出会ったことがあった。

この事件が起きるもうずっと前の事だった。
数ヶ月前のこと。
俺の部屋に前の住人に会いにきた一人の女性がいた。
長い髪をした清純そうな女性だ。

寂しそうにそう告げたのを覚えている。

彼女はその人が引っ越した事を知らなかったらしい。
別れ話がもつれて相手が行方を告げなかった。
そう言う話だと何となくは理解していた。

その後、『管理人に引っ越し先を聞いてみる』と彼女は言って立ち去った。
それ以来、彼女とは一度も会っていなかった。
こんな形で会うまでは……。
どうして、俺はこの事を忘れてたのか。

今の今まで忘れていた。
あの女性の存在を。

西岡の言葉が脳裏によみがえる。
そういうことか。

その後。
彼が結婚してここ出て行った事実を知った彼女の絶望。
どんな状況が彼女に襲い掛かったのかは知らない。
想像すら出来ない事を経験してきたのだろう。
どんな絶望を抱えてきたのか知らないが。
一年の月日を経て。

”その絶望が結果的に彼女を殺した。”

それが残酷な現実だ――。

咆哮をあげる女性は俺の足に細い指を絡めてくる。

俺は離そうと手で相手の腕に触れた。
冷たい温もり。
凍りつく氷のように冷たい……。

次の瞬間、俺の足から手を離して腕を掴む女性。

俺はそのまま身体を引きずられていく。
床に身体を擦りながら、窓の方へと。
己の意思に逆らい続けて、向かっていくしかない。
なんて力なんだ……引き離せない。

ゆっくりと引きずられた俺は割れた窓へと誘われた。

身体を窓辺にのりあげて落ちそうになるのを力の限り、耐える。
そこに広がる光景に俺は自分の目を疑った。

窓の真下は電車の線路があるはずなのに。
そこはもう俺の知る光景ではなかった。

手だ。
暗く深い闇から無数の白い手が伸びて手招きしている。
異様すぎる光景に吐きそうだ。
女性は俺をその闇へと引きずり込もうとする。

必死に腕を離そうとするが、どうにもならない。

諦めたらそこで終わりだ。
俺の身体を支えてくれる千影。
恐怖に怯えてるのに彼女は俺の事を守ろうとする。

千影は涙を浮かべて叫ぶ。

女性がその言葉に反応するようにひるむ。

千影が女性に突き飛ばされて、俺から離れる。
俺には闇から伸びた複数の手が絡みついていく。
もうダメだ、この闇に俺は突き落とされる。

千影だけは守りたい。
俺がどうなろうと……。

彼女を巻き込まないそう覚悟を決めた俺はそのまま窓辺を掴んでいた手を離す。

その手は奈落の底へと引きずり込む。
俺の身体は力なく窓辺をのりだして。
そのまま、引きずり込まれて闇へと落下していく。
恐怖しかない。
だけど、俺の最後の希望は……。

千影の悲痛な声。
俺は……お前を……。
そして、そのまま。
俺の意識は闇へと飲み込まれていく。

落下した俺が最後に見た光景。
それは大粒の涙を流す千影の顔だった。

そして、俺は……。