その夜、俺が用事を済ませて帰ってくると、既に千影は帰って来ていた。
その夜、俺が用事を済ませて帰ってくると、既に千影は帰って来ていた。
おかえりなさい
……何をしてるんだ?
俺の部屋の窓にはお札らしきものが張られていた。
窓辺の無数の白い手形が消えているのは、彼女が必死に消したからだろう。
部屋中がお札だらけの件について
神社でもらってきたの。これで大丈夫なはず。塩も部屋の前においてるわ。完璧ね?
……どれほどの効果があるかは知らないが。余計に雰囲気が出て怖くなったのは気のせいではないはずだ。どうしてくれる?
何もないよりはマシでしょ?
そして、彼女は俺の腕に数珠を巻いた。
ちょっと高そうな代物だ。
これは?
友達から聞いたの。数珠って身代わりになってくれることもあるんだって
ホントに?
霊感の強い友人はいつも数珠をしていたわ。それが切れた時、不運から身を守ってくれたって……私たちの身代わり防壁よ
……最後の最後は神頼みってね
ちゃんと守ってくださいよ、神様?
守ってくれたら神社にお賽銭を奮発します。
俺はコンビニで買ってきた食事をテーブルに並べる。
それで、慧は何をしてきたの?
いろいろと聞いてきた。例えば、この部屋の前の住人の話とか……
前の住人……。それじゃ、やっぱりここが呪われた物件だったの?
いや、一人暮らしをしていた男の人だった。学生ではなかったらしい。俺がこの部屋に来る前に結婚することになって出て行ったそうだ。つまり、この部屋はこの件には無関係だ
その辺の事は近所の人達にも聞いていた。
ちょっと軟派な所のある人だったか、誰かに恨まれるということもなく、結婚を機会に出ていったそうだ。
だとするなら、俺達に関わるのはあの少女という事になるな
慧が自殺直前の最後に、その女の子に会ったから憑かれたってこと?
……その可能性もあるわけだけど。俺は信じたくはない。あの子はそんな子じゃなかった
生前、あの子が俺に何かしようとしていた気配はない。
執着心も、嫉妬心も何も感じられなかった。
――貴方は、そこにいますか?
それに、あの子は俺ではなく、別の誰かを想っていたようにも見えたんだ。
あの誰もいない踏切を見つめながら。
誰に思いを馳せていたのか。
俺にはどうもあの子が人に恨みを持っていたようには思えないんだ。あんなに可愛い子がそんな事をするはずもない
通りすがりに挨拶する程度の関係だった。
綺麗な髪が風に揺れるその横顔に見惚れることはあっても、相手に対して嫌悪なんてしたこともない。
それに話をした時も悪い印象なんてひとつもなかった。
ムカッ
千影はお弁当の蓋を俺に投げつけてくる。
何する。ソースが顔につくところだっただろ
……なんとなく不愉快な気持ちになった
やめてくれ
お前くらいは俺の味方のままでいてください。
慧がその子が気になっている事が嫌なの
嫉妬心?
というか、幽霊に惹かれてる気がして嫌なのよ。他の女の影を感じさせないで
幽霊の少女に憑りつかれたくはないんだけど
だとしても、俺たちにはなすすべなんてない。
結局、解決策なんて何もないのだ。
それより、今日はどうする?
今日は慧の部屋に泊まっていくわ
ふたりが離れている時にしか異常は起きていない。
一緒の時には何も起きていないならば、常に一緒にいればどうだろうか?
逆に二人一緒だと何も起きないかもな
もしくは変なものに襲われちゃうかもね
俺達は言葉少なめに食事を取る。
そのまま夜に備えた。
その時から異変は既に起きていたのだ。
……っ……
どこからともなく感じる視線。
それは……獣が獲物を狙う視線にも似ていた。
夜になっても寝る寸前までは何一つ変化はなくて。
俺達はテレビを消してそのまま寝てしまう事にする。
……私、怖い
言葉短めに千影は俺に話す。
いいから寝ろ。無事に明日を迎えられることを祈りながらな
ねぇ、慧
なんだ?
……へ、部屋中にお札を張ったせいで、雰囲気が出て怖くて寝れない
それはお前のせいだからな!?
自業自得だ、この可愛いやつめ。
恐怖とは目に見えないものを怯える事だ。
怖いと思う心が更なる恐怖を招いてしまう。
悪循環を止められない。
ベッドに寝転がりながら、天井を眺めていた。
電気はつけっ放しで寝る事にする。
暗闇は視覚的恐怖を倍増させるからな。
……おやすみ
無事に朝が迎えられますように
瞳を瞑ってしまう千影。
俺もゆっくりと目を閉じて、眠りについた。
どれくらいの時間が過ぎただろうか、俺はハッと目が覚めた。
時計を見ると深夜の1時過ぎ。
静まり返る室内につけっ放しの明かり――。
……雨?
ザーッとという雨の降りしきる音。
違う、それはテレビの方から聞こえていた。
俺が身体を起こそうとすると、千影の姿がない。
千影?
トイレにでも行ったのだろうか。
俺は気になってベッドから起き上がり、眠い目を擦りつつ、リビングに入る。
砂嵐状態のテレビがなぜかついていた。
そして、その前には人影がいる。
……
無言でソファーに座りながら、テレビを見ている千影がそこにいた。
……
テレビは砂嵐と呼ばれる状態で何も映像を映していない。
俺が雨の音だと思ったのはこの音だったのか。
何をしているんだ、千影?
電気は消えたままの室内にぼんやりとしたテレビの光だけが照らしている。
こちらの部屋の電気もつけていたはずなのに……。
俺が彼女の肩にそっと触れようとした時、
……愛してくれる?私を愛して欲しいの
俺の伸ばした手をぎゅっと掴んだ千影。
もう離さないというばかりに力を込めてくる。
なっ……!?
私は愛されたいだけ。貴方に愛して欲しいの
ちか……げ……くっ!?
愛して、あいして、アイシテ……――
愛してと連呼し続ける千影。
その瞳には生気がなく、ただの操り人形のように言葉を繰り返す。
どうした? 千影、おいっ。しっかりしろ、千影っ!
俺が彼女の身体を揺らすと、ハッと目を覚ますように彼女は意識を取り戻す。
え? な、何なの? 今の……?
正気に戻ったか?大丈夫か?
……うん。身体がボーっとして、何か分からないけど、気持ち悪いくらいに寂しくなって……痛い、心が痛いの……
大丈夫だ、千影……もう大丈夫だから
俺は千影を抱きしめて、落ち着かせる。
これ以上、ここにいてはいけない……俺に本能が警告する。
その時、テレビの電源がいきなり消えてフッと暗闇になってしまう。
……え?
なんで? くっ、ここを出るぞ!
マズイ、その直感のままに俺は千影の手を引いて玄関へと飛び出す。
け、慧……
いいから、ここから逃げるんだ。マズイ……
扉を開けようとドアのぶを回す。
ガチャガチャ、と何度回しても開かない。
……おかしい、扉が開かない?
どうして!?
知るかよっ。ちっ、何で……
閉じ込めらた?
鍵は開いてる。
開かない理由が分からない。
何で開けられないんだ!?
体当たりすれば?
くっ。そんなんじゃ無理だ
まるで外から誰かが押さえつけてるようにしっかりと固定されている。
ここが脱出するのは不可能だ、そう言うように。
だったら、窓から……?
……きゃっ!?
千影が窓辺を指差して叫ぶ。
……ダメだ、振り返ってはいけない。
俺は身体が震え上がりながら、後ろを振り返る。
――見てはいけない。
窓を何度も、何度も激しく叩きつける手が見えた。
――見てはいけない。
それは髪の長い女性の姿をしていた。
……あぁっ……
――見てはいけない。
その顔は青白く、生気を帯びていない。
憎しみという感情そのモノを表した形相だった。
……うぅ……
俺と千影は恐怖で何も言葉を放てない。
震えの止まらない足を両手で押さえ込むのが精一杯だ。
お札が貼られた窓が呆気なく叩き割られる。
散らばるガラスの破片。
そして、部屋へと“女性”は侵入してきたのだ。
……アイシテ……ワタシヲアイシテ……
もう、俺達は……逃げられない――。