ミハイルがきてから、一週間が過ぎた。

 最初はベッドから起き上がれぬほど弱っていたが、三日も経つ頃には、顔色も良くなり、一人で歩けるほど回復した。
 最近は、日中の大半を図書室で過ごしている。

 貧しい出自にしては珍しく、ミハイルは文字が読めた。
 今も、大きな本を両手に持ち、一途に視線を注いでいる。
 射光を浴びるミハイルの輪郭は、清らかな金色に縁どられていた。思わず見入ってしまい、メグは声をかけることを躊躇した。
 脅かさないよう、長机を手で、こんこんと小さく鳴らすと、ミハイルはぱっと顔を上げた。

あ、ごめんね。驚いた?

……

 言葉を忘れてしまったかのように、ミハイルは呆けた顔でメグを注視している。机に広げている新聞に眼を落とし、ああ、とメグは納得した。

……マガハラ大聖堂の記事、私も読んだわ。あの男、死んだのね

 王国新聞の隅には、小さくマガハラ大聖堂の聖職者の死が報じられている。

 死因は、原因不明の心臓発作。

 家族は詳細を明かしてはくれず、メグが真相を訪ねても素知らぬ顔をしているが、あの男が普通の死に方をしたわけではないと、メグには判っている。

これでもう、怯える必要はないわね

 家族の誰かが、ミハイルの為に暗躍してくれたのだろう。この少年が、二度と悪夢に怯えなくて済むように。

うん……

領民も安心して眠れるわね。と言っても、誰もあの男が犯人だなんて、思っていやしないのでしょうけれど

 でなければ、王都ルイ・ジャンを震撼させた殺人鬼の死が、こんな新聞の片隅に乗るわけがない。

……浮かない顔ね。どうしたの?

メグこそ、疲れた顔をしているよ

 指摘を受けて、メグはぎくりとした。
 七日前、地下で鉄扉を開いてからというもの、夢見が悪いのだ。どんな夢を見たのか、具体的な内容は覚えていないのだけれど……

……私のことはいいのよ。ミハイルのことを聞いているの

なんでも、ないよ

……

 なんでもない、という顔ではない。
 問い詰めようか迷っていると、ふと、新聞の横に置かれた記録紙に眼が留まった。カサンドラ国の歴史や経済の詰まった分厚い書物だ。

 開かれたページには、マガハラ大聖堂の処刑について書かれている……

そんなの読んで、楽しい?

うん、まぁ……

 ミハイルは、歯切れの悪い返事をよこした。

メグ

うん?

メグは、本当は人間じゃないの?

私は悪魔よ

 即答するメグを、ミハイルは物言いたげに見つめた。

何?

メグ、こんなことを言って、気を悪くしないで欲しいんだけど……

 ミハイルは言い辛そうに言葉を切ると、澄んだ翠瞳でじっとメグを見た。

君は、人間の女の子にしか見えないよ

知ってる

 ふて腐れ気味にメグが認めても、硬い表情を解かずに、ミハイルは半分瞑目した。長い睫毛が、顔に深刻そうな陰翳を落としている。

僕、君とよく似ている子を、知っている気がするんだ

私と?

メグを見ていたら、マガハラの事件を思い出して……そんなこと、あるはずがないんだけど……メグは……

 深刻そうにミハイルは呟いた。どうして、そんな顔をするのだろう。

……何? マガハラの処刑がどうかしたの?

……メグは、いつからルイ・ジャンで暮しているの?

え?

 静かな翡瞳を見て、訳も判らずメグの胸は騒いだ。応えられずにいると、ミハイルは発言を悔いたように視線を揺らした。

答えたくないなら、いいんだ。変なことを聞いて、ごめんね

あ、ううん……私ね、六歳より昔の記憶がないの。ここでの暮らししか、知らなくて

六歳……

私に似ている子って、誰?

……いや、僕の気のせいだったみたい。よく見たら、そんなに似ていないかも

ふぅん?

 不思議そうにメグが呟くと、ミハイルは優しげに微笑んだ。

メグがここの人達に、とても愛されているのは見ていて判るよ

 照れ臭そうにメグがはにかむと、ミハイルも小さく声を上げて笑った。

地下で会った時、シャルルの瞳が光って見えたんだ。すごく綺麗な顔をしているけど、魔性めいていて怖かった

 そりゃあ、悪魔だもの。と思いつつ、メグは相槌を打った。
 気を失っている間に城に運ばれたミハイルは、自分が空を飛んでいたことを知らない。悪魔達と一週間を過ごして尚、空想上の存在だと思っているようで、メグが悪魔だといくら言っても聞く耳を持たない。

でもメグを見て、なんというか、安心したんだ

悪魔っぽくないから?

 拗ねたようにメグが言うと、ミハイルは慌てて首を振った。

違うよ。清潔な格好をしていて、ふっくらしていて……恵まれた生活をしている、幸せな子だと思ったんだ。そんな子が、不思議そうに、僕を見ていたから

……ねぇ、ミハイル、ずっとここにいてくれる?

 俯き、頼りなげに呟くメグを見て、ミハイルは頬を染めた。メグの頬にキスをして、柔らかく微笑む。

僕もここにいたい

 彼を傍に置きたいと思うのは、メグの弱さだ。
 もちろん、遊び相手が欲しい気持ちもある。だが、それ以上に、自分より弱い者がいるのだと、傍で眺めて安堵したかった。彼には自分しかいないのだと、優越感に浸りたいが為。
 それに気付かず、メグははにかんだように笑った。

 ふと、空気が凍った。
 窓を開けていないのに、窓辺のカーテンが揺れる。突然、ミハイルは息苦しそうに喘いだ。

うぅぅッ

ミハイル!?

お姉様に近付くな

 シャルルらしからぬ口調に、メグの背筋は冷えた。

駄目!

 嫌な予感がして、ミハイルに伸ばされる腕を掴んだ。

ミハイルは嫌いです

 拗ねたような口調だが、瞳は少しも笑っていない。爛と輝く魔性の瞳には、見紛うなき殺意が浮いている。

殺しちゃ駄目

 はっきり注意するメグを、シャルルはじっと見つめた。ここにいてはまずい気がして、メグはシャルルの手を引いて部屋を出た。

お姉様、何を話していたのですか?

世間話よ

世間話って?

マガハラ大聖堂の話とか……私に6歳より昔の記憶がないこととか……

 足を止めて、シャルルを見た。
 茜射す黄昏の魔性をもらい受けて、シャルルはこの上なく美しい笑みを浮かべた。

へぇ……ミハイルは、何て?

別に、どうも……話の流れでここにいて、ってお願いしたら、いいよって言ってくれたわ

お姉様は、僕のお姉様ですよ

 なんだか、シャルルが怖い。背筋がぞくりと震えて、メグは両腕を摩った。蒼い瞳に怪しい光を灯して、シャルルはメグの方に顔を寄せた。

お姉様、いい匂いがします

え?

怯えているの?

……ッ

 夕闇に輝く瞳に、ぞわっと肌が粟立った。仰け反るメグを見て、シャルルは表情を和らげた。

変なお姉様。まるで、人間みたいですよ

煩い!

 誤魔化すように叫んだ。

 背を向けて駆け出すと、一目散にメグの私室に飛び込んだ。扉を閉めて、鍵もかける。
 今夜はシャルルに傍にいて欲しくない。

……人間じゃない。私は、悪魔

 誰に言うともなしに、口の中で小さく呟いた。
 心が重い――
 起きていても負の思想が止まらず、メグは早々にベッドに横になった。

 天使のような美貌に、シャルルが嘲笑を浮かべる。

怯えているの?

 ぞっとして目が覚めた。飛び起きると、ベッドの上だった。

はぁ、はぁ……

 べったりと、寝汗を掻いている。メグは顔をしかめて、床に足をついた。

 水を飲もうと思い部屋を出ると、応接間に灯りが点いていた。家族が起きているのだろう。

――もう、恐がらせたくないわ

 はっきり聞き取れないが、マリアリリスの声だ。うっすら開いた、扉の隙間にぎくりとしながら、顔を寄せる。そっと、覗きこんだ――

お姉様には、言わないで

ともかく、あの男をさっさと片付けちまおうぜ。これ以上、上位次元(ヘイルガイア)に浸食されたら、メグの記憶が開いちまう

……

 溜息をつくレオナルドの隣で、メフィスティが同意するように小さく顎を引いた。こんな時間に皆で集まって、一体、何の話をしているのだろう……

早い方がいい。今夜、殺そう

 淡々と応えるサタナキアと、扉越しに瞳があった。ぎくりとするメグを見て、瞳を優しく和ませる。

メグを最初に見つけたのは、俺なんだよ。とても美味しかったから、生餌にしようと思っていたんだ。でも――

 いきなり、サタナキアの声が耳元で聞こえた。背筋がぞっとして、メグは悲鳴を上げた。

うわぁッ!

 飛び起きたら、またしてもベッドの上だった。

 メグの寝室だ。誰もいない。外は暗い。

 心臓がバクバクしている。尋常ではないほど、寝汗を掻いている。全部、夢だった? どこから夢?

 即時に全身が総毛立つのを感じた。

お姉様?

ひっ

 思わず、小さな悲鳴が飛び出した。

シャル……?

悲鳴が聞こえたけど、平気? 入ってもいいですか?

う、うん

 ベッドから降りたメグの前に、シャルルはやってきた。

恐い夢を見たのですか?

……

 心配そうな顔をしている。ふと、その眼差しが、メグよりも高い位置にあることに気付いた。

シャル、背伸びた?

そうですか?

……

 とうとう、シャルルに追いこされた。あっという間に、追い抜かれてしまう……

……

お姉様?

本当のことを、教えて。私は、人間なの?

お姉様……

 悲壮感を漂わせて涙するメグを、シャルルは優しく抱きしめた。

……人間なの?

お姉様は、お姉様ですよ。悪魔でも、人間でも、僕の大切なお姉様です

どこまでが夢なの? 皆で私のこと、人間だって話してたでしょ? そうだよね?

……

私、やっぱり、ママとパパの本当の子供じゃないんだ……

お母様もお父様も、お姉様のことを愛していますよ

 メグは瞳に涙をいっぱいためて、天使のように微笑む、悪魔のシャルルを睨んだ。

シャルなんて大嫌い!

 激情のままに、吐き捨てた。

 息苦しいほど空気が重くなる。シャルルの見開かれた瞳に、魔性が宿る。
 魅入られる――
 本能的な恐怖から、眼を背けようとしたら、伸ばされた手に両頬を包まれた。
 吐息が触れるほど、顔が近付いた。唖然とするメグの顔が、光彩を放つ瞳に映っている。

お姉様は悪魔じゃない。人間ですよ。鎖に繋がれているお姉様を、兄様が見つけて連れ帰ったんだ

えっ

お姉様の悪夢はとても美味しいから、僕達皆を虜にしてしまう。けど――

な、何言ってるの

 かたかたと震えるメグの肩を、シャルルはきつく掴んだ。

悪夢が魅力的なだけじゃない。お姉様が人間でもいい。僕はお姉様が――

やめてよッ!!

 両手をきつく握りしめられる。振り解こうとしても、敵わない。

――ッ

 唇を塞がれた。ふつりと、メグは意識を手放した。

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