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遠い星。遠い世界――カサンドラ国。
産業革命を迎えた、一四五〇年以降。
太陽神ガリーを信仰するカサンドラ国は、疫病、貧富格差に喘いでいた。
貧しい人々を励ます、新興宗教ベルティ教が急速に力を蓄え、帝国の権威者達は、彼等がガリー教社会の転覆を目論んでいるとして、厳しく弾圧した。
異教徒狩は国全体に広まり、特に王都では猖獗を極めた。なんら罪のない健常者が、異教徒として捕えられ、拷問の果て火刑に処されたのだ。
この残虐非道は、五〇〇年に渡り人々を苛んだ。
犠牲者は一〇万人以上とも言われている。
一九九〇年。暗黒時代の黎明。
時の皇帝、アウグリタニアは人々を残酷に殺してはいけない、と法で定めた。
一九九六年。現代。
迫害は縮小しつつあるが、王都ルイ・ジャンの一角では、今なお続けられている、悪しき風習である。
メグには、六歳よりも昔の記憶がない。
一番古い記憶は、滑らかな絹の手触りだ。それから、薔薇の香り。
眼が覚めて、呆然と真鍮で縁どられた円蓋の天井を眺めていた。自分の名前すら思い出せなかった。
コチ、コチ、コチ……規則正しく、古時計が針を刻んでいた。
呆然自失して天井を眺めていると、美しい女性がやってきた。
白銀色の睫毛に縁取られた青い瞳には、金色の星屑が散っている。魔性めいた瞳を持つ、絶世の美女だった。
ワインのように濃い赤色の修道服に身を包み、頭髪は揃いのベールの中にきっちりと収めている。
傷一つない繊手で、メグの髪を優しく撫でた女性は、マリアリリスと名乗り、メグを自分の娘だと言った。
とても怖い出来事が起こり、メグは自分の名前も判らぬ、記憶喪失に陥ったのだと……
到底信じられなかったが、マリアリリスは平凡な容姿のメグとは似ても似つかぬ美しい家族、彼女の夫と二人の息子をメグに紹介した。
その日から、メグは家族と共に蒼古な城で暮している。
家族は只人ではなかった。
神にも等しい存在。夜な夜な、眠る人間に悪夢を見せて、下劣な悪の念、或いは恐怖を貪る大悪魔だった。
彼等と違い、メグは空も飛べなければ、悪夢も操れない出来損ないであったが、優しい父と母、二人の兄に甘えて、メグは幸せに暮らしていた。
けれど――
弟が生まれてから、メグの心境は一変した。
現在、メグは一〇歳。
だというのに、去年生まれたばかりの弟に、たったの一年で何もかも追い抜かれてしまったのだ。
弟は、マリアリリスと揃いの白銀の髪に、宝石のような碧眼を持ち、それはそれは美しい容姿をしていた。なにより、背に黒い羽、対の角を持っている。
そのいずれも、メグは持っていない。髪も瞳も焦げ茶色、体型は少々ふっくらしていて、背は低い。羽もない。角もない。超常の力は欠片もない。
大人になれば……そう自分を慰めてきたが、十歳になってもメグがなしえないことを、たった一歳の弟は、全てやってのけてしまった。
これまで卑屈になったことなどなかったのに、弟が生まれてから、初めて嫉妬の念を抱いた。
弟は、メグをお姉様と健気に慕う。
そんな愛情が、時に嬉しく、また鬱陶しくもあった。
埒もない思いに耽っては、ため息をつく日々。
幼心に考えてしまうのだ。
果たして、自分は本当に家族と血が繋がっているのかしら、本当に悪魔なのだろうか……と。
蒼古な城の奥深く。
天蓋のベッドで、メグは休んでいた。規則正しく胸を上下させて、優雅に午睡を貪っている。
夢の中で、悪魔のように闇夜に姿を眩ませ、喧噪の街を眺めながら滑空していた。
お姉様
唐突に、弟のシャルルが現れた。黒い翼を羽ばたかせ、断りもなくメグの隣に並ぶ。
何よ
素敵な夢の終わりを知り、メグはがっかりした。
白銀の髪に蒼い瞳。相変わらず、精巧な人形のように美しいシャルル。
全く、勝手に夢に現れないで欲しい。
あるはずもない翼がメグの背にあるから、これは夢だと判ってはいたが、面白くない。もう少し、この甘美な世界に浸っていたかったのに……
おやつの時間なので、呼びにきました。今日はホットケーキだそうです
うむむ……
ホットケーキは大好物だ。目覚めたい欲求に駆られて、メグは唸った。
ね、起きてください
先に行っていて。すぐに起きるから
つんと顎を逸らしてメグが言うと、シャルルはメグの頬にキスをしてから姿を消した。
あーぁ、もう……
独りごちながら、メグは眼を開けた。
薄紗の垂れた天蓋が視界に映る。すっかり見慣れた、メグの私室だ。身体を起こした拍子に、思わずぎくりとした。
クローゼットの扉が、ほんの少しだけ開いていたのだ。眠る前に、確認したはずなのに……
昔から、なぜか隙間が苦手だった。
理屈ではない。あの細い隙間、視界の悪い暗闇の奥に、何か想像もつかない恐ろしい世界、不吉な何かが潜んでいるような、そんな嫌な予感に襲われてしまうのだ。
寝癖はそのままに、きっちり隙間を閉じてから、部屋を出た。
パーラーへ降りると、お行儀よくシャルルが肘掛椅子にかけていた。
寝癖のついたメグを見て、にっこりと微笑む。
無邪気な笑みを見て、メグはムッと顔をしかめた。
最近、メグは苛ついている。シャルルのせいだ。
去年生まれた弟は、たった一年でメグを追い抜いた。メグにはない、家族と揃いの黒い翼と角を持ち、闇夜に紛れて夢を支配する。
正直なところ、格下と見なしていた弟が、悪魔の力を操れることが妬ましかった。
無愛想で着席し、ホットケーキを突きまわしていると、シャルルは不思議そうに首を傾けた。
お姉様。ホットケーキ食べないのですか?
全く。ついこの間まで、あーうー喋っていた幼児が、随分と巧みに喋るようになったものだ。
食べる
気のない返事をして、きつね色の生地にフォークを突き刺した。甘い味が口の中いっぱいに広がり、忽ちメグは夢中になった。
お姉様、シロップがついていますよ
言うが早いか、手を伸ばしてメグの頬に触れる。シャルルはシロップを指で取ると、躊躇いもせずに口に含んだ。
最近は、シャルルの方がメグの面倒を見ようとする。弟のくせに、とメグはしかめ面になった。
いいの
そっぽを向くと、いいの? とシャルルは可笑しそうに聞き返した。
私、部屋に戻る
綺麗に平らげて、ゲスト・パーラーを出て行こうとすると、シャルルもついてきた。
お姉様、一緒に遊びましょう?
いい。一人で遊ぶ
そんなこと言わないで。遊んでください
ついてこないで
手を払うと、シャルルは傷ついた瞳をした。
……お姉様、一緒に遊びましょう?
縋るような瞳でメグを見た。すると、先ほどまでの腹立たしさは薄れて、遊んでやるか、と寛容な心が戻ってきた。
……仕方ないなぁ。何するの?
夢を覗きにいきましょう
表情を綻ばせて、シャルルは嬉しそうに提案した。
眠っている人間の夢に忍び込んで、その世界をすっかり滅茶苦茶にしてしまう遊びのことだ。
いいよ
その遊びは、メグも気に入っている。微笑むと、シャルルもにっこり微笑んだ。
早速、メグの寝室に戻ると、並んでベッドの上に寝そべる。
シャルルは眠る必要はないのだが、メグは眠った状態でないと、意識を飛ばせないのだ。いつものように額にキスが落ちると、忽ち睡魔に襲われた。
さぁ、お姉様
心地よい微睡の中、宙に浮いたシャルルに手を引かれた。身体をベッドに残したまま、意識だけが浮き上がる。
ふわふわした、抽象的な世界。
あらゆる人間の意識に接続できる、平常次元とは異なる上位次元(ヘイルガイア)だ。
二人はいったん急上昇をして、靄かすむ宙で停滞した。まるで雲の上に漂っているかのよう。
どんな夢がいいかなぁ
メグは眼下を見渡した。
蝋燭の灯のように、夢の欠片が無数に瞬いている。一つ一つが人間の見ている夢だ。
楽しい夢、変てこな夢、恐い夢、哀しい夢、贅沢な夢。よりどりみどりだ。
古い発着駅にぼうっと立ち、今にも飛び込もうとしている男の夢に、メグは惹かれた。
あの夢、楽しそう
電車に乗りたいな、そう思いながら見ていると、ふと気になる夢を見つけた。
古びた文字で、ロワル貯蔵庫と書かれた建物の地下……鉄錆の牢屋に閉じ込められ、絶望している少年の夢だ。
お姉様?
無言で注視するメグを見て、シャルルは不思議そうに問うた。
……最近、ああいう夢が多いね
王都は、切り裂き魔の話題で持ちきりです。良質の恐怖が蔓延して、良いことですよ
天使の如し清らかな顔で、シャルルは残酷に嗤った。
ずっと気になっていたのよね。覗いてみない?
お兄様達に叱られますよ
もう、いい子ちゃんなんだから
王都を恐怖に突き落とした、切り裂き魔事件。
ことの発端は、半年前。
五歳の少女と七歳の少年が見るも無残な斬死体で発見された。
眼を覆いたくなるような死に様は、五年前に廃止された異教徒狩りの処刑を彷彿させるという。
その後も、犠牲者は後を絶たず、既に七人の少年少女達が、幼い命を散らしている。
犠牲者の大半は、家を持たない貧しい路上暮らしの子供であった。
法の番人、警邏兵は躍起になって犯人を捜しているが、今なお見つかっていない。死体が増えていく不気味さに、カサンドラ国全土が震撼していた。
私達は悪魔なのよ。人間ごときに殺られるわけないじゃない
強気に吐き捨てるメグを、思慮深い眼差しでシャルルは見つめた。何よ、と視線で促すと、生誕二歳にも満たぬ弟は大人びた笑みを浮かべた。
お兄様達は、お姉様のことを、とても心配しているのです
今更、どんな怖い夢を見たって、泣きやしないわ。隙間の方がよっぽど怖いもの
でも、言いつけを破れば、絶対に叱られますよ
……
夢を覗くことは許容されているのに、見て良い夢を制限されるのは納得がいかない。しかも、その判断をシャルルにされなければならないなんて。
お姉様、あの夢はとても美味しそう
機嫌の下降したメグに気付かず、シャルルは青い瞳をきらりと輝かせた。
食欲を刺激されたということは、夢を見ている人間は、さぞ業深い生を貪っているのだろう。
夢の主は、着飾った美しい女だ。
豪奢な部屋で、男を傅かせ、血のように赤いワインを飲んでいる。大きなアンティークの鏡を時折覗いては、己の美貌に酔っている。
フン。綺麗だけど、あの女はきっと意地悪ね。自惚れ屋で、他人の痛みに鈍感
ふふっ
二人は見つめ合い、悪戯めいた笑みを浮かべた。亡霊のように、女の傍に忍びよると、メグは耳朶に吹き込んだ。
とびきり怖い夢を見せてあげる
ッ?
女は眼を見開いて、肩を撥ねさせた。困惑したように彷徨わせる視線が、メグ達を捕えることはない。ここは夢の世界。悪魔の支配領域だ。
どうしますか?
ぞっとする姿に変えちゃえ
メグが意地悪く笑うと、シャルルはにっこり笑った。
ほっそりした女の姿は、ぶくぶくと膨れ上がり始めた。見るも無残な、醜い姿へと変わっていく。
ひっ!?
煌びやかな部屋は暗闇に落ち、傅いていた男達は嘲笑を口元に刻んだ。
鏡に映った姿を見て、女は世にも恐ろしいモノを見たかのように、顔を恐怖に染めた。
何でッ!?
ぶくぶく、どんどん膨れ上がっていく。肉の塊。
その姿の方が、お似合いよ
嘲弄を含んだ呟きは、もはや女の耳に届かない。
絶叫する女を見て、メグは吹き出した。
無力な人間を見るのが好きだ。
人間に限らず、相手の運命を完全に支配し、全能の悪魔のように振る舞える瞬間が好きだ。胸がすっとするし、この時ばかりは、家族の一員だと思えるから。
昏い至福に浸るメグの隣で、シャルルは恐怖の念を旨そうに貪っている。口を開けているわけではないが、食事していると判る。
視覚の曖昧な世界で、シャルルの背中に黒い翼が見える。頭の左右には、弧を描く揃いの角。彼の、真の姿にかなり近い。
あー、美味しかった
しばらくして、シャルルは満足そうに笑った。
いつも思うんだけど、人間の恐怖ってそんなに美味しいの?
はい
ふぅん
メグは不得要領に頷いた。眼に見えぬ恐怖で腹の膨れないメグには、判らない感覚だ。
でも一番美味しいのは……
?
言葉を途切らせるシャルルを、メグは不思議そうに見た。小首を傾げて促すと、なんでもありません、と意味深に微笑んだ。
何よ?
言っても怒りませんか?
そう思うなら言わないで
もうちょっと、他の夢で遊ぼ
さらりとメグが流すと、シャルルは瞳を瞬いただけで、すぐに頷いた。
二人は、その後も何人かの夢を強制的に悪夢に変えて、恐怖する姿を見て嗤った。