広大な敷地。
まっすぐに山の中に伸びる一本の路。
その左右は深い森になっている。
その中をひとりの人間が歩く。
クッキーも一緒だね
わん
ひとりの人間といっぴきのナンバープレートが歩く。
変わらず気温は高いけれど、
緑に包まれたこの路は
今まで歩いた他の路よりもいくらか涼しい。
ような気がする。
カンカンと照りつける日は緑に遮られて、
森の香りがする風が心地いい。
そしてなにより、
これから「霊園」に向かうという事実が
いちばん身体を冷ましてくれる。
セミの声だけが
夏の暑さを代弁するように響き渡っていた。
路は緩やかに右へ曲がりながら
山肌に沿って空へと向かう。
大霊園は山のあちこちに作られたお墓を
路で繋いで作られているみたい。
区画Lの前を通りぬけて、
わたしは坂道を進んでいった。
優しい青色。
繊細な緑色。
もこもことした花のかたまり。
路のあちこちにアジサイの花が咲いている。
綺麗だけど何か不思議な見た目。
アジサイの花はぽっかりと浮かぶように
山のあちこちを彩っていた。
区画Fから区画Cへと抜ける小道。
休憩所の横に作られた石畳を
涼しい風と共に通り抜ける。
足元にはちいさな青い花がいっぱい。
石畳の隙間には競うように雑草の花が開く。
ぽんぽん丸いアジサイが道を塞いでたり、
ちいさな木に赤い花が逆さまに咲いてたり。
不思議に鮮やかな庭を靴音と共に進んでく。
お墓だね
区画C
アルファベット順で前の方の区画は
一つ一つがとても大きい。
ここは大霊園の名前通りに、
たくさんの長方形がずらっとキレイに並んでいる。
灰色、黒色、茶色の塔がいっぱい。
日本っぽくない世界だなって思う。
いや、むしろ日本っぽいのかもしんない。
くんくん
ヒヤリとした独特の空気。
白くて堅い石畳。
隙間を踏まないように跨いで進んでく。
目的地は無機質な列の一番奥。
滑らかな石の列に見つめられながら、
わたしはズンズン歩いて行く。
ふと、
刻まれた名前が自分と同じ石を見つけた。
どれぐらい前に作られたのかわからないお墓。
白っぽい灰色で、少しコケが生している。
知らないお墓。知ってる名前。
このひとつひとつが、
もしかしたら縁があったかもしれない人なんだ。
わたしが、今日、ここを通る。
これも何かの縁だって言えるかもしれない。
……
頭を下げて、眼を閉じる。
祈る言葉は何もない。
ただ、それだけ。
それだけでこの石の世界が優しくなった。
ような気がした。
進む。
目指す場所はたぶん近い。
そんな気がする。
右手の中、クッキーの体温が暖かい。
お墓の列のその端っこ。
すぐ向こうは崖になっていて、
大きな空が見える場所。
そこにあるお墓の名前を確認する。
さっき見た表式と同じ苗字が書かれていた。
大きなお墓。
表面はでこぼこしているけれど、
柔らかな灰色はとても綺麗。
大切にされているんだろうなって思う。
右手を開く。
わたしの手のひらの上に
茶色くて
ちっちゃくて
毛がムクムクしているクッキーが座っている。
黒くてまんまるい目。
じぃーっと、上目づかいで、
わたしを見ていた。
ついたよ
クッキーは何も言わない。
お墓の横に立ってる平たい石に
たくさんの名前と年代が書いてある。
これがこのお墓の歴史で、
このおうちの歴史なんだよね。
一番新しい日付は今年の3月。
名前は―――。
―――
わたしがその名前を口にすると、
右手の中でクッキーがびくりと震えた。
……
右手にクッキーを乗せたまま、
左手を立てて眼を瞑る。
名前しか知らないキミへ
お辞儀をした。
銅製のナンバープレートを
お墓の台のような部分にゆっくりと乗せた。
クッキーはその上で窮屈そうにお座りをして
こちらを見ている。
お別れは言葉にしたくない。
わたしは右手を軽く振って、
声を出さずにお別れを告げた。
クッキーもパクパクと口を動かして返事をすると、
最後に頷くように下を向いて眼を伏せた。
ような気がした。
……
わたしは来た道を引き返した。
夕方が近づいてきた。
木々に囲まれた区画C
さっきよりも薄暗くなったような気がする。
いそご……
世界を包むように響いていたセミの声が
いつのまにか遠くなっている。
ジィジィという夏の鳴き声と
シィンという静寂が同時に聞こえる。
ような気がする。
石畳を急ぐ。
霊園の冷たい空気、すでに寒さすら感じるぐらい。
響く足音も気にせずに速足で進む。
カッカッカッ――
自分の足音と
遠くから響くセミの声と
痛いほどに聞こえる静寂の音と
みっつの不快和音の中に新しい音が聞こえた。
ような気がした。
立ち止まる。
何の音なのかわからない。
お墓詣りに来ている誰かの声かもしれない。
どこかで鳥が鳴いているのかもしれない。
山の中だから動物がいるのかもしれない。
でも、とても気になった。
聴いた事がある、そんな気がしたから。
耳に手を当てて、音を探す。
セミの声に隠れて不安そうに
静寂に紛れるほど小さく
わたしの心臓の音に似た、生きた音。
くううん……
声だ。
クッキーの声。
崖に立つお墓の方へと向き直る。
いや、違う。
声の方向はこっちじゃない。
わたしはか細い声だけを頼りに、
声のする場所を探すことにした。
クッキー
いま迎えにいくからね
早く見つけてあげたい。
道を曲がって少し歩いては耳を澄ませる。
反対側に歩いて、同じように耳を澄ます。
何度も繰り返して少しずつ近づいていった。
C区画のお隣、F区画から次の区画へと伸びる道。
その道沿いに大きな石が置いてあった。
「慈」と大きく書かれた石碑。
横に建てられた看板によると動物慰霊碑というらしい。
クッキーはその慰霊碑の前に座っていた。
茶色くて毛がむくむくしている。
クッキー?
名前を呼ぶと、クッキーはこちらを見た。
しかし、すぐに視線を外す。
その眼はずっと藪の向こうを見つめている。
お墓の方向をじっと見つめている。
時折、
くうん……
悲しげな音が口から洩れていた。
クッキーは間違いなく犬だ。
だから、
目の前のクッキーはわたしを見ようとしない。
自分の御主人様を慕っているから。
ずっと違和感があった。
――
お墓に書かれていた名前を口にする。
クッキーはぴくりと耳を動かしただけ。
何も言わない。
こちらを見ようともしない。
当然だと思う。
クッキーは犬だから、人間の名前はわからない。
待ってて
名前に反応したということ。
つまり、
一緒にここまで歩いてきたクッキーは犬ではない。
わたしは赤く染まりだした参道を駆ける。
クッキーの鳴く声だけが耳に残っている。
転ばないようにしないと。
そんな事をぼんやりと考えながら走る。
森の木々の向こうに真っ赤な陽が燃えている。
お墓にたどり着くなり
ナンバープレートを鷲掴んだ。
クッキーに会いに行くよ
右手の中に熱を感じる。
返事を待つことはせず、わたしは歩き出した。
アナウンスが聞こえる。
「当園は午後6時を持ちまして~~」
構うものか。
門が閉まったなら、山を歩けばいいのだから。
F区画を抜けて、動物慰霊碑へ。
慰霊碑の前にお座りするクッキー。
その前に立って、右手を開いた。
茶色くてむくむくした毛並の犬が2匹。
そっくりだけど、決定的に違うところがある。
右手に居るクッキーは子犬だけど、
目の前に座るクッキーは立派な成犬だった。
大きなクッキーが小さなクッキーに鼻を寄せる。
小さなその前足で優しく鼻を撫でていた。
わたしはその小さな背中に指を当てて、
軽く撫でながら聞いた。
ねえ、あなた――くんだよね
クッキーは小さな耳をピンと立ててから、
可愛いキバの並んだ口を開いた。
まだ小さな男の子の声だった。
子犬を飼ったこと。
重い病気になってしまったこと。
子犬を親戚に預けて、入院したこと。
3年間の入院生活。
そして、その最期。
もう一度だけ、遊びたかったんだ
そう言って、
――くんはクッキーの頬に体をすり寄せた。
お別れは言葉にしたくない。
だから、この話はここでおしまい。
わたしはおとしものを届けに来ただけだから。
なにかなこれ
交差点に落ちていた万年筆。
持ち主さんの名前らしきものが刻んである。
右手に持っているだけでも、
大事にされていたんだろうなって思いを感じる。
空を見上げる。
まだ陽は高い。
んー、行きますか―!
万年筆を右手に握って、目を閉じる。
んんんーと念じる。
小柄なおばあちゃんの姿が見えた。
ような気がした。
わたしのちょっとした特殊能力ってやつである。
歩きだす。
終